古いヤマの歴史

 唐津には現在のヤマ″の出来る以前にもヤマ″があった「寛文年間(一六六一−)より御神事が行われ、寳暦十三年 (一七六三)土井利里城主時代には惣町より傘鉾山が奉納された。これはカツギヤマ″といい、各町の火消組が担いで西の浜へ御神幸のお伴をした。城主も行列を整えて随行していた。それから二年後の明和二年に、今日の鳳さん型の御神輿が新調された。この御神輿は大阪住吉宮のものと同型でその二級品くらいであったという。次の水野侯時代にはカツギヤマ″から車のついた走リヤマ″に変って来た。江川町の赤鳥居″は常に神前にあるため行列の先頭に進み、本町の左大臣右大臣″木綿町の天狗の面″塩屋町の仁王様″京町の踊り屋台″などが出来た。
 しかし文政二年(一八一九)小笠原長泰が城主となったとき、一番山の刀町赤獅子″が作られた。当時刀町の住人石崎嘉兵衛がお伊勢謂りの帰途、京都の祇園山笠を見て帰ったのち大木小助らとこのヤマを作ったと伝えられ、ヤマの内側にその作者名が添書されている。
 当時、世相は庶民文化はなやかな文政年間であり、唐津領は水野時代の圧政から小笠原氏に替り、領内の気分も一新した時であった。刀町のヤマに次で、各町競って金銀丹青に輝く現在の漆の一閑張りのヤマが完成した。しかし安政六年の神祭までは、本町の金獅子″まで完成していたので、その当時の記録によれば、一の宮の御神輿にはまだ走リヤマ″であった江川町、塩屋町、木綿町、米屋町が従ってワーツと走り出し先行の大名行列と御神輿に追いつけば停って壊された個所をコトコトと修繕しまたワーッと走っていた。これをため曳き≠ニいっていたそうである。京町の踊リヤマは町内の娘を屋台に乗せ町々で踊を披露しながら通って行った。その後に二の宮の御神輿が静かに進み絢欄たる刀町の赤獅子、中町の青獅子、材木町の浦島、呉服町の義経の兜、魚屋町の鯛、大石町の鳳凰丸、新町の飛龍、本町の金獅子と平安の雅楽から採ったと想われる囃子に合せて床しく秋の光に 金銀を輝かせながら威勢よく巡幸に従っていた。

末盧国(昭和38年10月20日刊)

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