石井忠夫著
明治・大正の唐津
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| 著者のことば 石井忠夫 唐津商工会議所の機関紙に載った私の雑文が、同会議所創立四十周年の記念刊行物として出版されることは、私にとって無上の光栄である。 私は生れは佐賀の蓮池町だが、明治四十五年以来、唐津に住みつき、今年で既に六十年余になる。思えば唐津とのつき合いも、全く長いものだ。この長い年月のうち、慣れない事業に手を出したこともあり、また唐津市図書館長を仰せつかり、約十五年程、勤めさせていただいたが、そもそも私の人生の出発が、新聞記者だったから、これが私の習性となって今に至っているようだ。 私の天性のヤジ馬根性も、ここら辺に胚胎しているものであろうか。まあ。それだけに唐津の移り変りが、特に気になり、格別深い興味を抱いたものといえる。 大正ごろの町政から、昭和七年の市制施行以降と一連の唐津市政も、何かと表舞台とともに、その裏も、見たり、聞いたり、調べたり、と或る意味では、町政市政と共に歩いて来たともいい得る。大体、地方自治体も、要するに人の集団であって、喜怒哀楽は勿論のこと、善悪功罪とともに名誉欲金銭欲などの世俗的なものが、織り成す、極めて人間臭いものであることは否定されない。これが即ち斬れば血の出る生きた集団としての地方自治体の真姿であり、また歴史であろう。かって私が見聞したり、体験した唐津の歴史を振り返えり、その時、その時の歴史の一齣(こま)を、知ってもらうことは、あながち無駄でなかろうと思い、古い資料をあさり、また薄れ行く記憶の糸をたぐり、雑文として商議ニュースに寄稿した次第である。これらが、今般まとめて刊行されることは、今や老骨を横たえている私にとって望外の喜びとしているところである。 なお終りに臨み唐津商工会議所のご厚志と各方面のご交情に対し衷心からの感謝を申し上げたい。 【著者略歴】 ∇出生 明治二十年七月十八日、出生地旧神埼郡蓮池町(現佐賀市) ∇学歴 旧制佐賀中学卒明治三十八年三月、早稲田大学卒明治四十三年三月 ∇職歴 佐賀市西海新聞支局入社明治四十四年、同社唐津本社勤務、唐津へ転住明治四十五年、同社在勤大正八年まで、その後、松浦毎日新聞発行、同廃刊後、電気企業所創設経営、唐津近松座、湊劇場電気工事請負、有浦発電所同上、のち鉄工業経営、航空普及会主宰(自昭和六年、至同十二年)、 唐津市図書館長(自昭和十五年、至同三十年)、以後自適 (後記昭和四十九年十二月十七日逝去) |
| 序 文 竹尾彦己 人は、ある時、月日の流れの迅さに一驚します。星霜の過ぎゆきは常に忘却を伴っている。しかし、価値あるものは、人の営為にかかわらず永く記憶にとどまってゆく。 この度、当所の創立四十周年を記念して故石井忠夫さんの貴重な業績を残す本を上梓できたことは、郷土明治、大正、昭和初期の好資料として永く残るものと信じます。 石井さんは、時々会議所でもお目にかかったことがありますが、人も知る通りの一見古武士的な風格を備えられた方で、硬骨のジャーナリストとして半生を過された年輪が直感されました。しかもあの米寿に手の届くほどの高齢にかかわらず記憶力明晰で、数年に亘り、当商工会議所の為に健筆を揮っていただいたことは、真に感謝に堪えない次第であります。 この刊行を病床でひたすら鶴首されたものを、色々な事情で間に合わせることが出来ず、本当に相済まなく存じます。やっと石井さんの御霊前に供することになりました。 出版にたづさわった関係諸氏のご労苦に対し敬意を表するとともに、この本が江湖の皆様の机辺にて永く重宝されることを念じまして刊行の言葉にいたします。 昭和五十二年四月一日 |
発刊への讃辞 瀬戸 尚 今回唐津商工会議所が創立四十周年の記念事業として、石井忠夫氏の旧稿をまとめて出版されることは、まことに時宜を得たもので欣快の至りであります。 石井氏は葉隠れの地、佐賀のご出身でありますが、早稲田大学をご卒業後、当地域の風土を愛して居を唐津に定められ新聞記者又は新聞経営者として、当地を中心とするジャーナリズムの世界で縦横にご活躍、さらに、電気関係や航空関係の事業に携わられて開発思想の普及に努力され、また十五年の長期間に及び唐津図書館長として、文運の振興のために挺身された硬骨の指導者であり先覚者であります。 本書は、氏が昭和四十二年から四十七年の間に会議所ニュースに連載された随想、論評をまとめたもので、豊富な資料を駆使し、時流に媚びない識見高い、その筆致は、市政、経済、鉄道、学校、病院、唐津港生活環境等の広範囲にわたり、興趣あふれる唐津市発展の側面史となっております。先人の指導と努力の集積によって当市今日の発展がもたらされた事を思う時、本書の刊行は、唐津商工会議所の記念事業として、まことにふさわしいものであり、米寿のお祝い近い今日もなお、当市の繁栄を祈念されている石井氏の全容を、本書によって知ることのできるのは、わが郷土の人々が心からの喜びとされるところであろうと思います。 本書が唐津を愛する多くの人々によって愛読され、郷土愛のいよいよ深く盛んになることを期待してやみません。 石井さんと私 古舘正右衛門 石井忠夫さんと私は年齢が可成り開いているので、石井さんの壮年時代、一番新聞記者として活躍されていた当時の交遊はなく、またこれといった記憶はない。しかしその当時、街で時折は、着流して懐に無雑作に原稿用紙をつっ込み歩いておられた姿は見かけたものだ。その頃から、一種独特の風格を持った人との印象はあった。たしか、その当時、石井さんが四十歳ごろであろうか、新聞に歌のよく出来る女の方と、歌のやりとりを発表されていたのを見た記憶がある。 その後、唐津市の図書館長になられた以降は、私もよく存じ上げているが、その頃からの石井さんのことは、世間周知のところで、私から別に語るまでもあるまい。石井さんの性格は、人も知る通りに非常に個性の強い人で、また生一本である。こういう明治人としての土性骨を持って筋を通す人が少くなりつつあるとき、石井さんの存在は、ますます貴重である。 石井さんの記者時代の市政に関する知識や体験などを主とした商議ニュースの原稿が、まとめて発行されることは、生きた唐津市の裏面史を知るためにも甚だ有意義と思い、心から賛辞を呈したい。 (談話) |
| 石井さんのこと 井手以誠 石井さんとの出会いは、私が昭和六年正月唐津日日新聞に入社して間もなく、石井さんが確か松浦毎日新聞を主宰されていたころである。それから四十数年、人の一生には数少ない永い歳月の先輩、後輩の附き合い、いな私には人生の恩師である。 六年晩春のある日、突如唐津の上空に爆音を轟かせて飛行機が現われ、二、三十分低空を旋回、さかんにビラを撒かれていた。新聞社屋から眺めていた私に、アレは松浦毎日の石井さんですヨ、と教えられ、戦前の昔、高度恐怖症の気がある私には驚きであった。 後で聞いた話では、その日機上の石井さんは羽織に下駄履き、袂飜しての壮拳。石井航空常識普及会長の事績は、航空辞典に記録されるべきものである。私服の似合う石井さん、瀟洒な私服姿をアノ戦時中とうとう押し通したことは有名な話。権力や統制には無性に抵抗する反骨の侍である。 松浦毎日を閉じた石井さんは、唐津日日の社友というか、富永社長の御意見番というか、よく来社され、手不足の時には編集も手伝われた。そして勇み足の多かった私に、時に臨んで注意され、庇っていただいた。その恩顧から、家族との附き合いが今日まで続いている。 石井さんの新聞切抜きは、おそらく六十年にならう。私は四十数年、記録を争えるかどうか。石井さんは頭脳緻密、故事に明るく、私の処世に学ぶものが多かった。あるとき政治家富永さんに「君は知恵が多過ぎるから人に警戒される」と注意されるのを傍で聞いて脳裏に刻んだ。この一言は私の政治活動にいつも去来して、よい教訓となった。 ′石井さんは地方操觚界の、いわゆる一匹狼。自分の主張は、新聞ででパンフレットでビラで、よくもと思われるほど貫き通した。あるとき筆誅を加えられた人が石井さんに激しく詰寄るのを目撃したが、それでも次の新開には、筆硯を新たに追及していた。思う通り主張し続けられたことは、わが人生に悔いなし。何万人に一人もできないことである。 先日、米寿の祝いに参加して、アノ頑固ものの石井さんが、惚れ惚れするような柔和な顔になっておられた。この上の長寿と、よき伴侶であった奥さんの御健康を祈る次第である。 |
| 石井さんのこと 笹本寅 商工会議所の稲富政雄さんから、石井忠夫さんのことを、二枚以上五枚くらいまでに、まとめてかくように、とのことである。私にとって、石井さんは、大先輩だが、それも新聞記者ということにかぎられている。とにかく、石井さんを知ることは、古い。 石井さんのことを、われわれは、ガンドウさんとよんでいた。われわれというのは、あとで宮崎専一夫人となられた、中町うなぎ屋たけやの、長女千代子さんをふくめてのことだ。もう古いことで、そのガンドウさんのいわれも、ハッキリおぼえていないほどだが、石井さんが、千代子さんのことを「ガンドウ口をたゝく」 といわれたことにあったような思う。石井さんからハガキがきて、千代子さんのことを「ガンドウ口をたゝく」といわれたことに、端を発していたのではなかったか? そのことを、私に千代子さんからハガキがきたとき、千代子さんに、「石井さんから、ガンドウ口をたゝくと、いうて来られたバイ」と、電光石火のように、かいて出したのだった。 千代子さんは、石井さんがたけやの前を通られたとき、これも電光石火のような早さで、石井さんの利き腕をとるように、「ガンドウ口をたゝくとはなんけ?」 といったのだ。−石井さんは、それで利き腕をとられることになったのだった。 ○ 石井さんが、刀町の新町よりに住んでいられたとき、私は、しばしば訪問した。ハッキリおぼえていないが、このころ、石井さんは、電器のキカイを販売されていたのではなかったか、と思う。 石井さんは、頭の冴えた人であった。私が何かの拍子に、英語を音読するのをきいていられたが、「そのよみ方では、英語のイミがわかっていない。」と指摘された。そのとおりで、私はその英語のイミがよくわかっていなかった。 ○ 私は、唐津日々新聞から城内の、大島邸のすじ向いにあった唐津時事新聞にうつったが、時事新聞の主幹をしていられたのが、吉村福太郎氏で、その関係から、石井さんは、時々時事新聞に来られた吉村さんは、あとで奥さんの郷里福島へ越されたが、そうして九州日報社に、つとめられたこともある。さらに、そのあと、福島市外の西戸崎の、海軍の根拠地へつとめられ、私は、石井さんと吉村さんをたずねて、西戸崎へいった。私は、東京遊学中であった。 ○ 石井さんのおすまいの、唐津市新興町三〇〇〇ノ四には、大石町でハキモノ屋をしていられる小宮日吉さんのお供をして、時々うかがった。(新興町の前は、西寺町の大乗寺と熊の原神社のあいだであった。この西寺町のお宅には、しばしば参上した。) 私は、商工会議所に、唐津のことをかきたいと希望すると、いま、石井さんにおねがいしているから、希望にこたえられない、とのことだった。石井さんは、私とちがって、ものおぼえも正確だし、まことに適任なので、私は、よろこんでひきさがった。 ○ という具合で、石井さんは、同じ記者仲間の吉村福太郎さんと親しかった。吉村さんが唐津に来られると、中町のたけやでうなぎの蒲焼をたべるのを、つねとしたが、私が若い記者を同席させると、吉村さんの気に入らなかった。そうして、たけやでの、吉村さんとの会食も、そのときが最後となったが、私はものをはこぶのに、慎重でなく、オッチョコチョイで、失敗した。 ○ 私は、文章をかいて、もう半世記以上になる。さいわい、美しい唐津に生れ、育ったのだから、生きている限り、唐津の人と自然をかいていきたい。 唐津の人と自然で、まず第一に私の念頭にうかぶのは、唐津藩祖寺沢志摩守や、志摩守が(みどり)の使徒として開発し、こんにちまで繁栄している唐津の東の方にえんえんつづいている虹の松原である。 志摩守のことについては、唐津名店会の前田秀太郎氏に、貴重なことをうかがったが、次回唐津へいったとき、ききなおしたいと考えている。 ○ 私も、石井さんほど、長生きをして、いろいろ仕事をしたいとねがっている。 (おわり) |
| 石井さんの人となり 牟田真一 石井さんの性格や行跡を一口でいえば、気慨と気骨に富み、自分の主張を曲ず、筋を通して来た人といい得る。金銭欲や名誉欲には、極めて淡泊な人柄だが、一面、個性が強く、過去私とも意見が合わず喧嘩したこともあった。しかし根はないので、すぐ仲直りして、今に至るまでよくつき合ってもらっている。随方長い交情である。個性が強いことでは、人も知る名物男であった故木村幸太郎氏とは、石井さんもよく衝突したものだ。その場合の仲裁役は、常に私だった。唐津もだんだん、これだけの強烈な個性の人が少くなったのは、まことに寂しい。それだけに石井さんが、今後も長生きして欲しいと泌々と願っている。 石井さんの特質の一つとして挙げられるのは、こと市政に関しては、勇気を持って自分の主張を通して来たことだが、それだけに先見の明と信念には、いつも敬服して来たものだ。 過去いろいろのことがあったが、その一つの例を採ると、まだ今日のように公害が全国的な大問題にならぬとき、また唐津でも公害が耳新しい言葉だったが、石井さんは、卒先して、あらゆる機会にこの問題を採り上げ、意見を述べるとともに同志を求めて奔走したものだ。これは郷土として唐津を愛する石井さんの真情の発露と思うが、こうと思ったら人が何と思おうか、是が非でもやり遂げようとする石井さんの行動家としての現れでもある。 石井さんとの種々の思い出は、つきないし、語れば語り尽せない。唐津の生字引ともいえる石井さんの存命は貴重である。まだまだ長生きして市政を見守ってもらいたいと願っている。こんど石井さんの手記が刊行されることは、過去の市政や世情を、広く市民に知ってもらうためにも、大変有益であると信じ、大いに喜んでいる。 (談話) |
| 石井忠夫氏遺稿発刊のよろこび 岸川 欽一 この度石井忠夫さんの「思い出のトピック」が『近世唐津の歩み』として一巻に纏められ、発刊されることになり誠に喜びに堪えません。この遺稿は、唐津商工会議所の『ニュース』に寄稿されたもので、約六年間に亘り書き続けられたもので、昭和四十七年十一月号で終っています。私は当時商工会議所に勤務しおり、石井さんとは古く面識もあり、時折所に来所されていたので、近世唐津の余り一般に知られていない裏話でも書いていただけたらとお願いした次第でした。 石井さんは佐賀の人で、明治二十年生れ、唐津に来られたのは明治の末期らしく、当時新聞社長をしていた原孝徳氏外有志に招かれ新聞記者としてやって来られたそうです。唐津図書館には昭和十六年に入り、十九年より三十年まで館長を務めておられます。その間文化連盟新聞その他に度々寄稿されていたが、何時も本名を使われず、山中梅太郎或南隠士と云う変名を使っておられました。私が石井忠夫さんを知ったのは随分古いことで、私が中学一、二年生頃だったかと思います。当時から石井さんは和服の着流しで、時には袴をつけて時折父を訪ねて来られたので知っていた程度でした。 親しく話をするようになったのは私が商工会議所に勤めて後のことで、石井さんが時代の先端を取り上げておられたことは父や母から度々聞いておりました。 唐津で第一番に飛行機に乗ったり、又第一番に飛行機を唐津に持って来て紹介されたのも石井さんでした。後藤と云う飛行士が複葉機で西ノ浜(現大成小学校)の砂地で飛び、着陸の時波打際に突込んだこと等未だに記憶新です。又自動車やラジオの前身鉱石ラジオを唐津に紹介されたのも石井さんと聞いていました。その石井さんが何時も和服姿だったことは面白い対照です。 石井さんは佐賀蓮池藩家老職の家柄の生まれで、石井忠吉さんの八人の子供の長男で、早稲田大学に学ばれています。御夫人のニワさんは、佐賀米屋町大坪藤太さんの子女四人の中の次女として生まれた方ですが佐賀鴨打亀一郎氏の養女として育てられた方です。そしてその間三ヶ年京都の舞踊家へ、井上八千代師に内弟子として入り、井上流の本格的舞踊を習得されたのでした。京都祇園の『都踊り』の振付けは、現在でも井上家一手によるもので、私の亡母は石井夫人の踊りを『気品がある』と云ってほめちぎっていました。御両人が結ばれたことは多分恋愛ではないかと想像していたが、夫人の話によれば、石井氏の一本の恋文で結ばれたとのことです。 昭和四十九年十月十二日、町田川畔の島崎で、知人相寄り、石井さんの八十八のお祝を催しましたが、瀬戸市長を初め大勢の祝い客に囲まれ、石井さんは紋付、袴に威儀を正し古武士然とした中にも、はにかみ乍ら好々爺のような笑顔を見せておられた場景が今も尚深く印象に残っています。 石井さんは会議所ニュースの筆を折られて后、日々に体が弱られたようでしたが、この八十八のおお祝の后、僅か二ケ月后にこの世を去られて終まいました。昭和四十九年十二月十七日です。 あの苛烈な戦争中特高憲兵ににらまれ乍らも平然として、和服姿で通された石井さんではあったが、その精神は、書き残された『日々片語』の一言に良く現われています。 『乃木大将の死は、その生涯を大成にして、同時に偉大なる教訓と感化を与へし壮烈の行動たり、特に純潔の発現たり。キリスト教徒の之を批難するは予盾も亦甚し。』 更に昭和二十二年三月十四日に、発行されている『時事特報』に『自由を守った人々』第一回として『石井忠夫の巻』と云うものを偶々読みました。誰れが書いたものか判りませんが、石井さんが面目躍如として浮き彫りされていますので、敢えて転載させていたゞきました。御一読お願い致します。 この本は唐津商工会議所創立四十周年記念(昭和五十年)の一環として出される予定でした。然し四十周年の記念の催しは行われませんでした。 今日までこの出版が遅れたことは私の怠慢で、私に大いなる責任があり申訳ないことでした。 石井さんの御霊安かれとお祈り申上げると共に、御夫人の益々の御健祥を寿ぎ擱筆致します。 昭和五十二年四月 唐津商工会議所前専務理事 岸川 欽一 |
パナマ運河開通と唐津 何か書いて見ないかというおすすめを受けたが、今さら年寄りの出る時代でもあるまいとさしひかえていたが、先日貴誌の「貿易港としての唐津港の諸問題」という記事を見て、ちょっと一筆とって見ようかという気になった。将来の計などという大きなことでは勿論ありえないが、昔のおもい出の一こまを。 唐津港の海外貿易が始まったのは明治十六年、有田の人、松村新平氏が「公平社」という商社を作ったのに始まる。然し記録が残っていないので成績はわからぬ。好結果でなくて間もなく廃業したらしい。何でも当時はその都度申請によって長崎税関から係官が出張して来たらしい。それが明治二十二年になって、時の関税局長中野健明氏、元老院議官山口芳尚氏等が、唐津有志の運動を助けて、同年十一月十五日、門司、博多等と共に石炭特別輸出港に指定された。そうして満島の最西端松浦川口のところに税関出張所が出来た。そして大島小太郎、河村藤四郎、山崎常蔵其他数氏の「物産会社」と称する商社が出来、翌二十三年の貿易額が十万六千二百四十一円であったという。それから税関は、西唐津の現在の位置に移転色々な曲折があって、昭和十一年に第二種重要港湾に指定された。 その間、大正時代の発展はすばらしいもので、その中で特に頭に残るのは、あの巴奈馬運河との関連である。あの北米、南米をつなぐ巴奈馬地峡に運河が開通した。地球における正反対面にある唐津と巴奈馬、夢のような関係に聞えるが、あの運河が開通したのは丁度大正三年八月十五日、大西洋からその運河を通航して東洋に向う汽船が、日本の何港に寄るかは、当時港湾関係者の大きな関心事であった。その第一船が横浜、神戸、関門等ではなく、唐津に寄港したのである。十月四日、英国船ボルトンキャスル号というのがそれである。続いて中二日おいて同じくエバナ号が入港した。それから一ヶ月ばかり後れてベリューシャ号というのが初めて長崎に入港し、更に後れること約半ヶ月にして同じイシモサ号というのが初めて横浜に入っている。 そして翌四年夏、同運河が一部大崩壊して一時通航停止となるまで、同運河を通過して東洋方面に向った汽船のうちで、日本に寄航したもの五十余隻、その中で唐津に入ったのが実に十八隻に上っている。即ち巴奈馬を通航して日本に立寄ったものの中、約三分の一が唐津に入港したという事実が厳存する。大正三年は第一次世界大戦の始まった年で、財界不況が見えはじめた年、しかも唐津では石炭市況が甚だ良好、その年八月唐津到着が六万五千八百九六屯だったのに、十月には七万八千百七十九屯、更に翌四年三月には九万六千七百四十九屯に及んだというから、巴奈馬の関係が如何に大きな影響を唐津に与えたかがわかるであろう。 序でにいうと、当時比律賓は唐津石炭最大の華客であった。大正四年の統計によると輸出炭八万八千三百四十三屯となっている。 |
未完の朝鮮海峡トンネル 朝鮮海峡トンネルなどと云ったら、今の若い人には年よりの冷水とも言われるかも知れぬが、事実今から約三十年前に実現の第一歩を踏み出そうとしていた。事の始まりは大正の末年頃、杉山町長が唐津発展の為めに朝鮮海峡トンネルを提唱したが、時代のズレが甚しいために問題にもならなかった。 ところが昭和十二年頃、関門トンネルが愈々成功しかかると共に、唐津でも一部識者の間で取上げられ、十三年には佐賀、唐津両商工会儀所会頭連名で関係各大臣に陳情、十四年の二月には唐津市会が朝鮮海峡トンネルに起点誘致を可決、委員をあげて上京、鉄道其他関係各省に運動、前田鉄道大臣は「必要は認めるが技術と費用の点で調査を要する」と答弁、続いて佐賀、長崎、熊本、福岡の全代議士が建設運動にのり出し、十四年度の国庫予算には八十万円の調査費を計上して愈々表面に出て来た。 そして十四年四月鉄道省青木参与官が下調査のため西下し、はじめは内地側起点を博多と唐津の何れかとし、壱岐、対馬を経由するものと、別に巨済島から馬山に渡るもの三案あったが、結局、唐津を起点とし、唐津、壱岐、武生水間二六粁七、壱岐から対馬を経て陸上海上を合せて総距離一九八粁四、玄海は荒海なので一年間で実測できるのは春から夏にかけての五カ月間にすぎず、調査だけに約三年以上を要する見込み。愈々昭和十六年四月八日夜、其道のベテラン渡辺貫博士が唐津に到着した。 そして呼子町の小友の最北端鞆神社横を起点とし、同年五月十九日同博士も乗船して海中人工地震の第一弾が打出された。此の弾性波式地質調査は、普通人工地震と呼んでおり、海底にダイナマイトを爆発させ近距離の地点又は船上にラジオビーコンを装置し、爆破船、連絡船、記録船を配置し、その震動をロールフィルムにとり、フイルムに現われた震動の巾や高さの変化によって、海底の地質、断層の有無を記録判断する装置で、其結果によって本設計に取掛るもので、関門海峡だけでも前後十余年をかけた難事業である。 工事竣工には少くとも二十カ年はかかる見込であったが、当時朝鮮は日本の領土、日本が大陸とをつなぐ第一通路として、相当大きな期待がかけられていた。 然るに意外、当時華々しかった支那事変における陸軍の戦果に対し、極めて一部の海軍首脳側で、戦費の偏りと共に太平洋海戦の計画が進みつゝある際、海底爆破が無線通信を妨害するといった非難的な議論がおこって来た。勿論之れが平和時ならば問題にならなかったろうが、時が時、鉄道省とて真向から太刀打が出来ないで、いつとはなくションポリ先細りに中止されてしまった。気負い立った渡辺貫博士も遂に及ばず、何時とはなく地方の人にも言わないで帰ってしまった。 こうして得がたい期は去ったが、今から考えて出来れば今頃になっただろうがそれが果して日本のために効果があったかなかったか夢のような実話である。 |
| 唐津線敷設の経緯 国鉄の呼子線が実現しようとしている。随分長い間の問題であった。そこで唐津の鉄道の思いでを考えて見ると、唐津に鉄道が開通してから既に六十有余年にもなる。その創設のいきさつなど、大正生れの今の若い人々には知ったものもいまい、そこでここに老人の記憶を思い出してみる。 大体唐津佐賀間の鉄道が話題になり、計画が始められたのは明治二十七年夏頃からのこと、草場猪之吉、大島小太郎、平松定兵衛氏ら三十名の有志が、唐津興業鉄道株式会社を創立、資本金百万円、多くの株主の中には外国人、ベルギーのハーブルと云う人も出資していた。軌条其他の購入や工事の請負も順調に進み東松浦郡長加藤海蔵氏等の熱烈な支援もあって用地の買収等も滞りなく進んでいた際、丁度多久方面でも多久鉱業鉄道株式会社というのが計画されていたので、之れを都合よく併合して、愈々事業に着手、明治二十九年十八日、厳木村笹原峠の西側で起工式を行った。 そうして三十一年十二月に至り唐津妙見から山本までの線路が開通、同時に妙見から埋立架橋によって大島をづなぐ貨物専用線が開通した。当時、終着駅妙見は、当時の妙見の東北端海岸で、今日の火力発電所の少々西にあたる。 唐津駅は現在の位置、町田川が今の町田口より少し東に向っていたのを掘切って整地し現在のように流し左岸堤防の内側に河川敷をその西側一帯の人家と綿畑とを大石や金谷に物色させて鉄道用地とし、川に添って道路を作った。これがいわゆる町田口である。 こうして従来、山本から松浦川を川舟で下った石炭の一部が、貨車で、唐津駅と妙見駅に運ばれ、唐津駅の分は川舟で松浦川口で汽帆船に移されることとなった。 続いて三十二年六月に山本厳木間、そして笹原トンネルが貫通し、十二月には厳木莇原間が開通した。笹原トンネルは長さ四百五十米、当時の九州北部では一番の長さであった。こうして都合よく開業進展して、明治三十三年四月に唐津鉄道株式会社と改称し、更に三十五年十一月に九州鉄道に吸収されたが、最初九鉄が買収するにあたって、莇原から小城を経て本線久保田駅で、長崎線に接続する予定であったが、その沿線にあたる三日月村地主間で交通上の利害から計算して大反対をなし、一時は小城から右折し牛津駅に接続が計画されていたが、漸く説得が出来て当初の予定通り、久保田につながり今日の唐津線が出来上がった。そして明治三十六年十二月十三日小城桜岡公園で唐津線の開通式が行われた。県当局は勿論、大村旅団長、佐世保要塞司令官等軍部側の歴々臨席、佐世保から海軍々楽隊の出張演奏が行われ、小城地方稀有の賑いを呈した。 其後明治四十年七月に至って国有鉄道に合体され今に至っている。又、国鉄となると同時に妙見駅が東方約四百米ばかりに移転され西唐津駅と改称された、それが今日の位置である。 そして、当時の列車は現今のようなディゼル式など夢にも思われない、黒煙蒙々たる石炭汽関車に牽引されたもの、貨車は現在と大差がないが、客車は一台一台が個別独立して極小型、然かも全列車が通行出来ないどころか、夫々一台毎に横側に両面共四カ所の乗降口があって、一台内でも十人以上の往来も出来ないという、今からは想像も出来ない構造、これは大正の中頃から漸次改良されて今日の大型客車の様式と変った。 それから後、莇原が多久と改名されたり、本牟田部駅が出来たりしたことは書く必要はあるまい。岸岳支線については、又改めた機会に成行を話したい。 馬鉄に始った交通機関 交通戦争の波は唐津にも押寄せて、道路は人と車とのラッシュである。その交通の中軸をなす昭和バスが創立三十周年を迎えた今日半世紀前の唐津の有様を思い出すのも一つの興味であろう。半世紀と云えば明治の末頃から大正の始め頃、満島鉄道の出来た当時にさかのぼって見よう。 明治も半ば頃までは、唐津と満島との連絡は、唐津側の新堀から満島の大正町東端の間を結ぶ渡船だけにたよっていたが、明治二十九年二月に至って附近関係町村有志の申し合せで松浦橋と云うのが竣工し渡橋賃を取り、従来の渡船は廃止された。面白いのは此の橋が計画されている時、満島側の一部の人々に、此の広い川に橋を掛けるのは危険だという反対運動さえあったという。然し大勢は架橋に協力して漸く出来上ったということ、今日からでは一つの笑い話の種である。 それから間もなく、草場猪之吉、山崎常蔵、平松定兵衛、佐久間退三の四氏で満島馬車鉄道合資会社が設立された。 資本金三万五千円、三十二年六月に線路敷設許可を得て、直ちに満島松原口から浜崎入口までの線路工事に着手、三十三年六月から開通した。その当時の記録によると軌道敷設費が一万八千九百余円、客車五輌三千七百五十円、貨車一輌一千二百円、それから車を曳く馬匹費が六頭で百八十円、即ち一頭三十円で乗車賃が全線上等並等を平均して全区一人四銭、貨物運賃が百封度当り一銭五厘という。今の人たちでは想像もつかぬ値段であった。 その後資本金を七万円に増額し、三十四年四月松浦橋を二万円で買収し軌条を橋上に架設して唐津の船宮に続いて三十六年に大手口まで延長した。ところが四十二年十月一日午後一時のことである。風雨もはげしくない晴れた日突如として橋梁全部が川の中に墜落して、通行人死者二名、負傷者数名を出すという大惨事が起った。ちょうど其の直前、客車を曳いて橋の袂まで来ていた馬車の馬が突然停止して動かず馭者があせって鞭で強打して前進を促したが、馬はどうしても動かず、そうこうする内に、突然橋梁が落ちたのである。 乗客一同奇蹟的な命拾いをした。今でも時に聞く科学に超越した動物の勘というのであろう。この災禍のため、馬車鉄道は満島側と唐津側とに中断され、橋の部分を渡船で連絡することとした。然し県で橋の復旧に着手、橋脚は馬車会社と共同して練瓦作りの永久的な計画として、軌道は西側を県道と並行して、ここに再び全線一貫した運行を見ることとなった。 然し会社では此の機会に馬匹を廃して軌道を使用することとし、最初は石油発動機を併用したが、あれやこれやの災厄で出費が多く経営が甚だ困難となったので、新らたに唐津軌道株式会社が創立された。資本金五十万円、払い込み十二万五千円で、社長に松永安左エ門、重役に大島小太郎、草場猪之吉の他、福岡方面から数名、満島馬車を吸収合併し、馬車運行を全廃して石油発動機のみとした。 更に大正二年十月九州電灯鉄道株式会社に合流した其の当時の乗客一カ月平均一万四千人位であった。九州電鉄では直ちに重量軌条と架設取替えに着手、又大正四年から工藤式と称する新規汽動車二台を購入して漸次客車を取替えると共に軌条の西唐津延長に着工、朝日町近松座の南あたりから、県道より南にはずれて高架線を架設し、双子入口で国鉄唐津線の上を立体交叉して西唐津に達した。大正五年十月であった。引続き佐志唐房の入口に達した全長約十五キロ、浜崎から佐志までを連結することとなった。成績は頗る良好であった。ところが大正半ば頃になると、一般に自動車の定期営業が数々おこって来た。 九電鉄でも此の大勢に応じて、小型パスの運行をはじめ、汽動車と併行していたが、昭和三年春、軌条全部を撤去してバス一本となした。 之れが満島馬鉄にはじまる唐津市内縦貫軌条の最後であった。其頃から後の交通状況は、大概の人が知っているだろうから、之で筆をおく。 |
| 難工だった北鉄開通 国鉄呼子線の着工が目前にせまった。そこでその基幹線とも云うべき筑肥線の最初、北九州鉄道の昔を思い出して見よう。 昔から唐津と博多とは商取引や社交等で密接な関係にあった。それが県庁を中心として佐賀と結ぶ唐津鉄道が出来、唐津から博多に行くには、五十`に過ぎないところを、鉄道の為めに佐賀、鳥栖と百`以上を迂回せねばならず、自然唐津、博多の旧縁は大分遠くなってしまった。これではいけないと両地間の世論がおこり、草場猪之吉、岸川善太郎氏等の発起で、大正五年六月に、鉄道建設免許の申請をしたのがその発端、そして七年十月免許が下ったので、直ちに会社設立にかかり、八月三日北九州軽便鉄道株式会社が出来た。資本金五百五十万円、株主は佐賀、福岡両県をはじめ二千余名。最初の社長が草場氏、常任監査役に岸川氏。実測着手したのが八年十月十五日、それから本社を魚屋町西詰、町田川沿いに新築した。それが今の佐賀新聞唐津支社の社屋である。そして間もなく北九州鉄道株式会社と改名、十年十月三十二日、佐賀県知事、福岡市長其他沿道の有志多数列席して、明神松原、今の中部公民館の場所で起工式を行った。 ところが此の鉄道の起点とも云うべき東唐津、浜崎間は、虹の松原の風致を害する惧れありとして地元から猛反対があったため、一時見送り、先ず浜崎、福吉間を着工したが、此の区間海沿いの丘陵で、全線十カ所の隧道のうち、八カ所が此の区間に集って、十三キロの距離に二年間を費やすという難工事、大正十二年十二月に漸く開通した。 当時、現場工事激励のため唄われた「鉄道ぶし」の一部をあげて見よう。 測 量 鉄道の測量する身のおおしきよ、深山幽谷がけやふち、トランシットのん気にのぞいては、合図のオーライ、勇ましさ。 工 事 君見ずや、鉄道工事のいさましさ、架橋せわしき玉島川、隧道工事の鹿家山、ホンニ又聞こゆるダイナマイト、ドン。 と、歌詞はノンキでも工事は中々進まない。それから漸く虹の松原問題が折合い浜崎、虹の松原を運行、つゞいて東唐津、虹の松原間が十四年六月に至って開通出来た。其間に、福吉、前原間、そして其の東方も次々と開通し、最後に地元商人反対で着工出来なかった南博多、博多間が開通して、十五年十月に至って唐津、博多間が全通した。そして一方、伊万里行線路は之れまでの難工事で着工出来ず、昭和四年六月、東唐津、山本間が漸く開通した。 然し之れまでの予期以上の難工事で資力欠乏して四苦八苦、草場社長は昭和六年四月、日本興業銀行に金融交渉のため上京し、過労のため旅館で急死するという悲愴なことさえおこった。そして其後は社長をおかず同年八月、日本興業銀行から八木弁舌氏が専務取締役として来任、続いて八年十月、同じく興銀から小田原盛美氏が取締役支配人として就任し、会社経営の大体は興銀の手に移ることとなった。そして十年三月に遅滞していた山本、伊万里間が開通して、着工以来十三年余で、全線八十五・四`が完通した。ところが間もなく鉄道法の改正によって、鉄道運営を国鉄に吸収されてしまった。 開業以来大した事故もなく困苦にたえて来たのに、終末に近い昭和十一年七月九日、山本駅発伊万里行ガソリンカーが、午後六時十五分頃、牟田部甲斐田踏切北方五十米のカ所にさしかかった際、連日の豪雨で地盤がゆるんでいた為線路下横の岩壁が崩れて、車は三米位の高さから松浦川の濁流に転落して、乗客の死者七名、重軽傷九名、行方不明三名を出すという大惨事をおこした。消防団員数百名が出動し、地元民と協力して救助捜索にあたったが水勢強烈で活動思うにまかせず、十三日に至って小宮村佐里小学校長の遺体が発見され、残る二人はとうとう不明に終ったという大悲惨事があった。 ところで会社でははじめ鉄道運輸開始とともに本社を魚屋町から虹の松原西端に移転していたが国鉄移管と共に船宮に移し北鉄自動車と称し従来鉄道と共に経営していた自動車のバスの運行をそのまま続けていたが十六年になって其全部を昭和自動車に譲渡してここに二十三年間の幕を閉じた。 多彩な北鉄の営業作戦 前回の北九州鉄道については、人々の記憶にも新らしいだけに、色々な批判もあり、も少し書いてはという要望もあったが、記憶の老衰で適確なことも思い出せないが、洩れているところを少々書いて見る。 この鉄道の主要区間である唐津〜博多間は前回も書いたように沿線住民の反対や工事難航のため、五ヶ年の日時を要し、一部浜崎、福吉間が開通しても、乗客は甚だ不便、会社では大手口に切符売場を設けて、まず大手口、浜崎間を六人乗りの自動車で連絡したが、大正十三年の夏には乗客誘致のため、福吉駅の海浜約三、四百米はなれた小島に演技場を設けて唐津方面にも大いに宣伝して乗客を誘致したが成績面白からず一年で止めてしまった。それから福吉以東姪の浜間の開通と共に大入(だいにゅう)の海岸に海水浴場を設けたが、之れは博多方面からの来遊者もあって相当に賑わい、数年継続開場された。 それから、浜崎、虹の松原間が開通すると、ます松原の駅前に貸住宅四、五戸を作って一般に貸出したがあまり結果はよくなかった。それから虹の松原、東唐津が連結すると、松原駅に隣接した東側の広場にかなり広いバラック式の集会場を建てて一般に提供したが丁度東京ラジオ放送が開始された年で、またラジオの珍らしい時代、聴取器を据付けて一般に公聴させたが、殆んどの入場者が地元附近の人々ばかりで、汽車利用の聴取者はなく、其の他の催しも予期に反して成績は面白くなく、一年ばかりで解体してしまった。 ここでちょっと面白い話は、草場、岸川氏等の極めて少数な幹部で、虹の松原駅の南、今の虹町から鏡山中腹までケーブルカーを計画し、大阪の某施工者にたのんで略々設計も出来た。 其の建設費約一万五、六千円、維持費は乗車賃でまかなう計画であったが、幹部の内一人が反対だったようだが、その設計書を預ったまま紛失したといって、あとは有耶無耶、出来ていてよかったか悪かったかは別として、何だか心残りのする昔話である。其の後鉄道が日本興業銀行の経営に移ってから、相知の佐里温泉を会社が直営することとなり、浴場や宿泊所を大増築して、一時は相当の好成績を収めて繁昌していたようだが、国鉄移管と共に中止、民間事業に引譲られてしまった。 それから東唐津駅、これは本線の基点ともいうべき所、会社でも先ず本社を魚屋町から駅の北側に移転した。それは丁度今のシーサイドヘルスセンターの辺、大正七年に空閑昌太郎氏が創始した硅石煉瓦工場唐津窯業株式会社廃業の跡を買収して大改造したもので丁度今の国鉄官舎のあるあたりだ。そして鉄道を国鉄に引渡したあと自動車一本となると共に船宮に新築移転した。そして旅客サービスの為め満島小学校(今の東唐津小)の東に近接してホテルと食堂とを新設し本町の料亭菊水、平田きくさんに委託経営させたが興銀経営になるころから内藤善五郎氏の手に移り、まつら食堂と称して繁昌していたが本社の国鉄移管と共に廃業した。まだいくらか話洩れもあろうが一応これで筆をとめる。 |
雲散霧消の飛行場建設 近頃、切木盆地に飛行場開設の動きがあるようだ。そこで、今日まで唐津市が直接触れて来た飛行機との話を考え出して見よう。 先ず第一は昭和五年、木綿町出身の牧原万之助氏が所沢航空隊払下げのニューポール式二人乗りの飛行機を持帰り、材木町裏導水堤で整備して、干潮時に松浦川岸を滑走離陸し、二、三回旋回して着陸の際、故障をおこして解体したのが最初の記録である。それから翌六年四月、唐津町村合併祝賀式が同じ導水堤で行われた。松浦毎日新聞が日本航空輸送会社の飛行機で祝賀ビラ三万枚を上空から撒布し、続いて四日太刀洗飛行第四連隊の戦闘機三機があらゆる高等飛行を実演して町民を驚嘆させた。 その直後、五月十三日宇垣一成大将が名護屋見物に来た際、案内した唐津在住の小林万里後備中佐が、飛行場設置を目的として西の浜を見せたが、全然問題にされなかった。こうして町民の空に対する関心が育って来たが、同年秋頃から飛行場設置運動が台頭し、飛行第四連隊で調査に乗出し同年十一月十四日、太刀洗から野口少佐が飛来、候補地とされていた松浦川左岸沿い当時鬼塚村大土井一帯の空中写真を撮影したが、翌七年二月二十三日若竹連隊長が陸路来唐、更に同年九月陸空本部長渡辺錠太郎大将が微行、博多屋に一泊の上現場を視察した。 こうして唐津飛行場も本格化しようとした折柄、丁度その大土井は松浦川の河川敷地として国有の荒蕪地であったのを、同地附近の有志農家が田畑とする目的で、某代議士を以て払下げ運動中であったのに、飛行場調査が表面化すると共に自分等の生産業に大影響を来たすといって猛反対運動をおこした。陸軍でも地元がそんなに反対するのを押切るのもどうかと、飛行場計画もそのまま沙汰やみとなった。 丁度その頃海軍では、佐志海岸を水上飛行機の練習場として、佐世保航空隊から片桐少将が視察に来たが外海からの風波の影響がひどいというので取止めとなったが、その後仮屋湾も問題に取上げられたが、海軍の要望に添わないとあって問題にならなかった。 然るに其後、有浦、切木の村長其他から、改めて切木高原の無償提供を申しいで、有浦村助役宮崎俊二氏が中心となって佐世保に向って猛運動を始めた末、同年六月十五日、佐世保から露木大佐、小西参謀以下、土木技術者等を帯同して出張、現場の実地調査が行われた。有浦、切木の両村では土地発展の好機とばかり村会議員其他の有志数十名が弁当持参で随行した。 場所は切木村田代の西方約二キロ平方位の高原、調査団の印象も甚だ良好のようで地元でも大張切りで、地元から又々佐世保に挨拶に行き好遇を受けて帰ってきた。ところがこの事で何等連絡を受けなかった当時の県知事古川静夫氏、後から知ってカンカンになり、九月地元関係の村長を県庁に呼出して、軍で計画される土地の問題が知事に連絡がない筈はない。山師にだまされるような馬鹿な真似はするなと一喝、海軍の話はあんなに有望らしいが、知事に睨まれては、村政全部に悪影響があるだろうと心ならずもウヤムヤに立消えとなってしまった。これが唐津地方における飛行場運動の終止符であった。 序でに今日迄唐津に飛行機が着陸水した事実を見て見ると、昭和十年四月十一日佐世保海軍航空隊の水上偵察機が西の浜の海上に着水して解体組立の演習をなし、十三日に竣工して佐世保に帰ったこと、同年五月十七日、オートジャイロが飛来、材木町裏に着陸、市民多数参観のうちに飛立ったこと。 それに十六年十一月、唐津市佐志町合併の祝賀を兼ね、大日本飛行協会と唐津市との共同主催で、四日午後二時から西の浜の当時明神台で、後藤飛行士がプライマリー機で滑空、直転、旋回の妙技を公開したことがある。今日まで唐津と飛行機の関連はこんなものである。ところで唐津に飛行場でも出来ていたら太平洋戦争のとき、この辺一帯も敵機の爆撃で焼野原となっていたかも知れない。出来なくて結構であったともいえよう。 貿易港唐津の足跡 貿易を生命とし、それによって知られていたわが唐津港も、ここ数年来、石炭の不況に伴って成績はなはだ不振、貿易港の閉鎖さえ噂され、その盛時を見て来たわれわれ老人には寂しき限りであるが今更のようだが昔の記憶をたどって見よう。 唐津貿易の歴史については色々な記録も残っているが、先ず明治十五年有田の松村新平氏が公平社という商社をつくって石炭輸出をはじめたのが最初、同年長崎税関から、都度出張員が手続の為めに出張して来ていたが、当時は汽船の出入も思うようになく、石炭の需要も少なく、間もなく解散、続いて坂本経懿氏が回産社というのを始めたが之れまた不振、同十七年秋に税関員の出張も取止めとなったが、地方発展の為めとあって、元老院議官山口芳尚氏を中心に、中野健明、大島小太郎、岸川善七、河村藤四郎、宮島伝兵衛氏ら地元有志の奔走で明治二十年十月二十日指定を出願し公園下に物産会社を作り、三菱商事でも、二十一年一月満島表町に長崎支店出張所を開設し続いて公園下に移転したが、二十二年十月に漸く特別輸出港に指定され、長崎税関出張所が松浦川(満島側)に設けられた。 それから貿易も順調に進展、三十二年四月唐津税関支署が設置された。そして唐津鉄道の開通とともに、従来の松浦川による団平船の運炭が漸次西唐津に移り税関支署も西唐津菊池氏の家屋に移転、従来の支署を派出所とし帆船輸送を監視することとなった。そして貿易額も二十三年には十一万六千九百六十五円に過ぎなかったのが、四十二年には二百二十二万三千余円に躍進し、唐津港の貿易も愈よ本格化するに至った。そして三菱も四十三年に西唐津の埠頭に豪華な支店を設置、三井物産も現唐津鉄工所の北側海岸に出張所を設けた。 そして大正四年には貿易額も三百四十九万二千余円に上り、税関庁舎も狭隘となったので、すぐ西側海面を埋立て新庁舎を建築した。それが現在の庁舎でその落成式には、その西側海上に屋台を建て検番芸者の手踊りがあり珍らしい賑わいであった。当時の外国船の入港は、日本で横浜、神戸、大阪、門司についで唐津は第五位に上り、長崎、函館を上越した。そして大正八年には普通貿易額六百九十三万三千六百八円、特別貿易二百四十万二千九百五十円、其他を加えて総額一千五十七万一千二百二十九円、一千万円の大関門を突破することとなり、翌九年四月開港三十周年記念を兼ね貿易額一千万円突破の大祝賀会が、唐津、佐志、満島、唐津の一町三カ村を中心に東松浦郡各村を始め各炭坑の支援のもとに盛大に挙行された。今日に及んでも之れ以上大掛りな祝賀行事はこの地方にはなかったろう。 ところで第一次世界大戦の悪影響で、金融の逼迫から貿易其他の外資関係も先細りとなり、唐津港の貿易も大正八、九年を頂点として漸次下向し、昭和の初め頃多少の好調を見せたが、世界大戦の影響と石炭不況のため、貿易額も益々下向してしまった。生産、消費に背景を持たない唐津としては更に一考を要すべきではあるまいか。 最後に一つのエピソード、唐津の貿易は当初から石炭第一であったが、日清戦争頃の統計を見ると、輸出の内に唐津半紙年間三十二円四十銭、竹細工品七円二十五銭などというのが、又あり、輸入は明治二十九年に始められたが、一カ年の総金額僅かに四百十二円、然かもそれが朝鮮から輸入の生牛二十四頭であったということ。唐津貿易輸入の第一回が牛であったとは、面白い話ではないか。 唐津築港の由来記 火力発電所の大煙突が東港前に突立って、工業地帯の風貌を示しはじめたが、一面石炭の斜陽化で大正時代一年一千万円を誇った貿易額も漸次減退して、第二種港湾の取止めも問題となって、地方当局をはじめ地元関係者もよりよき再興の計画を練っているが、老人として昔をしのんで築港当初の思い出を話そう。 先ず西港修築を叫び出したのは、岸田音次郎という人だったが、時早すぎて同意者なく其のまま立消え、その後唐津鉄道の開通とともに、石炭の船積も漸次松浦川口から西唐津港に移って来た。そこで明治二十九年大島小太郎氏の発意で坂本経懿、河村藤四郎、山崎常蔵他六名の発起で唐津築港株式会社を創立した。 株主百三十名余、資本金百二十万円、唐津村長中島幾之助名義で農商務大臣榎本武揚宛に着工を出願した。その計画によると、西港の水面を埋立てその一部を売却し、一部貸付けて、貸地料と船舶接岸料を収入するを目的とし、大島南端から妙見、佐志、唐房より更に相賀に至る地先水面二十三万余坪を埋築する筈だったが、県の許可が停滞し且つ日清戦後の不況で資金の集結思うにまかせず、遂に中止のやむなきに至った。その後、芳谷炭坑が港頭に石炭積込専用の小規模な埋立築港を計画したが、経費の都合でお流れとなった。 其後、日露戦争後、地方有志で唐津港改良調査会を組織し築港促進運動を始め唐津鉄道株式会社と提携して設計を古市公威工学博士に依頼し、一年半で細密な工事設計が完成したので、四十八年八月県を経て国営築港の要望書を農商務省宛に提出したが、県が好意をもたずその儘握りつぶしとなった。そしてその後、大正二年四月、原孝徳氏他一名から、又同月有浦村宮崎吉蔵氏から、更に同年八月改めて大島小太郎氏からも夫々別個に西港側の公有水面埋立の出願があったが、此等埋立築港に対して地元の唐津村側からは、今日までの先願者との衝突、妙見から流出する水路を閉じないことなど条件がついて好意を示されたが、佐志側としては村会の決議により同水面は佐志、唐房三百五十戸の専用漁場であり、突堤の構築によって波浪の侵害を受くる惧れがあるなどという反対意見陳情があり当局としても保留のまま日を過していた。 その後、菊池徳次郎、小関世男雄両氏の進言によって、大島氏は前記の他、平松定兵衛、阿部清、草場猪之吉、岸川善太郎、斉藤勇三、兼子あきら、岩城卯吉其他の諸氏を集め、大正六年四月、三百万円の資金を以って第二次の築港会社が創立された。ところが計画内容について鉄道側に難色があって、進捗せず、大正十年十一月に至って漸く施行認可を得たので、同年四月二十一日に一応起工式を挙げたものの、丁度第一次世界大戦後の財界混乱、物価騰貴の時に遭遇したため、第一回払込金七十五万円を擁しながら、一片の土石も動かさずに解散のやむなきに至った。 数次に亘って餌ばかり見せつけられ、しびれを切らした地元では、宇山磯五郎氏を中心に西唐津築港期成同盟会が組織され、築港会社の復興を画策したが物にならず、大正十三年の県会に猛運動し唐津築港県営施行の建議案が可決されたが財政の都合で実施の運びに至らなかったが、唐津町村合併を機会に促進、昭和六年冬の県会で実施決定した。 四ケ年計画で第一年工費五十四万二千五百円で、内十五万円が国庫補助、十五万円が地元負担、渡辺弥作氏が築港修築事務所長として着工した。岸壁延垂二百六十五米、海の浚渫五万坪水深、税関附近一千米を除き、大体四米半から七米三〇、この土砂を以って後方一万七千坪の埋立をすました。このため五千屯級の汽船一隻、八百屯級三隻が同時に横付されることとなった。そして十二年五月二十六日、埋立広場で、第二種重要港湾指定と、第一期修築工事竣工式が挙行された。その後の増修築と東港一帯の進展は新しい事だからわれわれが話す必要もあるまい。 唐津東高七十年の回顧 唐津東高等学校では、来年開校七十年祝賀式を計画されているそうな。唐津に於ける学校は、藩校志道館から、明治になって、高橋是清を教師とし、工博曽根達蔵、同辰野金吾、法博天野為之等、全国的な名士を生んだ耐恒寮から、志道義舎、余課序等転々して、明治九年公立准唐津中学校が生れ、同十二年公立唐津中学校、同二十年公立唐津高等小学校農商学所、同二十一年組合公立唐津大成学校と変転したが、経費や制度の具合で入学者も少なく退学者が多かった。そして明治二十八年に新しく農科と水産科とに重点をおいた県立東、松実科中学校が出来たが成績がよくない。 丁度その年十一月招集の佐賀県会に教育費の増額が提案され論議の中心となった。それは常時県内には正規の中学校として只一校であった佐賀県尋常中学校が生徒数の増加と地域差を理由とする各地からの分校設置の要望が出て来た、そこで先ず唐津と鹿島とに分校設置の計画がなされた。それと共に杵島郡から、分校誘致の運動がおこり、三ツ巴の競争となった。それに今一つ政策や地域的の利益問題も手伝って県立農学校設置の声があがって来た。そしてそんなにもめる中学分校は後廻しにして一層農学校一本で進んではという議論も強力に抬動して来た。 そのある日の県会で、東松浦分校を主張しつずけている長谷川敬一郎、山村直太、居石研二の三議員が席を外していたすきに、大多数の議員で農学校一本建で進むことに密談打合せをなした。あとから此の事を知った東松浦出身の三議員は激怒して、議長の処置が不都合だと、続いて開かれた本会議の席上、長谷川議員は密談の内答を突いて、「佐賀県会は暗黒県であるということを議事録に明記せよ」と野田議長に詰寄り喰ってかかり、ゴタゴタ大騒ぎの末、長谷川、山村両議員は共に退場を命ぜられるという一幕もあり、結局、農学校の件は一応保留して当初の通り、中学校分校二校設置案が常置委員会に附託され、委員会では鹿島の藤津分校は原案通りの七千六百七十円五十五銭、唐津の東松浦分校は二千円を削減して五千六百三十一円七十二銭で設立に同意することとなった。 そして本会議では、東松浦郡前記三議員が極力原案維持につとめ、又田辺県知事も「唐津、鹿島は共に旧藩地で、教育にも相当の歴史を有し、幾多の国家的の先輩も出しており、教育の好適地であるのに、唐津のみこの費用を削るのは、教育の振興を阻害するものである」と原案維持を主張したが、力及ばずして委員会の修正通りに決定した。 こうして佐賀県尋常中学校唐津分校が生まれ、全課程五年の内、三年生までの生徒を収容し、四年以上は佐賀の本校に合流することになった。これが今日の唐津高校の前身である。 そして更に一進して明治三十一年県会で、鹿島、唐津は明治三十二年四月から佐賀県第三中学校という、制式による中学校が発足した。初代の校長は佐賀の人成富信敬氏、そして同三十四年四月、学制の変更によって、佐賀県立唐津中学校と改称した。それから五十年ばかり、幾多の人材を育てて五十年、昭和二十三年県立唐津第一高等学校となり、更に翌二十四年、県立第二(旧唐津高女)と合併して男女共学となり、更に唐津東校、唐津西校と分離して今日に至ったことは、人の皆よく知るところである。 唐津の火力発電所のはじめ 唐津東港の火力発電所が創業してから一年ばかり、更に第二発電所が二月から着工、出力合せて五十三万キロ余、それに値賀崎原子力発電所の計画が着々進んでいる。唐津は北九州地方電力の供給地である。その唐津に電気がついたのは何時の事か、九州地方では甚だ後進の地である。熊本に電気かついたのが明治二十四年、長崎が二十六年、佐賀県ではウンと遅れて四十一年十月広滝水電が創業、佐賀市及び神埼の一部に供給灯数八千二百灯位であった。 唐津でも時流に沿うて電灯計画は進められたが、資本金の関係で遅延した。四十一年十一月に至って大島小太郎他十氏から火力電気株式会社が表面に出て、資本金十万円、唐津町一円と満島村を供給区域とし、本社と発電所を新堀におき六十キロ火力発電機二基を以て、四十三年五月に開業した。重役は唐津銀行一派で大島小太郎氏社長、草場猪之吉氏専務、支配人は小関世男雄氏であった。然るに以前から政治的に経済的に対抗的立場にあった西海商業銀行を根城とする長谷川敬一郎、山村直太氏等を中心として七山水力電気会社の計画が浮んで来て、之れこそ水火の争いで唐津町をあげて動揺の巷と化してしまった。 そして七山水力では一時水利の不安定からの供給で地元附近に少量の配電をしていたが、間もなく唐津電灯が広滝水電と合併して、四十四年十二月新たに船宮に唐津変電所を設直して自家発電を中止したので自然的に姿を消してしまった。そして殆んど時を同じうして九州電気に合併、更に四十五年六月九州電灯鉄道会社と改名し、更に大正十一年五月東邦電力、昭和十七年九州配電となり昭和二十六年に今の九州電力となったのである。 以上は大体、会社主体の動きであるが、其間大正二年に唐津軌道を併合、昭和三年にバスに変更、其後昭和バスに譲渡したが、電力部門では昭和六年十一月玉島水電を買収し、昭和十五年八月には東松浦西部四ケ村を占有していた有浦電気会社を合併した。其間難工事としては大正十二年海底ケーブルで神集島に、更に昭和二年呼子殿ノ浦から弁天島に鉄塔を建設して加部島に点火、昭和十一年には海底ケーブルで高島に送電を開始している。 ところが大正初め頃の料金は十燭一ケ五十五銭、従量一`十銭、電力は昼間一馬力三円、夜間七円五十銭、従量で一`四銭、需用数は現在の唐津市区域で電灯七千六百戸、二万二千余灯、電力五十三`、百八十七馬力であった。 そしてこの六十年の電気の歴史がのこした稀有のトラブル、唐津町政を転倒させるようなあの火力火力両派の激突問題は、日を新らたにして話したい。 |
水火電力の大軋轢 唐津に電灯がついた六十年前、唐津と西海商業との両銀行を背景とする火力水力の村立は、町をあげての大争議となった。そして互いにしのぎをけずって住民に呼びかけ、水力派が劇場舞鶴座で無料演芸会を開いてその幕間に水力の宣伝演説をなすが、火力派も之れに対抗して招待演劇会を開き、街頭では双方頻繁に宣伝演説をなし、中流以上の家庭ではその私生活にまで相当な支障を来たし両派の人々は知人同志、道で逢っても顔をそむけて通り過ぎ日常の買物でも反対派の店の前を通り過ぎて同派の店から買うといった今からでは想像もつかない対立、殊に甚だしいのは、某水力派の有力家の若妻君が火力派の出であったため、家庭争議が持上り姻戚間のにらみあいとなって、其結果は離婚してしまうという悲劇まで出来てしまった。 其間水力派は、資金繰りのため町会議員渡辺賢肋氏が代議士川原茂輔氏を介して中央に働きかけたが、其間火力派は着々行動を進めて明治四十一年十一月、唐津町会満場一致で会社創立の同意を得、創立準備を進め四十二年五月に主務省の許可を得て、直ちに船官に火力発電所建設に着手した。 そこで水力派は妨害運動にとりかかり、全町内の区長の約七割を味方とし、手別けして戸別訪問、火力電気を使用せぬという誓約書までとりまわった。然し火力派では着々事業を進捗し町内の道にも電柱の建設に取りかかった。 ところが四十三年四月の町会で、神崎音之助議員から唐津電気会社が唐津町の里道に電柱を建設しているが、許可を与えてあるかという質疑があり、町側からは電灯会社設立について無条件で承認してあるから、電柱建設は差支えないと答弁、議員と町当局の間に猛烈な押問答があり、馬場繁夫議員から会社建設を無条件承諾したるは里道使用を含有しない、若し含有するとせば決議其のものが無効であると抗論して論議がつきなかったが、神崎音之助、渡辺賢助両議員から、唐津電気が町道に電柱を建設したのは町の権利を侵害するものだから、町長は会社に至急電柱を取除くよう命令せよといった建議案が提出され、五名の審査員を選んで審査をした結果、電柱取除きの建議案を承認して本会議に廻し、本会議でも異議なく取除き要求に決定した。 ところが、これからが、不思議、町会の半数十二名の議員から電柱取除きについての臨時町会開会の要求があり、五月十二日に招集されたところ、十二名の提案者全部が欠席、五月二十三日に至って開会請求をした十二名の議員から、電柱取除き要求の建議案を取消した。一般常識では判断の出来ない事実、この裏の工作については、故人の名誉に関することも出てこようから、ここでは取上げるまい。 こうした町会ゴタゴタの間に、巷間では既設電柱を引倒すといういたずら者まで出て来たが、これは誰の悪意か故意か更にわからぬ儘になった。 こうした電柱事件、雑多な波瀾をともなった末、五月三十一日の町会で、会社から街灯寄附の申出即ち街灯三十二燭光を二十カ所に三カ年無料点火することを条件の一つとして曲りなりに解決した。 こうしたゴタゴタの中に架設工事は徐々に進行、六月一日愈々唐津の町に始めて電灯がともることとなった。電灯需用家数約二百戸、灯数十燭換算一千余灯、電力の供給はまだまだ。そして電力の需給は一応はじまったものの水火の軋轢は尚やまず。或る料理屋で、お客が水力派であるために電灯を消してランプを点けたという面白い実話さえある。そしてその結末に、舞鶴公園伐木事件、八町会議員の辞職間題まで起るという珍らしい事件にまで発展したが、この話は何れつづいて。 舞鶴公園の伐木事件 天候に恵まれて、舞鶴公園は観桜客で賑っているが今から五十八年前、明治四十五年(大正元年)は、前回話した電気の水力火力の問題が飛火して、公園伐木事件という恐ろしい波瀾をおこした。 大体同公園は官有地で明治八年唐津町が貸下げられて、各町が交代で管理を行なっていたが、年と共に手入れが不充分となって、明治末年頃には雑木が生い茂って、上段からでも海も見えない有様であったので、町ではその展望をよくする為、瀬倉亀才町会議員を委員長として展望障害から不要な樹木を伐採することにしたが、丁度其頃、元芳谷炭坑の支配人であった中沢武兵衛氏が桜樹苗一千本を寄付したので、町では公園に七百本、唐津、大石、熊の原各神社に分植することとし、瀬倉委員長は矢田町長の内諾を得て、伐採木材の無償払下げを条件として伐木と桜の植付けと根ざらえとを一部特定の植木職に委託した。その結果、樹木を伐りすぎて、今までとは逆に鬱蒼と生い繁った公園の上中段は見る影もない丸坊主となった上に、其木材の一部が某委員の門柱になったとか、一部は台所に運びこまれたとかいまわしい噂がとんだ。 前にも云ったように水力火力問題が激化している際であり、火力派の議員が公園委員長であったため、火は公園に燃え移ったのである。そしてその年六月二日の町会で、瀬倉議員を伐木事件の責任者とし不信任を議決した。そして引続いて同日水力派の議員八名、即ち山内喜兵衛、山村直太、木下辰治、花田金太郎、松下幸大、前田友太郎、馬場繁夫、筒井源太郎の連署で議員辞任届を町長に差出した。その文句の一節「町民一同の激昂を招き一町の紛議を醸成するも尚恬然として是非を省みざる如き無責任議員を出し町の体面を毀損し(中略)拙者共も其責任なきにあらず。ここに自らの不明を町民に謝するため其の任を辞す云々」といった激烈なもの。 事態が甚だ不穏になったので、知事命令で郡長が調停に出たが物にならず、暗雲低迷の日を送った。 九月七日に至り前記辞任届の八議員から、辞任届の内容に過誤があったといって再提出を約束し、辞任届を一応取下げたが、九月十日開会の町会には係員の手違いから、該八名の議員にも招集通知を出し、開会直前に気付いて右八名の招集を取消し、他の議員十三名で開会した。 ところで其後も辞任届の再提出がない為、十月十三日改めて町会を招集して八議員の処分を提案した。そして八名の内、山内、花田の両議員は四年以上の勤続者であり、木下議員は六十才以上の高齢者であるから辞任差支えなしとし、残りの松下、筒井、前田、馬場、山村の五議員に対し、それぞれ二力年間の公民権停止を議決した。 そこで五議員は、この町会決議は正当の理由がないとして、県参事会に議決取消し方を訴願したが県参事会は公民権停止を当然とした裁決をなしたので、五議員は翌年一月県参事会の裁決を不服とする行政訴訟を提起した。行政裁判所では、同年十二月八日付で「町会が原告(五議員)になしたる公民権停止処分、之れに対する原告に与えたる県参事会の裁決を取消す、原告等に各一年間の公民権を停止する」という判決があった。即ち中庸をとるというか双方に花をもたせる味のある判決、町会側の筋は通って、一方時期切れのため五議員にも実害はないという結末、一年半にわたる唐津町政のもつれも一応の終止符をうったのであった。 |
明治時代の日韓貿易 石炭輸出の斜陽化とともに、ここ数年唐津と韓国との交易もとだえてしまっていたが、此の春から政府米が韓国向に発送されはじめた、そして運輸省で二、三年前から東港の一部整備を始めているというから、唐津〜朝鮮の通商にも亦た一条の光明が見えはじめたという訳だ。そこで思い出されるのは明治の昔話。 明治二十二年十月、唐津が特別輸出港に指定されたのを期として、大島小太郎、河村藤四郎、吉村儀三郎、池田善太郎、山崎常蔵、山内喜兵衛其他の諸氏によって、公園地に唐津物産会社というのが創立され、松浦川口から帆船で朝鮮向け石炭を移出した。此の価格百九十円也。之れが唐津における正規の海外貿易の最初であった。そして続いて上海、フイリッピン等への輸出が開始された。其の当時の九州朝鮮の通商は大阪商船会社其の他、阪神方面の汽船が関門寄港の際に中継するにすぎず、唐津の物産会社も間もなく中止のやむなきに至った。 そこで岸川善太郎氏が大阪商船会社に交渉して、唐津釜山間の定期航路開始を要望したが受入れられなかったので、改めて宮島伝兵衛、草場猪之吉、菊池龍太郎等の諸氏と共に、佐賀の深川氏経営の大川運輸会社と協同で、三十七年四月一日唐運商会を創立、大川運輸会社の若津丸(三百屯)を就航週二回唐津釜山間を往復せしめ、菊池氏の努力で県費三千円、郡費二千円の補助を受けることとなった。之れが九州朝鮮定期航路の最初であったが翌三十七年日露戦争が始まったので、船景気は上昇、毎往復二百名以上の乗客があり青果商など仕入と卸売に唐津と釜山とを往復するもの少なからず、釜山の波止場には、唐津組と称する人力車の組合まで出来る有様だったが、朝鮮通商の将来を目指して三十九年頃から博多や門司港を起点とする大会社の進出が続出し、深川氏も気乗り薄となると共に、県郡の補助も打切りとなったので、さすが盛況であった唐運商会も廃棄のやむなきに至った。 朝鮮航路盛況時代、唐津鉄道の終点は妙見駅といっていたが、他地方から朝鮮渡航の人々が、妙見駅を知らずに大部分唐津駅に下車してから実況を知り、驚いて人力車で波止場まで馳付けて出帆に間に合わないという不便が度重なるので、九鉄運輸事務所と交渉して妙見駅を西唐津駅と改称したという挿話もあった。 こうした唐運商会の最後に丁度兵庫の船舶業者鍛治氏との間に希望の話題も出来たが之れも破談。唐運商会も巳むなく解散となった。 そこで岸川氏は意地でもやると再起の計画をたて、岸川船舶部と称して県から一万円の補助を獲得し、直ちに東照丸(六百七十屯)をチャーターし、仁川、群山、木浦、釜山、伊万里、唐津を結ぶ定期航路が開通されたが、このチャーター料が当時としては相当高価であったのに、一面地域に有利な博多、関門を起点とする大会杜の進出で成績最初の予期の如くならず、収支も思うようになかったのに、不幸にも四十年五月、仁川鎮南浦間で東照丸が海難に逢って沈没し、新らたに香椎丸を、続いて四十二年吉辰丸(九九七屯)を借入れ就航させたが、又もや四十三年十二月六日群山港で座礁し、次々の不幸にやむなく廃航のやむなきに至った。 其の間朝鮮貿易の統計は明治四十年を頂点として移出大計四十三万一千余円、移出の大部分は石炭で、それから陶磁器、木材、火山灰、鉄製品、竹材等。輸入は豆類を第一とし肥料が之れに続いた。 定期航路の廃航後は、不定期の機帆船で随時の往復が数年前まで続いていたが、こゝ数年は全然無関係の立場にあった。 面目一新の二の門濠 此頃城内二の門濠が掃除された。数十年放置されたまま、海水浴場の入口にゴミ溜め同様に放置されて、観光客にどんなきたない印象を与えていたことか、それがやっと奇麗に観光地の通路らしくなった。 大体唐津城は豊太閤が征韓の際、名護屋の本陣に対する後衛城として建築されたもので、近世初期の平山城として出色なもの。道路や溝渠にも夫々の企画があるそうだが、この二の門濠は長州藩の受持造築によるもので、長州濠ともよばれる。然しそれも世の流転風潮によって色々と変貌し来たが、二の門濠はまず昔の面影を残した唯一の場所であろう。 この濠は一の丸と二の丸との境であり、町田川との間に土橋を架け、その横に見張り用の櫓(やぐら)があったが、明治十何年かに民間に払下げられて解体してしまったそうである。 その後明治三十四年、佐賀市に九州沖縄八県物産共進会が開かれた際、丁度唐津鉄道の佐賀唐津間全通が予定されていたため、唐津宣伝の為めとあって、その来会者を唐津海水浴に誘致しようという構想で、道路の改修を始め、更に二の門濠を綺麗にというので、二十名許りの人夫を使役し濠の底を浚渫し、その泥土は今は立派な唐津一の産業道路となって、車の通行頻繁だが、その当時は人の交通も稀れなデコボコ路であった西の門小路一帯の舗装につかったそうだ。そして二の門濠には生簀(いけす)をつくり、しがらみをもうけて、ポラ、ウナギ、イナ等を放養することにした。 ところが予定された唐津鉄道の小城多久間の工事が遅延して開通が間に合わず共進会客の唐津来遊は駄目になってしまった。その後二度ばかり二の門濠の掃除はあったが、本格的な掃除は今度がはじめてである。 其後、二十八年清水市長時代に市有地造成の為めに埋立てを議決したが、一般的な反対の声が高かったため、予算化するに至らなかったが、観光ブームの上昇にともなう自家用車やバスの激増は、覿面に駐車場難となり、三十二年頃から又々二の門濠埋立論が盛んになり、三十二年には観光協会から夏の海水浴客用貸切バスの駐車場にという陳情もあったが、市の史蹟保存会や文化財関係者から猛反対で、一応保有に決定し此の間の大掃除となったわけ、同時に体育館東側の広場を拡張整備して自動車二百台を収容する大駐車場が出来上り、唐津市中央部にあった唯一の史蹟はそのままの姿で残ることが出来た。 大正の米騒動と争議 此の頃、食用米が多すぎて政府も持ち米の処置に困っているとか、自主流通米などと云う新語が新聞に見られる。世の中は変ったものである。先年までは米が少なくて米価が上って家計にひびいた経験は度々で、殊にひどかったのは、大正七年の全国的な米騒動であった。 あの第一次欧州大戦の当時、政府の地主保護政策と関連し、シベリア出兵による戦時特需をあてこんだ地主や米穀商が、米の買占め売り惜しみから、米価は二十銭から四十三銭にもハネ上り、しかも労働賃金等は之に伴わず、生活苦は国民の声となった。 このとき富山県の漁夫の主婦連が団結して米屋を襲撃し、米穀を強奪する騒ぎが起り、之が全国に波及しかねて鬱積していた大衆の不満が破裂して、名古屋では群衆が米穀取引所を襲撃し、又知事公舎に押掛けて警官隊と衝突する騒動があり、更に大阪では市民大会が暴徒化して京都でも米屋の焼打騒ぎがあり、東は東京・福島方面、西は山口県から福岡地方にまで及んで来た。 県ではこの大勢を見て、憲兵隊に待機を乞い、米屋に斡旋して内地米の放出を命じ、外米安売り一升十五銭という処置をとったので県では他都市のような大衆的米騒動はなかった。 大体、当時の物価上昇は大正三年の物価指数を一〇〇として同七年には二三〇となったが、一方労働賃金は一五七と上昇率は非常に低かったのみか、戦争景気のアンバランスな谷間にはさまって、般人の生活は甚だ苦しくなっていた。 ちょうど其の時、八月二十三日の三菱芳谷炭坑の採炭夫代表者四十余名が、炭坑に対して賃金三割増の要求をなしたが、会社が全然之を受付けなかったので、此の賃金に追随していた坑夫三百余名が入坑を拒否してストに入り、更に第一第二の両坑にも広がり、全員三千余名が同盟罷業を声明したり会社側では全員解雇の強腰をとって応じなかった。然し坑夫側から軟化脱落者が続出したと共に、会社側も一人当り十銭の増給を約して争議はおさまった。 ところが之に呼応したように三、四日遅れて、三菱相知炭坑でも、坑夫千八百余名が鶴嘴をもって殆んど暴徒化し、又貝島炭坑でも五百余名が街頭デモで喚声をあげ、ダイナマイトを投込むという騒ぎがあった。 県ではただちに警官を総動員し、軍に鎮圧を要請し佐賀五十五連隊から五百余名の軍隊が出動、地元の在郷軍人も協力にのり出した。其のうち相知は間もなく妥結が出来て静穏に帰したが、岩屋は給与の増額よりも、平素の社員との処遇感情が根にあった為め、一向鎮静の空気なく、社宅の大部分は社員、家族共附近に逃避して、殆んどが居留守なっていたのに、暴徒は雨戸を叩き破って家内に乱入して、家財道具を破壊し中には放火する兇暴さえあらわれた。鎮圧の兵隊は附近の丘陵に配置され警備にあたり、殊に実弾を発射するという最悪の事態さえ発生したが、九月四、五日頃に漸く平静に帰した。 時を同じうして、杵島、多久、明治の各坑にも争議がおこったが、何れも数日にして鎮静に帰ったが、佐賀県の場合、全国的な米騒動とちがって何れも炭坑の賃上げ要求が問題であった。 そして此の争議は、岩屋九十五名、相知五十九名、杵島九十六名が起訴され、佐賀地方裁判所の公判で、騒乱・建築物破壊・傷害・放火等の罪で夫々処罰されたのであった。 |
変遷著しい大手口一帯 われわれの生活環境は、時々刻々と変ってゆく。現に最近大手口にあった唐津神社の大鳥居や石灯籠が、神社境内に移されて、明神小路は路幅まで広くなった感じがする。ここで昔にあこがれる老人の記憶をたどってみる。 今の市役所、前の唐津小学校前に堀があって、西に迂回し城内と町家とを区劃していたことは、大概の人が知っていようがその堀の東の方、俗に大手口という唐津の中心地域がどんな状態であったかを知っている人は少なくなってゆく。 はじめ寺沢公が唐津築城の時、城内と民家街とは確然と区劃され、城内外の交通連絡は、一は西の門、今の志道小学校裏通り西方の石垣のところ、一は大手門今の裁判所前ロータリーのあたりの二カ所に限られ、両所とも小楼門があって門番が看視していた。そしてこの大手門から西の門までの堀は肥後藩の受持土工であったため肥後堀といわれていた。それから東の方はまいづるデパート、バスターミナルの敷地が全部堀であって、ロータリーの西辺で右折、そこに大手門があり、それから東は柳堀といって大越デパート辺から左折し、唐津信用金庫、福岡銀行支店、佐賀銀行支店を始め今の大手通り北側総帯が堀の水面で町田川に続いていた。 そして明神小路は神社前から今の商工会議所前四つ角までで行詰まり、道幅も二間足らず西側は士族屋敷と草むらが点々して寂しい通りであった。そして唐津神祭には神輿行列は社前横小路を東へ大名小路に出て右折大手門から町に出ていたが、道が狭いので参詣人も少なく、浄泰寺前の勢溜り広場札の辻の高札場に見世物小屋や露店が出て賑わったそうである。 ところで当時数年に亘って懸案であった佐賀〜呼子県道が実現することとなり今の佐賀銀行前の通りを西へ刀町から近松寺角を曲り江川町を通る計画であったが、刀町、江川町では家並みに軒先を切られるというので大反対となり、計画変更して大手口広場から刀町の北裏を肥後堀に沿うて開通、二十四年に呼子県道が出来上った。そこでこれを期として唐津神社氏子惣代前川仁兵衛他四名から、明神小路南端から呼子県道に結ぶ道路開通のため、肥後堀七十余坪の埋立を県に出願、許可が出たので同時に明神小路路幅を五間半に拡大することとして私有土地八百余坪を買収して、八百屋町佐々木吉治が監督となり、工事の大半は氏子有志の奉仕によって、二十六年早々完工した。此の時石灯龍を木綿町から記念として献納されたのである。 そして明神新道路以西の肥後堀は、防火用水、暴雨洪水緩和の為に、堀そのままとして今のまいづる、昭和の地点全部埋立て、公私夫々に売払ってしまった。 又西側は大正年間に三ケ島通義、吉村福太郎の二人から払下げ出願があったが許可なく其儘になっていたが、市の中心部が東西に分断されて何かと不都合だと昭和二十四年度に失業救済事業として現状のように埋立てた。之れはまだ新しいことで人もよく知っているから、此のくらいにしておこう。 尚、今度移転した石の大鳥居は昭和六年八月一日に刀町宮崎清太郎氏によって献納されたものであった。 初代河村市長の業績 世の動きにつれて地理風俗の変化は当然のことであるが、唐津市ももうそろそろ市制四十年になろうとしている。今四十年の昔をふりかえって見ると色々な思い出が沢山あるが、現在の唐津市民でその事実を知っている人は人口の三分の一とは居まい。そこで又もや老人の昔ばなし。 勿論、各町とも町のすがたや生活の状態は変っているが、一番目につくのが材木町北裏側の埋立地ではあるまいか。千代田町、栄町は無論知っていても、材木町の北裏口まで松浦川が流れていたなどは一寸想像もつかないかも知れない。 大正時代までは、今の電灯会社から東一帯浅くとも松浦川であって石塊が川底を埋めて舟もつけられなかった。そして、芳谷、相知方面からのダンペの石炭は公園下満島渡しの附近で帆船に積込まれていた。 そして大雨などで松浦川が大水となると、流れて来た水が町田川に流れ入り、汐の先あたりまで逆流して田畑を荒らす被害は年々続いた。 当局でも何とか手を打ちたいと考慮した末、矢田町長時代、松浦川左岸町田川尻約二十五、六間、長さ三百間ばかりの突堤を城内二の丸近くまで築いて、松浦川水の逆流を防ぐこととしたが、更に杉山町長時代に其の巾を倍大し、約六十間ばかりに広げ民間利用を希望したが利用者がなく、わずかに唐津町村合併祝賀会や防空演習の基地に使われるにすぎず、僅かに一、二の旅館と飲食店とが出来たにすぎなかった。 その後市制になって、第一期の河村市長は、唐津市将来の積極計画に頭を費した末、遂に材木町裏の埋立てに踏切った。然し松浦川上流の北波多、鬼塚、相知、久里等の諸村から、大洪水等の流水が汎濫する惧れがあるとして大反対、更に地元材木町としては、従来の景観と生活環境を変えること並に少々ながら物資の搬入に不便だなどと色々な反対運動があったが、市は強行で失業対策事業として昭和九年に着工した。 その計画は大体導水堤の北端から東南に、旧松浦橋南詰まで全部で、総面積四万二千余坪、導水堤との間に約四万余坪の高島通航船の船溜りを残しただけ。 工費十二万四千円で、大きな失費のようだが、色々な希望者が続出して対魚者を制限するのやむなきに至り、今は唐津市中央部を占むる重要工業地帯となっていることは人の見る通りである。 そして河村市長は、その他にも唐津港の第一期工事修築やシーサイドホテルの建設開業、上水道の開通や千代田橋の架設、青年学校(今の一中)建設開校、鏡山登山道路の開通等に数々の業績を遺したが市長就職前の町村合併や市制施行の紛糾が尾を引き、市長職務管掌として初期市長の地位をねらった萩谷勇之介氏の策謀等、色々な軋轢があり市議中にも去就不明のもの半数近くもあって、河村市長もまだ幾多抱負を持ちながら、一期の任期終りと共に腰をあげて東京へ去った。そのあとを次いだのが西山市長、続いて萩谷市長、それらは又の機会に話そう。 虹の松原と軽便軌道 この頃の交通混雑にともない、虹の松原を縦貫する国道二〇二号線も、車のラッシュで色々な被害が続出し、松樹に突当って松を折るとか、車体が大破壊するとか、事故頻発して、ここ数年、道路管理当局と名勝保存関係の当事者との間に道路にはみ出した松樹を伐採して交通の安全を守るべきか、如何に特別名勝を維持すべきかなど、夫々の立場から、いろいろの論議がたたかわされていたが、愈々唐津バイパス線の建設が決定し、近く着工して四十九年度に完成の予定だという、楽しいニュースを耳にすることが出来た。それについて思うことは、今から五十年も前の道路に関する思い出。 大正十年頃のこと、東邦電力会社の軌道が、浜崎から虹の松原を抜け唐津町内を通って佐志に達していたが、一方北九州鉄道会社が大正八年創立され架線工事を始たものの、先ず基点とも見られる虹の松原・東唐津間が、松原の名勝に煙害を与え風致保存上不都合だと、地元其他唐津地方にも反対意見が相当強くなって、十二年二月内務省史蹟名勝天然記念物調査会の国府犀東氏を迎えて近松座で演説会を開くというモウレツさ、更に内務省の三好学理学博士は「本邦の海岸に黒松林の風景と知られたる所少なからざれど概ね是れ松林一帯の景観にすぎず、一々の松樹が宛然園芸的樹勢を呈すること虹の松原の如きもの稀なり。(中略)松原の内部を縦貫せる道路には軽便軌道により汽車を運転せば煤煙の為め松樹を害する惧れあるにより電車に改むるに如かず」といった書類なども公示されたので北九州鉄道でも最初の予定を変更して、先ず大正十二年十二月、福吉浜崎間が開通、徐々に東部を運転開始、一年半遅れて十四年六月に、虹の松原、東唐津間を開通した。 ところが丁度其頃、杉山正則唐津町長は、貿易進展に伴なって唐津町内を整備するために、松浦橋南端から西の方唐津村境までと、大手口、唐津駅間を十間道路に拡張する計画をたて町会の同意を得かつ問題となっている東邦電力の軌道電化の計画に助力することを意味し、その資源としては材木町北裏松浦川沿いや、小学校前肥後堀の埋立て払下げを予定し、二力年計画で工費三十八万円の予算であった。そして材木町裏、浜ノ町、新堀等地元からの先願者もあったが、地先権の問題等を約束し、道路の一部を電車に提供することに決定、夫々準備を進めていたが、松浦川の上流地方久里・鏡・鬼塚等から、松浦川下流を埋立てた時、大雨洪水の場合、水害の惧れがあるとして猛反対、又一方埋立地払下の希望者も案外少なくて、財源難が考えられて来たので、一層電車敷地の分だけを東邦電力に無償払下げの議も出たが莫大な町有財産を一営利会社に無償払下ぐるは不当だという民間側から反対意見ももり上って来た。 然るに殆んど其のさなかに、県に出願していた予定地の埋立が不許可になってしまった。これで道路拡大と電車敷設の問題は、夢のように消えてしまった。然し若しこの計画が出来上っていたら、其後の交通状勢から電車が其のまま持続していたかどうかは別として唐津市内の様相も大変かわっていたであろう。 河村市長選出の内幕 先日、唐津市勢一期市長河村嘉一郎氏の業績を話したが、当時の唐津は紛争の町として知られた位に、水火の争いに出発した町政の混乱が打続いていた。明治の末頃から大正を経て昭和の始めまで、唐津の自治制は、ボスと財閥との勢力を争っ政争の庭のように、特権階級の争覇の場で、住民は只無意識に巻込まれていた。その中でも唐津市が初めて生まれた昭和七年、第一期市長出現の一幕は、実に此の紛争自治制の頂点とも云ってよかろう。 大正五年矢出町長の退任後、市制になるまで、一任期を完了した町長は一人もなく、最後に近い豊田町長も昭和二年二月、助役任用のもつれと旅費問題から辞任し、一時太田助役の町長代理で過したが状勢の変化が朝夕甚しいので間もなく辞任した。勿論正式の町長でないので県の任命による職務管掌が、古賀丈一・大沢安太郎・多田雄次郎の三氏、続いて臨時町長代理が古賀敏雄、萩谷勇之助の二氏と続き、萩谷氏代理時代に、昭和三年五月の町会で萩谷氏が実際の町長に当選した。萩谷氏は、時の佐賀県知事大島破竹郎が島根県警察部長時代の部下で、唐津町紛争解決の一役として任命したもの大島知事はゴリゴリの政友会派であったため、唐津地方の政友会が大いに力を得たのは勿論のことである。 ところで、以前から問題になっていた唐津町と村との合併問題は、豊田時代から表面に出て来て、よりより折衝されて来ていたが、西唐津方面と山村部との意見が対立し同和せずにおったもの。萩谷町長出現と共に更に表面化したが萩谷町長の高圧的出かたに対し、村側の条件と相容れず、空しく日を送っていたが、丁度井上佐賀県知事が自ら来唐して居中調停の労をとり漸く大体の妥結を見るに至り、村側で問題になっていた財産処置の件も話合いがついて、中道家で手打式が行なわれた。 然しこの筋道に直接参加しなかった議員外の有志等の有力者間に、土地の処置や戸数割賦課等の問題で意外の反対があり数カ所にわたり反対演説会が開催され時には萩谷市長自ら演壇に上って釈明するという一幕もあったが、結局は大唐津建設後、唐津港開発等を重点として合併が決定するに至った。 細部の条件として表面に出ていたのは、村長が町助役に、村助役が収入役に、町会議員を六名増員して増員の分を村部から選出すること、村吏員十四名を其のまま町に採用引次ぐことなどで、八月の町会で予定通り三十名の町会議員が出来た。ここまではまずそれなりに市政施行の下準備が進められ、県にも市政施行を申請、十二月になって翌年一月一日市政施行が公示された。そして一月一日付萩谷勇之介氏が唐津市長臨時代理者に任命された。 これと共に今まで表面に出なかった市長人選の問題が表面に出て来た。萩谷氏は勿論最初から其の目的を持っていたことは明かで、三十名議員中十九名は政友会を主体として確実な萩谷派と見られ、反萩谷派と見られる十名余の去就は大して問題とも見られなかったところがある一夜、坊主町小林万里氏宅に一部有志が会合、打倒萩谷として河村嘉一郎氏推挙を申し合せた。そして城内清川旅館を本拠として市長選の準備にかかった。その中には市会議員十八名が名を連ねた。之を知った萩谷派も色々手をつくしたが力及ばず、やむなく初市会の開会を引延ばしたが、河村派では、再三市役所に押掛けて市会開会を強要したが、萩谷代理市長は之を受付ず、デンとして動かなかった。ところが誠に偶然の運命、人智の推測出来ないのが世の中である。 丁度其の頃、刀町出身の野田善喜陸軍少佐が、明野原飛行上空で殉職したので市では市葬の礼を行なうことになったが、こういう不時な予算があろう筈がないので、急速に予算追加の為議会を開かねばならぬこととなり、やむなく二月十八日に第一回市会を開会、先ず市会議長に清水荘次郎氏が当選、引続いて市長選挙には反対派の議員が退場、十八票の満場表で河村嘉一郎氏が当選した。 河村氏の業績については前に述べたが、市政の紛糾は尚つゞいて助役問題や訴訟事件等幾多の問題はあったが、又の機会に。 西山市長出現の経緯 河村第一代市長の業績については前に一応書いておいたが、河村氏が更にその席を続けていたら、唐津の様相も今日とは大きく相違していたのではなかろうか。残念ながら明治の末期から続いていた町政市政の派閥闘争は、益々深刻になり、市政批判演説会とか告訴とか次々に勃発して、特に唐津村合併の際の南部農村原野の処置問題、火葬の屍体焼残り事件、或は西の浜鉄道省海の家問題等、次から次とイヤな事件がおこっていた際、更に第二助役問題で紛糾を加えた。 助役問題というのは、河村市長就任の時、県の推薦で神埼町長八谷弥吉氏を主事に採用したが、町村合併の条件として唐津村長から入って来た飯田助役が、人物というよりも迫力が足らず、対外交渉が円滑に進まない為、新たに八谷主事を第二助役に昇格することとしたが、其の頃市会における勢力分野は、市長派反市長派共に過半数に達せず、小数の中立派が決定権を握るのみか、萩谷前町長が影に糸を引いて微妙な動向があり、助役決定もあやぶまれた。 丁度その時、反市長派が多数をしめる市会産業委員の視察旅行があったので、この機会にと市会開会、市長派は皆胸部に白バラの徽章をつけて入場するという異例な市会となり、反対派からは、こんな不純な市会は即刻解散せよなどといろいろな罵声が起り、四時間に亘って騒いだ末、反対派全部退場したので、其の後で八谷助役案が決定した。 そしてその翌晩、夫々に祝賀会や残念会が開かれている席上、突如双方の会場に唐津区検事局から手入れがあり、双方から夫々四名ずつが検挙されて佐賀刑務所に収容され、取調べの結果、内二名が罰金刑となり他は免訴となった。こうして波潤か波瀾を生み、市民大会とか告訴事件も相次で止まる所を知らず、見かねた唐津商工会長の古川仁一氏が調停に入ったが効がなかった。ところが偶然飯田助役が私事によって辞任したので、もみにもんだ助役問題もわき上った。 コンなゴタゴタの間に河村市長の任期も終りに近づき翌十一年二月十六日に終了することになったが、それに先だって一月二十一日に第二回の市会議員選挙が行なわれた。次の市長選挙を行なうこの市会は、河村派十一名、反河村派十三名、無所属一名、中立派の内三名が反市長派に組する見方が強かった。 こんな形勢のなかで、市当局も第一回市会招集を引延ばしていたが、反河村派から数次の要求があって、二月六日初市会開会、議長に清水荘次郎氏、副議長に脇山貞俊氏が決定した。 そして、今日迄の市政の混乱を打切るため、公正平和の唐津をつくりたいと、市会内に市長詮衡委員会を設けた。其の席上話題に上ったのが、先ず高取盛氏であったが、将来の市会の動向から禍を及ぼす倶れなしとしないということで沙汰やみとなり、次に藤生安太郎氏の市に無関係の人からではとの発言で、西山茂氏が浮び上って来た。そして二月十六日福岡で委員が西山氏と会見 意見の円満交流を見て十八日の市会で、出席者二十六名の内十九票で西山市長が決定した。 西山市長出現と共に動揺をしたのは市吏員で唐津を知らない市長の為にどんな立場の異動がないとも限らぬという不安、八谷助役は之を慰留して、一応その動揺が鎮まったのを見て六月に辞退した。続いて其の後任助役には山下英市主事の昇格と萩谷氏任用の両説があったが山下氏はもと萩谷氏の配下であった関係もあり自ら辞退して萩谷助役が決定した。 今にして思うと、萩谷氏は初めから市長を目的として唐津に滞在したもので、之までの市政波瀾の蔭には萩谷氏の動きが多分にあったものと見られる。 扨て西山新市長の業績は河村市長の残した町村合併を実現し、上水道の完成、自らの創意としては鏡山県立公園や第二種重要港湾の決定を見た外、格別の事業はなく二夕子大島間の海岸線埋立、公園下牡丹江工場跡(今の体育館附近一帯)に奥村会館の建設等を計画していた様だが一事をも実現せずに部下吏員の軍事慰問金横領事件でごうごうたる非難の的となって居る折柄、突然におこった金鵄勲章問題で其の席を去った。在任約三年、殆んど無為に過したとも云えよう。 |
突発の金鵄勲章事件 引責辞任した西山市長 唐津市会が昏迷を極めているうちに、河村第一期市長の任期は終了したが、派閥抗争の為に第二期市長候補者がなく、輸入された西山市長も手の施しようがなく、無為に三年を送って残期一年になろうとする昭和十三年秋、たまたま市史員の軍事慰問金横領費消事件が表面に出て、市会も市民も蜂の巣をつついたように騒ぎ出し、市民大会を近松座其他に開催、大会実行委員は毎日のように市長室に押掛け貴様呼ばわりまでして責任辞職を強要しても西山市長は頑として応ぜず遂には西の浜の自宅に閉居して一般の面会を謝絶していたが、ときもとき勃発したのが、金鵄勲章問題である。 今頃金鵄勲章などと云っても、ピンと来ないかも知れないが、時はあの支那事変の最頂期、天皇絶対の当時、軍国主義の象徴ともいうべき金鵄勲章は、国民あこがれの的であった。 その時代、その支那事変で名誉の戦死をとげた石丸陸軍少佐に下賜された功五級金鵄勲章を、当時唐津市明神小路に住んでいた同少佐の遺族に伝達するように唐津市役所に送って来た。ところでその小包を開包した使丁がその箱を開けて上部に入れてあった勲記の筒だけを取出し、内部を調べもせずに勲章その物を入れたまま芥溜めに捨ててしまった。勿論それはその尽塵芥車に積込まれて、神田の塵焼場に運ばれてしまった。 ところで塵焼場では、現物管理をしていた倉田係員が、その中から黒漆塗りの綺麗な箱が出て来たのでソット開いて見たら、何と金色燦然たる金鵄勲章が出て来たので、ビックリした倉田は、これは大変だと平素世話になっている市会議員の繁田七五三蔵氏方に持っていった。勿論繁田氏も驚きである。よく打合せた上倉田はそれを市の衛生主任和田重雄氏方に、更に和田氏から同伴されて萩谷市助役に届出た。ところが萩谷助役はそれを預からずに、これは大切なものだから厳重に保管せよといいながらお茶でも飲めよと金十円を渡した。倉田はその勲章を繁田氏に預け、和田主任同伴で他の係人夫三人集めて大手口の肉屋に上った。間もなく和田主任が帰ってから自分らばかりで飲めや歌えの大散財、たがを外して乱暴となり、肉屋も持てあまし警察に届出たので、警察で取調べの結果、事実の内容はわかったが、丁度その頃市では、前に書いた軍事慰問金費消事件で騒いでいる最中だったから、之が表面に出たら手のつけようもないと、ヒタ隠して善後策を研究していたとき協議中の署長室の隣室の特高室に来合わせた某新聞記者が耳にして、『金鵄勲章がどうしたというんだ』と尋ねたので、其場はとやかく言葉をにごして隠しておいたが、いつの間にか世間に出てしまった。 無論、世間でも前からの公金横領事件などで、大騒ぎの最中、あと一年の任期を守ろうと頑張っていた西山市長も、遂に力及ばず十二月二十七日「部下督励不行届のため自責の念に堪えず」といった理由による辞表を清水議長に手渡した。清水議長は之を二十八日萩谷助役に引渡した。そこで萩谷助役は之が善後処置を決定する為め市会協議会を開いたが、議論百出して決論を見ず年を送り、翌十 四年一月七日の市会で西山市長の辞職を承認した。 萩谷市長就任と功罪 市会形勢が甚だ面白くないのにかかわらず、西山唐津市長は頑として席を動かなかったが、あの金鵄勲章問題で己むなく辞職したことは前号に書いたとおりだが、萩谷助役は就職以来西山市長との折合いが悪く、特に市長の位置を待望していただけに、時を狙って裏面工作怠りなく、あの市吏員公金費消事件等反西山的な社会状勢が色濃くなり、市会でも西山派の中心勢力であった明朗会から九名もの離脱者が出て、西山派が半数を割って来た際、丁度おこったのがあの勲章事件である。流石頑固な西山市長も力及ばず辞表を出した。 市会では丁度支那事変の最中であり、自分等にも幾分責任はあり、市政混乱のあとを浄める為の、あと一、二カ月にせまった選挙で出来た新議員によって市長を選任するのが本道だから其間は萩谷助役を以て臨時市長代理として、暫定的に市政を運営したいと云うところに大部分の意向が一致していたところ、県では之に手をかさず、臨時市長代理を派遣することに決定し通告があった。 そこで市会では市長問題について抗議を兼ねた陳情に議員二十名が打揃って県庁に押掛けたが、県は全然之を受入れなかったので、一同憤懣やる方なく、帰りに昼食を共にしながら色々の意見が出たうちに、事此処に至ってやむを得ない唐津市の名誉のためにも、今日迄の紛争をすてて、前市長の任期約一年を萩谷氏にやらせてはといった発言があり、全員之に同意したので、其帰りに木綿町中道家に立寄り、更に熟議の上、萩谷助役を招き寄せて、西山市長の残任期間の市長推挙を申渡したところ萩谷助役は、末席に正座して「三日でも三月でも、市長になることは家門の名誉であります」と頭を畳に押付けて感謝したそうである。十年も持ち続けた希望がかなえられたのだから、其の気持は想像に余りある。 そして翌十四年一月七日市会は西山市長の辞任を承認した。次いで同十二日県事務官村山二郎を市長代理に任命した。それから村山市長代理によって十八日に市会招集、開会に先だち議員のうち反西山派の二十名の連署によって萩谷市長支持の声明書を発表、そして開会、僅々二時間足らずで萩谷市長が当選、二十日萩谷氏之を承諾して、第三代唐津市長が生まれた。 此の間、最初から一貫して萩谷工作に努力して来たのが富永鏗之助、木村字太郎の両議員、そして此の運動工作に動いた金が五百円を越しているだろうといわれた。 こうした萩谷市政をあとから顧みると、僅かに一年位で出来よう筈はないが、佐志町合併、大連航路開通、母子寮の建設、港湾第二期修築補助要求等数々、一々上京運動につとめたことになっているが、全部不成功ただ海員養成所が従前の佐賀郡では不合理なために大島に建設開校されたが、これは加藤県知事の要望によって、地元が応援して実現したもの。そして此等の出張運動費に相当の費用が出ている。この一年の市の出張旅費四千五百円の内、市長だけで使ったのが約四割であった。 そして此の一年間に市行政の不行届目に余るものがある。戦死者市葬の後の二次会の大騒ぎ、国防婦人会に会場提供の拒絶、市庁舎での度々の酒乱宴会、市吏員採用についての不合理不公平、其他色々な失態悪政が世間に出て来たので、推挙した市会議員も歯が立たず、遂に中立派議員が中心になって総親和運動が出来、岸川善太郎氏が居中調停し最初の任期一カ年を正面にし、退職金其他の有利な条件を並べて話合いの未、漸く妥結、萩谷市長は四月五日に退職した。 後任に又人選に苦しんだ未、色々な曲折があって其年七月二十九日に至って岸川善太郎氏が就任した。其間の動向は又の機会にゆずろう。 |
岸川市政実現の経緯 強引に居据わろうとした萩谷市長を辞めさせた経過は前号に書いたが、その彼岸川市長が生まれるまで約四カ月、後任市長の人選が又問題となった。もめ続けた市長の椅子には中々適任者が見あたらず、市会側でも色々考案の末、新らたに名誉市長条例を制定して、高取盛氏の出馬を希望したが容れられず、丁度其頃出身地杵島郡に帰っていた元貴族院議員海軍政務次官の中野敏雄氏はという意見が出て、前山市会副議長他三名が同氏を訪い了承を求めたが、これも同意を得ず、市長事務は萩谷市長退任の時、県からは市長代理助役職務管掌として地方事務管大竹民渉氏を派遣し、更に県属遠藤金蔵氏を派遣していたが、市長候補者がなく市政低迷の実情が続いた。 そこで一部有力者側からこの際一層岸川氏に出てもらってはという立案があった。岸川善太郎氏は人も知る市実業界の長老で、萩谷退陣の総親和運動の総指揮者であり萩谷氏辞任決定した最後の打合せの主催者でもあり今日の市政の苦境を切り開くためには氏以外に人はないと市会全員が同意して氏の出馬を要請した。 然し岸川氏の意は動かず連日強引な説得客の来訪に困りぬいて、表面行衛不明として親交のあった田島神社の宮司宅に身を隠したが一週間に亘って留守宅への来攻がやまないので、夫人もその応接に困りぬいて、打合せの末帰宅し、遂に応諾の決意を表した。そこで市会の議決によって七月二十九日岸川市長が出現した。 四年に亘ってもみぬいた市政は岸川市長の実現で一応安泰を得たとして市民もホッとしたが、丁度其頃支部事変が抜差しならぬ事態に突入していたので、岸川市長も先ず市政は第二として、市民の実生活よりも、出征軍人の送迎、遺家族の慰問や防空訓練、防空壕の修造、食糧増産の指導や特に西唐津港ジャンク基地の改造等、老躯をひっさげて昼夜別かたぬ大活躍、傍の見る目も気の毒な有様であった。 然かも時局は日に悪化して、十九年には全国に首長議員の選挙を差止める処置が指令されたので、岸川市長も七月末の任期満了を其のまま市長の椅子を守らざるを得なかった。ところが終戦後二十一年に至って進駐軍の内命によって、戦争中の指導者の公職追放に関する勅令が出て、其の対象者選考の中に、岸川市長は戦争中大政翼賛会の指導者として、その人選に入る模様が確になった為、発令前の十月二十四日市長を辞任した。其後横尾助役が市長代理者として翌二十二年四月まで市政を預った。そして岸川氏は病気でこの世を去った。 岸川市長の業績として残るのは、先ず佐志町の合併であった。この合併は唐津港をいだく行政の統一を目的とするもので、河村市長以来歴代の市長が交渉を呼掛けていたが、佐志農村部に猛列な反対があって実現出来なかったもの。岸川市長はその経過を重視して強く佐志側に申入れ、吉田佐志町長も時局の推移を考慮して合併に踏出し、県の協力もあり手をつくした末、市会議員六名を増員し、その全部を佐志側にゆずること其他の条件を以って、佐志町会も絶対多数で決定し、昭和十六年七月一日合併が実現した。之れが岸川市政の第一業績と云うべきであろう。 それに続いて今の富士見町の住宅街。終戦後引揚者が沢山入込んで来たが、住宅難になやんで市で思立ったものの当時は一帯の砂漠で西部に小松林があったに過ぎない。そこを開拓して約百戸の市営住宅建設に着手したが、竣成直前に岸川市長は退任したが、工事中西ノ浜某家の二階から展望して、東北に筑前富士が見渡せるところから富士見町と名づけたというエピソードもある。 更に同氏在任中に出来たもの、満島小学校の新校舎、健保組合の組織、市営ではないが唐津商業学校々舎落成、焼失後の官立海員養成所の再建拡充があった。 更に今一つ大きな業績としては、中町の拡大である。中町はそれまで市街地の中心部でありながら、道幅僅かに二間で人通りにも困難、取りひろげの世論は相当あったが、現住者の移転や軒先の切取り等で話がつかなかったもの。岸川市長は之を八間幅に拡大するよう計画、色々折衝の末、四間幅とすることに話が妥結し工事に掛ったとき、戦争末期に全国を騒がせた家屋疎開の命令が出たので、工事はうまく進捗して、今日のような見事な様相となった。 之れと前後して市内八カ所の家屋疎開が行なわれたが、その一カ所である平野町通り、之れは前から度々問題になっていた所であるが、この機会に唐津駅前の広場が約六倍大に拡張され道幅を約三倍大に拡大、平野町を横断し刀町を突切って、現市役所前に至る道路としたが、之れは間もなく県道に編入された。 之れは当時としては居住者に大きな損害を与えたようだったが、今日になっては戦争が残した大きな功績とも云えるだろう。 |
高女から現西高まで 明治三十二年初めて唐津に県立中学校が出来たことは前にも書いたが、之に伴って、女学校という声が高くなって来た。そして三十九年の秋、町会でその打合せがあり、高女を町立としては負担が重すぎるから敷地寄附を条件として県立誘致を申合せ、同年十月一日、矢田町長が町会議員三名を同伴して県に出頭、県知事に陳情したところ、現在の高等女学校は文部省の規則によって条件がやかましいから各種学校とし、町立としてはどうか、その場合には県費補助も考えるという話であったので、改めて九州の類似地久留米、宇佐、八代等を視察の末、愈よ町立高女の設立を決定して、建設費一万五千円、経常費四千円位の予定を以て、文部省に創立を出願しすぐ許可がおりたので、四十年三月から町立実科高等女学校を創立、先ず当時大名小路にあった東松浦郡公会堂を仮校舎とし県視学丸山金治氏を校長に迎え、生徒は一、二年生を合せて約百名を入学させて四月十五日に開校した。勿論仮校舎で設備もないまま、幔幕を張りめぐらして各教室を区切り、机椅子類も不揃いのまま、科によっては板の間に莚敷きという教室さえあった位だ。 然し創立後の教育運営が甚だ順調に進んだので、町郡の世論もあり文部省規則に適応した高等女学校に改組することを決意、その手続をなし、先ず坊主町の北瑞にあった国有地の無償払下げを受け、四十一年一月今までの実科女学校を廃止し、改めて県立唐津高等女学校として新出発することとし、土地購入、校舎新築等のため予算三万三千余円なお不足分には寄附金を募集して着工、同年六月新校舎に移転した。其時生徒数三百三名、職員数十七名であった。 そして尚内容を整備するため、県移管を要望してはという声が高くなって来た。一方必要上から大正八年に寄宿舎を建設した。その工費約七千円余、六月から生徒を収容した。こうして内容が充実すると共に、大正九年四月、今までの希望は達せられて、県立に移管が実現された。勿論、敷地、校舎建物、什器等は県に寄附することとなった。県立以後は予定の通り校勢順調に進み、寄宿舎は昭和六年四月に廃止したが、学制においては、昭和十三年四月には専修科を置き、翌十四年には専修科を補修料に昇格、更に十八年補修料を専攻科に改めた。 其の後のことはまだ新しいので知る人も多かろうが、二十四年学制の変革と共に唐津中学校と統合男女共学制となり、唐津西高等学校となった。 もう忘れた人も多かろうが、昭和十五年創立三十周年を記念して、当時の校長夏秋源次郎氏が旧友西条八十氏に依頼して出来たのが、最後まで歌われていた校歌である。 |
唐津納涼博覧会のこと 昨年は万博で日本中ワキ返ったが、思い出されるのは、五十年前に開催された唐津納涼博覧会のことである。それは唐津を中心とした此の地方では、今まで只一度しかなかった大規模な催しものであった。納涼など冬の最中にどうかと思われるが、忘れぬ内に書いておきたい。 計画の初まりは、大正十年のこと。明治四十三年に南極探険で世界中に名をあげた白瀬中尉の息、白瀬中尉が、佐世保海軍航空隊の部隊長として、飛行機三台で唐津に来航、西の浜に着水した際、杉山唐津町長と会談の折、鎌倉では夏海水浴期になると毎年物産博覧会を開いて人気を揚げているが、唐津でも思い立ってはどうですかと云ったのが動機。翌十一年納涼博覧会を開催することに決定、会場を唐津小学校とし、会期を学校の暑中休暇を利用して七月二十一日から八月二十日までの一カ月とした。 ところが、杉山町長は、平素中島五十男東松浦郡長と折合いが悪く、一般行政面でも円満を欠きがちの時だったので、この博覧会の計画にも、県と郡とはソッポ向きで一切無関心の状態だったので、岸川善太郎氏が仲に入って、和解後援方を要請したが、県郡は之を容れず、開会式には知事は出席せず、県産業課長が列席しただけという冷淡さであった。 だから唐津としては開会運行のため、福岡市にたのんで同市の富田産業課長を事務総長に依託し、審査総長に工学博士宇佐美桂一郎氏、副長に唐津出身の当時戸畑専門学校教授工学博士栗林鑑示氏を嘱託し、事務には塩田鼎、山崎一郎両氏等があたり、後に町会議員辻富次郎氏が割込んで采配をふった。 そして予定通りに会場其他の設備を進めた。先ず六棟の平屋教室全部に、農産物・水産物・食料品・衣料品・工芸品等を配置した。その中には、関東方面から河合の甘酒、山梨県の甲斐絹、鹿児島県からは薩摩かすり、更に台湾から美人画入りの扇面等、当時の唐津としては珍らしい出品が山積した。更には校舎表西側の二階建て教室は美術館として、牧川鷹之祐氏の斡旋で古美術品や唐津関係の新作品を展示した。 それから今一つ、余興場として校庭西北隅に仮舞台を建てる計画であったが、之に対し県側では神聖な教育の場を余興に汚すはけしからんと、不許可を申渡されたので、やむなく隣接した伊沢氏の屋敷の一部を借受け、仮小屋を建て、学校敷地を見物席として、会期中芸妓の手踊り其他、有志芸能趣好者の出演で大いに賑わった。 そして街頭装飾として、唐津駅から呉服町を経て会場入口まで両側に幔幕、花飾り、会場入口には大きな装飾門、入口右側の石垣の上にも大きな太閤の塔、正面広場には子供遊園地としてロータリーを作り、会期一ケ月を通して入場二十万に及んだろうと云われた。 ところでこゝに暗影を残したのは総裁問題であった。先ず総裁に小笠原長生子爵、副総裁に高取伊好氏、会長杉山町長と決定して、夫々に手続をすましてあった筈だったが、どうした手違いか、小笠原総裁の受託が未済であったのに、それに気付かずに公文書に総裁名を使用したことから小笠原子爵の怒りを買った。 当時の社会状勢としては由々しき大問題。掛下重次郎氏を代表者として唐津焼を持参して陳謝、杉山町長も会務の終結を待って町長職を辞任し、博覧会の幕は閉じた。 虹の松原海浜院の 転業問題で大騒動 生産工業等の企業誘致運動にあまり成績をあげていない唐津は、今、観光が第一の資源であるといっても言い過ぎではあるまい。それが今から三十余年前、昭和十年頃には邦人の観光客の年間消費額約三十余万円それに上海方面から来遊する外人の落す金が二十余万円、夏始めには虹の松原所在の旅館・ホテルは予約満員の好景気であった。それが突然終止符を打つような大事件が起った。 それは昭和十五年初めから表面化した問題で、唐津地方観光の重点とも云うヾき、虹の松原の中央にあった海浜院ホテルの転業問題であった。海浜院は明治の末年頃に建設され、当時村崎広輔氏の経営で、松原旅館の第一流を争い増築に増築を重ねて来たのであったが、問題というのは、その海浜院の建物一切を有浦に開業中の吉田元昭博士が買収して、その本院をここに移転しようという計画。村崎氏との交渉も順調に進んで、買収価格十万円、五月上旬には五千円の手付金が授受され、残額の支払方法も決定、六月上旬に物件受渡を行なうことになっていたという。 ところがこれが受渡の直前になって表面に知れて来たので、地元観光業者は勿論、他の住民間にもごうごうたる反対論がおこって来た。 けれども受渡両者とも初志をまげず、五月上旬に地元鏡村では、村会議員や区長有志等を集めて協議会を開き、全員一致で療養所開設に異議なきことを決議し同夜は吉田博士の招宴に列して歓を尽した。 ところが、翌日になってこの裏面工作を知った松原の旅館業者・おこし業者が吃驚して大挙鏡村役場に押寄せた。そして「右療養所が出来た場合、肺患者を隔離監視すべきで、それでない限り松原は患者の散歩場となり清浄を誇った空気も病菌に汚染され、病菌の培養地と化し観光客が来なくなるなどの理由を挙示して当局に抗議し、遂に前日村が行なった会合の列席者を除外して協議、療養所設置反対の態度を決定した上で、岡崎同村長は県に対し療養所設置不許可方陳情し、又唐津観光協会でも与論の沸騰に鑑み、県と国際観光局とに善処方の陳情書を送り、地元松原の旅館業者も観光事業のみならず業界の死活問題として、各方面に猛烈な阻止運動を開始した。 一方、松原の東方浜崎町玉島村方面でも住民の間に反対論が高まって、万一療養所が出来た場合、唐津市方面への交通が不快且つ危険であるから、現在の国道を鉄道線路以南に移転することを、要望するという与論さえ出て来るというありさまで、此の療養所設置計画は、殆んど周辺市町村総意の絶対反対とも云うべき実情であった。 初め業務と利害のためのみに計画され、周囲からこんな難問題がおこるとも予期しなかった海浜院譲渡問題は、与論がこうも反対猛烈になった為、吉田博士も翻然として手を引くこととなり、仮屋の西端に変更新築することとなった。 今から見れば結核が不治の病などと恐れたのは昔語りに過ぎないが、医学の進まない当時としてはもっともな話。 更にその一、二年前、西山市長時代に、松原の一部に陸軍療養所の設置を要望誘致するように計画したこともあったが、これは表面化もない内に、先方の都合で実現に至らなかったこともある。 その後海浜院隣に県教職員の結核療養所が出来たがこれも今はなく、ユースホステルが出来た。 |
唐津商業設立の経緯 大正時代唐津にあった三っの中学校の内、唐中と唐女の思い出は前に書いたから、今日は残った商業学校のことを書いて見よう。 唐津で商業学校が話題に出て来たのは、大正初期からであったが、小関世界雄、関根義幹氏らによって出願された。私立唐津商業補習学校の設立が許可になって大正六年九月から、唐津小学校の講堂を借り夜間開校をした。生徒数が二十余名で、翌七年、唐津町立唐津商業学校が、前の私立時代の教員生徒教具等を其儘引継いで発足した。校長は丸山金治唐津小学校長が兼務した。これが公立唐津商業の始めである。 そして大正十年四月、乙種商業学校に昇格し、杉山町長が校長事務取扱となった。ところが丁度そのころ、公園下南側、現在の体育館区域一帯が、当時松浦川上りの石炭船の石炭置場となっていたが唐津線鉄道の開通によって、貯炭場が西唐津に移動して、公園下が大部分空地となっていたので、商業学校を其跡地に新築しようと計画した。然し町でその費用支出をしぶった為、唐津中学一部改築の古材を払下げて、小規模な新校舎を建てた。そして長野県諏訪蚕糸学校の教諭佐藤長秋氏を校長に迎え、ここに始めて商業学校としての独立性が表面に出た。その年、乙種生の卒業式を行なったが卒業生三十六名であった。同年八月一日から八日まで、全国特産品及びポスター展示会を開いたが、成果はあまりあがらなかった。 続いて建築中の新校舎が十一月に出来上ったが、十二月に久留米商業学校の山県又郎氏が、校長兼教諭として来任した。当時は元石炭置場の跡を整地もせぬまま、校庭とし運動場として使用していたので炭塊や瓦片、小石等が散乱していたが、当時は今のように靴ばきも少なかったので歩行も困難、怪我する者が続出し、町予算が不充分で掃除も行届かず、やむなく生徒が交替で庭掃除をすると共に西の浜から砂を運んで来て整地に努力するありさま、同校の弁論大会の席上、「我々は学校に何しに来たか、人夫ではないぞ」と絶叫する者があって中止をくったこともあるという。 そして徴兵猶予の特典を得るため甲種商業に昇格の運動が出ていたが、文部省との交渉思うに任せず、行悩みとなっていたが、十四年四月、岸川善太郎氏が上京したので、此の際と山県校長は岸川氏の力を以って本省と交渉、同年五月文部省の承認を得、五月末日陸軍大臣の認可を得て、愈よ甲種商業学校に指定された。 その間に、大正十三年十一月、かねて工事中の雨天体操場が出来上り、漸く学校らしい体裁をそなえるようになった。そして運動部ではボート部を創始して力を入れ、西の浜で大活躍、先輩の唐中と相競う程であった。そして大正十五年十一月の明治節には東京隅田川で行なわれた全国体育大会にも参加するという張り切りかたであった。 そして昭和四年四月に県立に移管、県立唐津商業学校となり、十一年五月に、創立十五周年祝賀会を開催記念ボートレース大会を開いたが、更に翌十二年、商業学校の実習と一般地方人に理解してもらうためとして校舎の一部と雨天体操場とそれに隣接した旧石炭会社の二階を利用して、全国特産品並にポスター、包装紙の展示会を開いた。これが同校商品室の基礎となった。従って生徒数も五百余名に上り、校舎も狭隘且つ腐朽して来たので、十三年市内元石町の現校舎の位置に新築を始めたが、予算の都合で人夫の雇用が困難、生徒をアルバイト的に低賃金で使役していたが、作業中南側小丘の土砂が崩壊して数名の生徒が生埋めとなり四、五名重軽傷、一名は即死するという惨事が出来、多分に世の非難もあったが無理に押進めて十四年三月に新校舎に移転授業開始した。 十九年に工業学校を併設、二十一年に商業学校と改めたが、二十三年に更に唐津実業学校となり、機械科土木科を設けた。三十七年に至って農工商夫々が独立し、現在の唐津商業高等学校となったことは日も新しいから書く必要もあるまい。 最後に一つ書きたいことは、最初私立商業学校が創立されてから数十年教職にあり、授業の他に校務一切を兼ね処理して来た同校教諭加藤貞治氏の功績は忘れてはならない。 首長当選を取り消し 大正四年の唐津町長選挙 此の四月は地方首長議員の選挙で街頭は賑やかなものであったが、選挙で思い出されるのは、今から四十余年前、大正十四年に行なわれた唐津町長選挙の話である。当時は古い町村制の時代で、町長の選任も一般町民は参加出来ず、町会 (今の町議会)のみで選挙され県の認可を要することになっていた。そして大正十四年の此の町長選挙は、珍らしい過失で、町長当選直ちに取消しという全国でも話題になるような怪奇選挙であった。 丁度その前年、兼子町長時代に、かねて進んでいた唐津満島町村合併が妥結し大正十三年一月に合併を実施することとし唐津町会議員二十名を二十四名に増員し、増加の分だけを満島側から選出することになっていたのに、選挙の結果は、補充の分に唐津町から一名の当選者が出た。勿論之れが満島側の憤懣となり、兼子町長の責任を追求したので、兼子町長は其職を辞してしまった。任期一年八ケ月であった。 そこで次の唐津町長を選任せねばならぬことになったが、当時はまだ水力火力の紛争の余波が残っていた時代、町長推薦も、水力派を主流とする政友会側と、火力派の流れである反政友系とが相反目し、政友会側は唐津満島両町村合併の斡旋者であって、最近東松浦郡長を辞任して大名小路に居住していた中島五十男氏を推し、反対派は之れも沖縄県の内務部長をやめて郷里浜崎に帰っていた小林一男氏を立てて相争い、その暗闘熾烈であった。そして町長空席のまま一年余を過してしまったが、町政も暗雲の下にあるようで、とにかく町長選挙の町会を開くこととなった、大正十四年九月のことである。 当時町役場は唐津警察署の西側にあり木造二階建であったが二階が町会議場で甚だ狭隘、事件が事件だけに傍聴人が殺到し廊下から階段まで人で一杯、議員や吏員まで出入も出来ず階上の窓の外、瓦屋根に梯子を掛けて行き来するありさま。開会に時間がかかり議場では席机をたたいて開会を督促し傍聴席も怒声野次が飛んで居るうちに漸く開会、決選投票の結果、一応中島五十男氏の当選と決定したが、その投票に大きな手違いがあった。それは総投票数二十四票中、中島氏十二票、小林氏十一票の他に草場猪吉(猪之吉にあらず)一票となっていた。町では直ちに中島氏に決定したとして県知事宛に認可申請の手続きをなしたが、小林派からも異議申立の手続をとった。それに対して県では、此の選挙は町村制第五十一条に違反した違反選挙として、取消しの通達が出た。 それは、草場猪吉というのが全然白票であるか、無効票であれば、二十三票中の十二票は勿論過半数であって中島氏の当選は間違いないが、此の場合、有効票二十四票中の十二票では半数ではあるが過半数ではなく、当選とは認められぬといって、選挙は無効、改めて再選を行わねばならぬという事。 ここで両派の抗争は愈よ物凄くなって来たが、最後の決をとるため十一月、町会を開会したが一同議席についたところでこのままでは泥仕合が続くばかりで、唐津のためにもならないから、両派とも従来の候補者を引込めて、新たに人を詮衡しようと申合せ、傍聴人注目の中に全議員が、議場中央に集まり鳩首協議した結果、議席に戻った上改めて投票したが投票の結果は、今まで予想にも出なかった、後備海軍機関大佐豊田稔氏が満場一致で当選した。之には傍聴人もア然たるばかりであったという。大正十四年十一月のことであった。兼子町長辞任後一年五ケ月ぶりに町長の席が定まった。豊田町長時代の逸話は又の機会にゆずろう。 |
短命に終る豊田町政 リレー競走の交替劇 大正十三年七月、唐津満島町村合併後の第一事業であった町会議員補充選挙名簿改竄問題に責を取って兼子町長が辞退したあと、後任選衡の問題で町会は確乎たる政見や派閥が一致しないため、人選が仲々まとまらず、前号にも書いたように中島町長当選立消えとなって、一年有半を無町長で徒費した末、漸く満場一致で豊田稔氏を選任した。今日までの歴史でも珍らしい異色の行政であった。 ところで最初から其意志を待たず、虚を突かれたような選任で、豊田町長にも勿論一定した町政方針がある訳ではなかった。これは豊由氏ばかりではなく、矢田町長退任後の町政は軍人上りや役人流れの手に握られ、地元に政治的な背景や歴史を持たない者ばかりで町長を取巻く所謂有力者即ち地方行政のボス共も、夫夫意見がまちまちで、何かと事件がおこった場合、方針が一走せず、いつも何かと問題がおこって全任期を全うした町長は一人も居ない。こんな空気の中に突然押出された、豊田町長と雖も、時の動きにより左顧右眄、町政の進展は何等見るものもなかったが、只一つ外町小学校の実現は今日に残っている。それに今一つ唐津村との合併問題は、以前から屡々問題になりながら表向きになっていなかったが此儘放置すべきではないとして、大正十五年十月、豊田町長は飯田唐津村長に対し文書を以て合併要請書を送った。之れが唐津町村合併が公然第一線に出たはじめであった。之れは海岸地方の港湾関係者と山村部農業者側との利害の対立の為め意見の一致を見なかったものであったが、兎に角合併委員が設定され具体的研究を進めることとなった。 ところでこんな昏迷した町政の中に、豊田町長は恰好な協力者はないかと熟考の末、町会議員中の実力者辻富次郎氏の協力を求め、助役採用を約束していたのに、其実現を前にして世の中に知れてしまったので、町会議員吉田満太郎氏等の猛烈な反対論が起り、実現甚だ困難となり、辻議員は連日のように町長に約束履行をせまり、豊田町長も策の施しようなく、昭和二年一月十三日、月日不記入の辞表を田中庶務課長に預けて行衛不明となった。 その時豊田町長は浜崎や武雄の旅館に逃避していたが、内状を知った親近者の慰籍勧告で辻議員も一応助役問題を思い止まることになったので、豊田町長も約十日ばかりで姿を現わした。そして初めて開かれた町会二月八日に、峰原議員は町長が、町村合併問題を提案したまま其後の交渉を中絶したこと、更に大正天皇不例の際、町長が職務を放棄して各地を転々遊旅した事実は、一面不敬問題とも関連するものだと喰いかかったが、結局二月十七日正式に辞表を提出した。在任僅か一年二、三カ月であった。 其後任については、直ちに二月十八日県から地方事務官古賀丈一氏、続いて県属大沢安太郎氏が、町長職務管掌として来任、続いて県地方事務官古賀敏雄氏が町長臨時代理になったが其後三年一月、県知事大島破竹郎氏の旧部下、茨城県出身の萩谷勇之助氏が町長臨時代理になったが、大島県知事が政友会系であった為め、萩谷氏支持者も多数固定し、三年五月の町会で町長に選任された。そして七年始めの市政施行まで其位置を続けた。 大体、唐津が町制を施いたのは明治二十二年五月で、町長は坂本経懿、佐久間退三、矢田進の三代町長で約二十八年間を受継ぎ、あの水力火力の紛争も町政の上には、大した影響もなかったが、大正五年六月斉藤町長選任、六年同町長死去後僅か十四、五年の間に町長交迭四名、県からの職務管掌、市長臨時代理の任命五名、最後に萩谷氏が町長となって、其任期中に市制が施行された。此の十年余はいわば唐津町政のリレー競走のような時代であった。将来の唐津史にも一つの記録として残るであろう。 唐津上水道のはじめ 六月から上水道の料金値上げが決定したのも経済的時の流れでしかたがないが、思い出したのは、唐津に初めて上水道が出来たときのこと。大正から昭和の始めまでの町時代は、殆んどの家が自家用井戸水で、大工場や二、三の料理や旅館、それに学校では西唐津小学校だけ、住宅では西唐津にあった三菱社宅位が小さな電気ポンプで揚水している位、チラホラ公営上水道を希望する声もあったが、まだ世論とまではなっていなかった。それが昭和七年始めて市政が施され、河村第一期市長が登場するや、先ず全国的に話題になっていた青年学校を設立した。之れが今町田汐の先の丘上にある一中の前身、唐津高等実業青年学校であった。そして更に市民生活の安定を目的として上水道の敷設を計画した。 そして同年秋工学博士西田精氏に依嘱して調査を開始し、翌八年一月から専任技師や事務員をおいて計画を進め、市会の賛同を得た上、内務、大蔵両省の認可を得て、八谷助役を部長として以下工務経理の両係を決定して実測に入り、先ず松浦川右岸久里村双水地内を水源地とし、砂洲部の伏流水を取り、松浦川底を鉄筋土管で横断し、鬼塚村和多田に浄水池を設くることとし、十年十月十二日双水で起工式を挙げ、引続き和多田丸宗公園で祝賀会を催し、それから同年十二月二日の大安の日に市内配水管の埋設工事を始めた。 その最初の計画は、送水人口三万、一日の使用量を一万七千屯と予定していた。そして其の建設費約七十万七千円その内約三十万円は国庫及県費の補助により、残りの四十万円は大蔵省頂金部と逓信省簡易保険局から市債を求め工事は順調に進んだ。そして先ず各町の消火栓の水圧試験送水を開始し、五月二十八日に最初の通水式をあげ、愈よ七月一日から有料送水を始めた。その時の料金が家庭用十屯(約十五石)が一円二十銭、以上一屯を増すごとに十一銭を加算することになっていた。ところが残念というか気の毒というか、最初の計画から工事の大半を終った河村市長は、竣工直前に任期満了で退職、通水は第二期西山市長の下で行なわれた。 愈よ給水も円満に進んでいた昭和十三年十月末の需用家が四、四七八戸、給水栓が一、八九七ヶ所になっていた。それから予定の如く順調な歩みを続けていたが、其後松浦川上流の相知、芳谷其他の出炭増加のため、伏流水の汚染甚だしく取水にも手加減をせねばならなくなる一万、需用水も増して来たので、先年から玉島川を第二水源地とし松浦川に水管橋を架し、菜畑温石山に、第二配水池を設けたことは、新しいことで人の知る通りで送水量一日三万二千屯位になるだろうというところで吾々老人の記憶に残っているのは配水開始当時の一つの話題、今頃問題にもなるまいが其時分配された上水道竣工慰労金、先ず設計から工事まで万般の責任者西田博士に一千五百円、河村市長に七百円、西山現市長に五百円、八谷助役と久富収入役に二百五十円宛、萩谷助役に百八十五円、飯田前々助役に百五十円、それから桑野安太郎、一力亀八、上野小八郎、豊田稔等前現市会議員約七十名に夫々百円乃至五十円位、新聞記者六名に夫々記念品代として五十五円ずつ。それから市吏員及び特別協力者に合せて九千円ばかりが交付されている。今の評価からは何とも云えないが、古い記憶の一部をのこしておく。 草創期の唐津海水浴 暑い最中で、唐津の海も人出で一杯であるが、たまたま思い出すのは四十年前の唐津遊泳協会のこと。明治の末頃から唐津鉄道の開通と共に佐賀方面から海水浴客が押寄せて来たが、当時はまだ観光などと云った時代ではなく、地元でも確定した方針もなく、其年其年の思い付で年を送っていた。 大正の始め斉藤町長時代に西海新聞の渡辺賢助氏が初めて唐津遊泳協会を組織し、大正五年頃、先ず西の浜海岸に向って約五十米位の飛込台桟橋を作った。その費用として四十円の補肋、一般寄附金七十二円其の他で総経費百三十五円であった。 然しそれも夏の間だけで大体学生、児童の水泳指導が主のようであったが、年と共に他地方からの注目も集まって来た。そして其の後、水泳協会と名を変えたこともあった。それから杉山町長時代、辻富次郎氏らの主唱にて松浦協会と改称し従来主として旅館、料理屋、土産品店が主体であったのを一般町民に呼び掛けて、組織を充実させた。他県から高師流等の水泳教師を招聘すると共に、町役場にも水泳の係員を置く程の力の入れかたで、自然町内の世帯も海水浴客誘致に関心を深うした。こうして渡辺会長の指導よろしさと共に、一面序々に政治的野心家も出るようになった。 昭和七年には鉄道省・簡易保険局が市の西の浜無料脱衣場を借り受け、鉄道直営の無料休憩所を経営する力の入れ方となった。 丁度その昭和七年が会長改選期になっていたので、同年六月十六日市公会堂で総会を開き、会長改選を行なうこととなった。候補者にあがったのが、渡辺現会長の他、上野小八郎、三住午太郎の二氏、三者鼎立の様相を呈して来た。 丁度先に全国的に話題となった三菱重工業の株主総会のように、会費三十銭を納めて俄か会員多数が参会した。総数約六、七百名。旅館、料理屋。食堂等の女将は勿論、芸者、酎婦、女給等、紅紫とりどりエロ味たっぷり、会場大広間には入りきれず、別室は無論、投票以外に用はないと、野外草原に佇んでいるものも数十名。そこで先ず開会、杉山正則氏から未成年者の参加を拒否せよという意見が出て会場紛乱警察官も出てくる珍らしい状勢、夜に入って漸く投票となったが、杉山氏から投票用紙の配布に不正があると云った意見が出てスッタモンダ。杉山氏から渡辺会長に責任をとって辞任せよと勧告、渡辺氏は降壇し、杉山氏も退場、司会者が居らぬようになって三々伍々退場してしまった。 そして翌々十八日再開、会長候補者は三氏共辞退した上、新たに会長詮衡委員会を設くることとし審議員として増本清、清水荘次郎、本秀玄外、菊池龍太郎、三住午太郎、脇山関次郎、牧原駒太郎、豊田稔、上野小八郎、大塚喜造、渡辺賢助、藤崎護市の十二氏を挙げ、委員協議の上で杉山正則氏を推すことに決定したが、杉山氏仲々承知せず委員の熱心な説得によって応諾、総会に報告、漸く最後の松浦協会長が決定した協会は遠からず規模を新らたにし、唐津観光協会として出発することとなった。 |
国鉄岸岳線の盛衰 国鉄は全国的に赤字の整理を始めたが、身近かな岸岳線は、全国で三番目、佐賀県では最初に、去る八月十八日に廃線となった。炭坑閉山による運炭皆無、之にともなう乗客の激減、更にバスの運行によって、収入殆んどなく、最近では一日乗客優に三百人位という日もあり、廃止のやむを得ないのはわかるが、一面、六十七、八年にわたる業績を考えるとき、感慨なしとしない。 牟田部地方の石炭が利用しはじめられたのは遠く徳川中世で、はじめ附近の農家の薪炭用にすぎなかったが、明治初年頃から漸く世にも知られて長崎方面にも搬出、しかもその優秀炭質が認められ、海軍焚料確保の為、民間資本を締出し、海軍予備炭坑に編入して、唐津に海軍出張所、後に石炭用所と改称して指導監督していたが、其後長崎方面の出炭が増加して来たので唐津も民間に開放された。 丁度之を機会として、唐津の竹内綱、高取伊好、松尾寛三の諸氏合資で唐津用炭会社を創立して、初めて営業としての石炭採掘業をはじめた。之れが明治十九年で、芳谷炭坑の始めであった。そして日を追うて業務盛大、二十二年に第二坑を開坑した。此時の坑区約七千余坪、出炭量が一カ月約一億二千余万円、実に佐賀県第一と称せられた。一方近くの岸山村寺の浦に新坑が発掘され、岸岳炭坑と称せられた。 そして之れは初めて井坑式掘さく法を利用、殆んど機械力による操作で出炭量も非常に多く、芳谷に及ぶ位の採炭高をあげた。更に二十二年近接し、八代炭坑が採掘され、田代政平氏が支配人として出炭高日を追うて増加していたが、二十九年六月坑区並びに設備一切をあげて芳谷炭坑に売渡した。 其他手掘りによる小山が十カ所ばかりあったがその運搬は、芳谷では先ず坑口から松浦川沿いの山本鹿の口の土場まで荷馬車で送り、鹿の口に桟橋を設けて上荷用川船に横込み松浦川を公園下まで運送。ここで荷物帆船又は高島西横に待機していた汽帆船に積載したが、国鉄唐津線の開通と前後して、芳谷では坑口から鹿の口まで軽便鉄道を敷設したが、利用価値十分な為に間もなく複線化したが、更に汽関貨車を廃止してエンドレスロープに改めて能率をあげて来た。 又岸岳は徳須恵の西方、竹有から上荷船に積込んで山本鹿の口に運び、一部は松浦川を下り、一部は山本駅から炭車で西唐津に運んだ。序でながら当時の運賃五屯で三円五十銭、人夫賃最高で一日一円であったそうな。 こういう際、四十年七月国鉄が此線を買収することになり、石炭と共に乗客貨物をも取扱うこととなった。これが今度廃止になった国鉄岸岳線である。 ところで従来、自転車と荷車以外に交通機関を持たなかった附近一帯の住民は損害を受くることとなるので、村当局をはじめ、新企業の計画で新事業の誘致に努力しているそうである。もっともな次第である。 劇場映画館の推移 此頃テレビの普及とともに、先年まで文化娯楽の一翼であった劇場映画館が少なくなって来た。思えば今から六十余年前、明治の末年に、大石町南横町に同町宮崎徳次郎氏が創立した寄席舞鶴座というのが初めであって、寄席というだけに規模も小さくせいぜい四五百名の収容が一杯であったが、唐津に初めて出来た小屋だけに、入場者は一杯であったが、毎日の興行ではなかった。 丁度其頃、今の東朝日町の道路の北側一帯は、人家も殆んどなく草原であったので、東寄りの舞鶴座の盛況に心をひかれた辻富治郎、富永鏗之助両氏の発案で活動写真館世界館が建てられた。(当時は映画とは云わず全体に活動写真と云っていた)大正二年のことであった。連日開館、唐津に始めての活動写真館だけに圧倒的な人気を集めた。それに引かれたように、翌年秋その西側に近松座が建てられた。増本繁治氏の支配下じゅん然たる劇場、松本幸四郎一行を迎えて花々しく開場式を行なった。それから東京大阪の名優が地方巡業の途次立寄り上演した。六代目尾上菊五郎、市川猿之助、長谷川一夫、川上貞奴等の一行が、次々に上場して唐津も漸く上方なみの演芸観覧が出来るようになった。 そして従来大衆の会場を持たなかった唐津では、これから色々な講演会や、又は市政攻撃の演説会などで連日利用された。 この間舞鶴座経営者側でも中央進出の気運が出て来て、材木町の西端、町田川沿い新大橋の横に新築した。場所がら入場者も増していたが昭和初頭、一夜不審火で全焼、折柄上演中だった新派黒田良助一行が焼け出され、逃げまどって町田川に飛込んだという活劇もあったが、幸い人身には被害がなかった。劇場は直ちに再建して開場、先ず牧川茂助氏が経営したが、後ち、原口助右衛門氏の手に移って映画館となり、新世界映劇となった。之が今のボーリング場の位置である。 その間、西唐津では生田伊左衛門氏によって松浦座が創建されたが、暫らくして出火、丁度此頃近松座も火災で全焼したので、之を一体とすることとし、松浦座の余材を利用して近松座を再建した。 そして此の機会にとて唐津興行株式会社が組織され、増本繁治氏を社長に、木下吉六、堀田鉄次郎、繁田七五三蔵の諸氏を重役に、近松座を中心に増本氏の相知座をはじめ、東多久以西の映画館劇場の七分通りを統合経営していたが、資金難のため自然分散のやむなきに至った。 此の間佐志方面には岩本三吉郎氏の港座、桜町の八幡座、唐房のことぶき座、田崎格治氏の松浦座、久里では楢崎七造氏の昭和座等が出来たり消えたりした。 その他に材木町の日の出館、それは大正のなかばすぎ現場向うの諸井染物屋の発起建設だが、成績不良、呼子の山下善市氏にゆずり更に阿部治三郎氏から転々して原口助右衛門氏の手に入り、最後に相知の杉元重利氏の経常に移ったが十数年前に廃業、今は建物だけが残っている。 それからその当時材木町に古川安兵衛氏屋敷に新築された中央大劇、市役所分室のあとを改造した上野氏の東宝大劇、こうした戦争前後の波瀾の中に浮沈した劇場映画館の内、今残っているのは、最初の世界館に近頃出来た中央大劇、東宝大劇の三映画館の三つ、劇場は一つもなく、時勢とはいいながら、六十年は長いようで短かい、なつかしいようで寂しいものである。 浦元公園その他 年も暮れになったので、今日はここ半世紀ばかりの間に移り変った一、二の変った話をして見よう。 まず東十人町の浦元公園である。これは龍源寺と教安寺との間に挟まれた千五、六百坪ばかりの荒蕪地、西の入口を除いて北東南は小岳に取囲まれ、材木町浦元清氏の私有地で、殆んど人工も加えられず、随所に草木が生い繁り、近所に小公園もない土地柄、春の花見時から秋の月見まで、相当人出で賑った。そして入口近い民家は小料理や飲食店で賑わった。そして小規模な宴会なども行われていたが、そのあと中里氏の所有になって出入りも不自由となり人々から忘れられつつある。 それから南へ飛んで上神田の土井侯一家の墓地から其南の鳴滝に続く丘陵、陵上に土井氏の墳墓が数基ならんだだけ、周囲は樹木に取囲まれて人家もなく、北東方には唐津も展望され人里離れた遊栄地として、春夏の候よく好事家の群が訪れていたが、ここ二、三年附近に人家も出来て来て、昔の面影は少なくなって来た。今に観光地の一つになるのではないかと心配される。 更に西に行くと温石山(おんじゃくやま)というのがある。二、三年前唐津水道の浄水池が出来て人目を引いているが、其東麓に数十年前から鉱泉が出て胃腸に効果があるといって、地元は勿論、唐津からも相当の浴客が来ていたが、入場料や色々な地元関係でいつの間にか消えてしまった。それから温石山の西側麓の辺、衣干山との谷間に大正十年頃から、地元民の幸福の為遊園地を造り松や桜を植樹して一般遊覧客を呼ぶ計画をたて徐々に進行中のところ、昭和に入ってから軍部華やかとなり、三月十日の所謂陸軍記念日には、射撃場として、各分隊の選手が花々しく覇を争ったこともあっていたが、戦争が愈よ本格化すると共に立消えとなってしまった。 ところで、温石山から衣干山一帯は、もと田畑でもない荒蕪地であったので、市でも工場誘致の為め、鐘紡工場を目標として、土地を買上げ交渉を進めていた折柄、昭和七年頃の大不況で鐘紡も二の足を踏んで来て其まま行きなやみになっていた時、日赤病院建設が蔭ながら問題となって来た裏ばなしが長くなって漸く唐津建設があらきまりした時、医療種目を中心として唐津医師会との間に一悶着がおこったが、それは都合よく解決して今日の唐津赤十字病院の土台となった。 西の方、西唐津、大島辺の変遷は、書くまでもなくよく人の知るところであるが、ここに人に忘れられた小さな学校があった。それは今の富士見町の中くらいの所、大成小学校の西あたり、大正の初めまでは一帯に小松林であったが、その一部を借下げて女学校を建てる計画があった。発起人は新聞人の古館勲氏他二、三人、「文化女学校」と称して生徒募集、はじめは四十名あったが二年ももてずに立消えた。大正十年頃のことであった。 それから昭和になって、河村市長時代観光ブームにのって、西の浜唐津中学校側の海岸に十二万余円を以てバラック式の海の家を建て、そして之を鉄道に無償提供し、鉄道乗客に限り特別優遇することとし、相当旅客も集めていたが、地元の商人、接客業者の大反対があったが、鉄道は強行し十余年を経過したが、海潮の変化が漸次東の浜に移ると共に、閉鎖のやむなきに至り、今日のような西の浜となった。 其他、馬場野飛行場、鏡の東洋製鉄工場誘致、鏡山登山ロープウェイ等、話は山のようにあるが、又の機会にゆずろう。 |
市立図書館の変遷 その土地の事情や事務の都合に其の庁舎の位置を変える役所は度々ある。然し唐津図書館のように八回も転々した役所はまずないだろう。然かもその大部分が、館以外からの圧力であるのは遺憾である。 唐津に初めて図書館が出来たのは、明治四十三年の秋、東松浦郡教育会図書館として、今の佐賀銀行大手口支店裏門のあたり、郡書記太田鉾之助方の畳敷六畳二間で、木製長机二台を据え室隅に本棚があって、約三、四百冊の雑本がおいてあった。 其後大正四年五月、直接唐津と関連はないが、郡会議事堂で、全国図書館大会が開かれ、徳川頼倫、坪谷水哉氏らの講演があって当時としては珍しい位で、すばらしい来会者があった。 ところで其年十月、郡教育会図書館は佐賀図書館唐津分館となり、二ノ門西側北向きの三根栄一氏宅二階に移転した。事務不完備の為利用者も多くなかった。 それから大正八年、二ノ門西北隅に、敷地は西唐津で貿易業を営んでいた神戸の岩城卯吉氏が、館屋は同じく神戸在住の唐津出身、長谷川_五郎氏の寄付で、唐津に初めて独立した小奇麗な図書館が出来あがった。のち医師会所有で、某商店の事務所になった。大正十五年佐賀図書館が県立となり、県有図書の唐津分館所蔵の分三千五百冊ばかりが、唐津に譲渡され、ここに内容も充実した上に昭和七年唐津市制施行と共に市立図書館となった。 それから河村市長の考案で、昭和十一年三月、唐津裁判所と警察署との間に新図書館が建設された。之れは恰も其頃福岡県八幡に新設された図書館の設計を模倣し、敷地の関係上、西部二間位を切取り其他は殆んど同一設計で出来上った。 ところが其後、昭和二十四、五年頃に裁判所昇格運動が持上り、市会議員等が上京して猛運動、遂に裁判所に接触している図書館敷地を裁判所に提供する条件で話し合いが成立、図書館立のきを余儀なくされ、旧武徳殿に引移るのやむなきに至った。昭和二十五年の九月である。書籍も大部分荷造りのまま一部開館した。 そこで問題になるのが新築敷地である。中々思うようには行かず先ず明神社東部の現法務局になっている住宅地だったが、地価の交渉進まず、更に大名小路旧魚市場跡、西城内大島氏所有の空地、郡公会堂、更に現電々公社裏の住宅地、町田川東の市役所分室等が問題になったが、色々の事情で立消えになり、最後に斉藤元町長の住宅一帯、(其の大部分が今日植物業百花園である)当時の所有者元福岡銀行唐津支店長向氏が大牟田に居住していたので渕上市助役が交渉に行ったが、総坪数五百三十坪を価格十万円を要求し、渕上氏は値下を交渉して行悩み中新しく市の教育課長となった小笠原悟氏が、市会文教委員会と協議し、当事者の意見も聞かず、旧武徳殿前の空地を敷地に決定してしまった。そして二十八年四月に起工式を執行し、市の山口技手が主任として着工したが、その予定敷地の西側には元明神松原として松や欅の大木が生繁っていたので、風致の為にと少々東寄りに土工を始め、コンクリート台を築きはじめたのを、清水市長が見て、武徳殿の出入りに邪魔になると移転を命じたので、改めて樹木全部を伐採し、位置を西にずらして再起工したが漸く建物の外廓が出来上り屋根ふきにかかった際、大暴風が吹いて仮屋根を吹飛ばしてしまったので又改めて屋根其他の手入れで手数に手数を重ね、起工以来十一カ月余りを費して漸く竣工、二十九年四月に落成式を行った。之れで漸く予定の通り内容充実にも力を入れ、蔵書も約四万冊になった。 然るに又しても問題、文化会館新築にともなう曳山倉庫建設の為、又してもこの図書館屋を解体することとなり、一応体育館に移転して一部開館、漸く四十五年十月現在の庁舎に新築移転した。明治末開館以来移動七回今度こそ永久定着のものであってほしい。 其の間、職員の移動や書籍の紛失、内部機構の変更等色々なトラブルもあったが、又の機会にゆずろう。 日赤唐津病院の推移 此の間の唐津市議会で、市と日赤病院との債権債務の解決問題が附議された。日赤の前身、市立病院の開始からもう二十年近くなるが、其間に伏在していた一つの難問題が解決される訳である。 大体唐津で市立病院が計画されたのは、岸川市長の末期で、済生会病院の西方に予定して、大牟田川口、熊本等の既設地を視察したが、建設費と将来の維持費とが、採算上難点であったので一応中止となった。それから清水市長時代、昭和二十三年頃、従来施行されていた国民健康保険が経営難に陥ったため、市と市医師会と協力して、市民医療に万全を期することとなったが、二十六年に至って、市立病院設立の計画が表面に出て来た。そこで市医師会では、今日迄市民の保健に協力して来たものを、市立と云う有利な立場で医師会を圧迫するものだと立腹して、同年十月から一同保険診療を停止することとなった。市では既に病院設立の計画を進めていたので今更取止めも出来ず、さしあたり結核専門病院として出発することとし、医師会側も内容を認めて保健医辞退も一応取止め妥結した。 そこで病院の位置であるが、この敷地は今の日赤病院の個所で二夕子四九五五坪、昭和七年市制施行の直後に、大阪の鐘紡会社が乾繭工場用地として所有していたもので、昭和十七、八年頃に至り、農業学校誘致のため、唐津市と東松浦郡農業会が連名で鐘紡から譲り受け、買収費は市で負担し市有地となっていたもの。そして屋社は最初の予定通り建設を進行、総工費一億二千七百万円(内国庫補助一、六七五万円、起債七六一九万円、市費三、四〇六万円)で、二十八年末完成して開院式を行った。 ところが開始前から難問題が重なった上、設備も不充分であるのみか、限定された小区域の唐津では、入院外来ともに患者数が非常に少なく、結核病院として最大の収益をあげなければならない筈の胸整手術でさえ、三十一年下半期に僅か二名に過ぎない過少さ、将来に約束される赤字を如何にすべきか、有力な若手医師でも増員しようとしたが来任者がなかった。 この有様から市議会の特別委員会では、速やかに人事運営に万全を期する他、病室や事務室の配置整理、器械薬品の購入についての研究など、非常に突込んだ要望書を出し、特に此の不成績の最大の原因は運営最高責任者である院長の熱意がないと指摘され、既に後援者清水市長が席を去っており、築地院長も施すに策なく、六月末に辞任した。 ところが病院の赤字は、院長の引責辞任だけでは解決すべきことではなく、市の周囲の人口状態から維持不能なことは今までの成行でわかる通りで、市では今後の更正の策として、或は九大分院や国立移管も考えて見たが、約半年を経て漸く日赤移管が決定した。条件は、建設費のうち二千万円を市が負担し、建物、医療器械等を日赤に移管した。此価格四、三二四万三千円で、三十七年度までに償却の約束、そして敷地代は無代で日赤に貸与することとし、三十二年十日十五日の市会で決定、即日開院式を行って引渡し、翌十六日唐津赤十字病院の開院式を挙行した。 そして総合医療のため日赤では、内、外科、小児科の他、理学診療科、産婦人科をも増設して一般の与望に従ったが収支面白からず、当初移管の時決定していた、建設費其の他の四千余万円の市への償還が未済のまま今日に至ったので、今度最初の約束を更新して円満妥協、日赤も改めて進展の道をたどることだろう。 |
郷土新聞の移り変り(1) 知る権利などと、新聞が話題になっている今日、唐津で生れた新聞の昔話。 唐津で最初に新聞が生まれたのは、明治二十七年頃、日清戦争の当時で、紙名は「唐津商報」、平松嘉久蔵氏が主宰であり、草場猪吉氏が後援となっていたが三号までで廃刊、古いことで老人に聞いて見ても知った人はいない。 本当に今に記憶に残っているのは「唐津新報」明治二十九年六月二十四日の創刊で、大審院判事樹下重次郎氏の実弟、堀川勇氏が社長兼主筆、渡辺賢助氏が発行人、印刷人が古館亀次郎氏、本社は始め京町中部志戸印刷所で出発、間もなく同町西寄り南側に移転したが、程なく堀川社長死去、後任は河村藤四郎氏から常吉太郎氏を転々、記者は菊地徳次郎、渡辺勇、宮原嘉太郎、富永鏗之助、渋谷半次郎、牧川茂太郎、太田嘉太郎等の諸氏、大きさは菊判四頁、最初は旬刊で月三回であった。 そして創刊の辞のほかに在瓊浦学士桜蔭居士、在法科大学山崎四男六、在唐津紫海老漁、渋谷利見等の発刊祝辞が並んでいた。記事としては、第一号にその前々日朝、唐津に入港した松島、済遠両軍艦の報道があり、又紡績会社設置計画と題して福地隆春、原徳実、神崎錦次郎、竹内明治郎、諸氏の発起で、資本金五十万円、二万三百錘の予定で発足する計画を報道、特別輸出港選定調査中とか、唐津鉄道大島牛津間の土地買収開始が報道され、更に七月五日の第二号には、古川俊、草場猪之吉両氏の虹の松原療養所兼旅館として海浜院設置計画が記載され、又唐津興業鉄道会社の株式第一回十二円五十銭払込のことや、唐津製糸株式会社(社長加藤海蔵氏)の一株二十円払込みの記事があり、又唐津小学校新築が町会で決定したことを報道、設計は辰野金吾氏、向う三ヶ年で竣工の計画、敷地の位置は未定だが工費一万五千円で内半額は有志の寄附によることが書いてある。更に第四号には、唐津鉄道停車場の位置として、呉服町筋南端の町田口に、今の唐津駅の現在の位置に、又附属工場を双子と妙見との間(今の西唐津機関庫の位置)に設置する見込みだと書いてある。次に第七号には唐津紡績会社株募集の件、総株数一万株の内、八千株、発起人の負担とし残り二千株を一般公募すると云う記事、それから第九号(九月十五日発行)には満島小学校の新築竣工、近日開校式を挙行すると云う記事、老人の思い出の材料が沢山でている。 序でに広告面を見ると、平松回漕店から、醤油石炭、満島山崎商店、砂糖、石油、煙草、蒟蒻粉、岸川商店、打身専門薬、海士町坂本与五郎、呉服、江川町吉村藤助、毒さらえ、刀町辻喜一、書肆、大石町南側大和屋書店、三星洋服店開業、洋服裁縫師、渡辺賢助、写真師、中町大手口白石徳三郎、荒物、学校用品、魚屋町多久島商店等ざっと二三件ばかりの商売宣伝が出ていたが、特に目につくのは皇国第一体操人形芝居大石町定席と云うのがある、これは今はないがその後舞鶴座と呼ばれた芝居小屋の前身。昔なつかしいような気がする。また新聞発行部数は七八百枚であったが、日露戦争頃から、一般のように週六日の日刊に進み、唐津を独占して健実な歩みをつづけた。 郷土新聞の移り変り(2) 唐津新報が発刊されて暫くは、甚だ平穏な時代であったが、明治末年頃突発した電力問題、あの水力火力の争いは、町を其二つに割るような大破乱となった。そして唐津新報が火力派の支援を受けているため、一方水力派でもこれに対抗するため、水力派の後援者である西海商業銀行側でも無視は出来ず、代議士川原茂輔氏の口入れで一万円の資金を準備し対抗新聞を計画した。唐津新報から分離し富永鏗之助、渡辺賢助氏等が其の任に当った。先ず大手口の今の昭和バスターミナルの北半の位置に約五十坪位いの二階新社屋を建造、明治四十三年六月に第一号唐津日日新聞を発刊した。 ところが出資者側との関係もあり、百号を最後に同年十月西海新聞社と改編した。そしてその時舞鶴公園で、三百余名の来賓を招いて改名披露の宴を開いたが、其の席ある来賓からお祝いとしてビールを寄贈したが、お祝いに泡を送るとは何事だと主催者が立腹したというエピソードもある。 その内、はげしかった水力火力の問題も曲りなりに落着がついたが、大正三年十月、弁護士阿部清氏が仲介して両新聞合併が成立、紙名を唐津日日新聞とし、西海新聞社で統一執務することとなった。 責任者は阿部氏を始め、冨永鏗之助、原孝徳、瀬倉亀才、渡辺賢助、宮原嘉太郎其他であったが、初めの結合が結合だけに、意志の統一を欠ぐこと多く、いつの間にか次第に離散、最後に富永氏が一人社長として仕事を統一することになった。 新聞社の事業としては、当時珍らしかった活動写真を招いて唐津地域の各方面を撮影し、又松浦協会の名によって海水浴客の誘致や西の浜の開発、七ッ釜等の水上観光を計画する等、地方宣伝に大いに力を注いだが、残念だったのは、後に述べる新聞社出火の為の、唐津唯一の活動写真のフイルムを焼いてしまったことであった。 ところで、発行紙数は日を追うて増加し一千五六百部をこえるに至ったが、不幸にも大正十五年秋二階東南隅にあった植字室の、平素全然火気もないところから夜半出火、社屋を全焼してしまった。そしてその原因は、調査に力を尽したがとうとう不明に終ってしまった。 そこでやむなく、その直前、坊主町で発行しはじめたばかりの民衆新聞を併合して刊行を継続したが、間もなく本町の富永社長宅に移転、持続していたが、幸いにも北九州鉄道株式会社が満島に本社を新築したのでその跡に引越した、今の佐賀新聞唐津支社の社屋である。 更に書き洩らしたのは、西海新聞創立と共に、佐賀市に支局を設置して、県を中心とする県下一般の取材活動をなし、又東京に本社がある電報通信社と連絡して、東京を初め全国は勿論海外国際の情報を取材し地方紙としての地歩を固めた。そして紙幅は、前の唐津新報がA判と云う小判であったのに、西海新聞はB判と云う中央大新聞の大きさをとったことも一つのほこりであった。 それから更に書き加えたいことは、時世とは云え、大正中頃から、色々な日刊又は月刊旬刊の小新聞が続出したが、結果は何れも雲散霧消と云うか、一年と継続するものなく、次第に姿を消してしまったが、大正半ば頃、唐津時事と云うのが生れた。それは何れ又の機会に。 郷土新聞の移り変り(3) 唐津日日新開は、最初の計画通り、一地方一紙として順調な歩みを見せていたが、第一が時の流れによる表面の集合であるため、内容の調整が順調にすすまず次々に離脱者が出て来た。先ずその第一の出資者といわれる川原茂輔氏が、佐賀市で八頁大の「肥前日日新聞」を創刊するや、唐津日日の営業面の主役者渡辺賢助氏が独立して「唐津新報」という切替判を出したが、佐賀本社が永続せずして中絶してしまった。丁度其頃、大島小太郎氏の女婚にあたる小関世男雄氏が、従来の船員生活をやめて上陸したので、此時とばかり従来唐津日日新聞で不遇であった吉村福太郎、吉岡時輔、笹本寅氏等と共に、小関氏をかついで独立を計画し、小関氏を社長に、同氏邸の前方、今の唐津図書館の前半に工場を新設し「唐津時事新聞」を計画し大正十年三月に第一号を創刊した。それと前後して唐津町村合併問題や市制新設問題などで町政紛糾、増本清、林準次郎、岸川岩次郎氏等の諸氏によって、唐津民衆新開、唐津新報、松浦新聞等、色々な日刊紙や月刊、旬刊紙が出て来たが、何れも財政其他の事情で廃絶、唐津日日と唐津時事とが残った。ところが十年近くもたもたして来た唐津市制も此辺で何とかラチをつけぬと市長も面白く行かないと、唐津で政友会の強い結成をなさねばならぬと、最初から市長を目標として乗込んで来ていた萩谷氏は、政友会の機関新聞が必要だと、唐津町を中心として東松浦郡一円の政友会系の行動を網羅して機関紙を計画することとしたが、時あだかも唐津日日新聞は財源難におちいっていた頃だったので、丁度好期とばかり唐津時事新聞十周年を機会として、小関社長其他が勇退し、萩谷氏他政友会の有志が堂々と名をつらねて華々して発行したが、予期しなかった色々な問題が出て来て、永続出来なかった。 当時唐津で発行された新聞は、大部分は日刊と称しながら永続出来なかった。其頃新たに書き止めたいのは松浦毎日新聞、これも小新聞で資源もなかったが、昭和六年二月創刊、同年四月始め唐津町村合併祝賀会の時、他からの支援もなく自由でもって「唐津町村合併を祝す。此上は町民一致して地方発展に努力せねばならぬ」という。B6判のビラ三万枚を式場上空から飛行機でバラマイて住民をあっと云わせたことであった。然し此新聞も資金難のため半年も続かず廃刊となってしまった。 其後幾多の小新聞が広告第一で出されたが、大平洋戦争激化と共に、全国一府県一紙という統制令を出し代表的では佐賀市の佐賀新聞を主体として唐津日日新聞は佐賀合同新聞として唐津支社となった。これが終戦前唐津で新聞が発行された最後であった。 |
夏の思い出話二題 今年の夏は、特に暑さがひどかった。従来は全国的に見て被害もさまで大きくなかったが、今年は全国的な集中豪雨の余波を受けたように、比の地方でもあちこちに地層の崩壊で、道路や家屋が破壊され、又死者一名を始め幾多の負傷者を出し、従来他地方の惨事ばかりを見て、自らその体験をもたぬ唐津としては相当ひどいショックであった。 そこで思い出されるのは六十余年前、福岡県芥屋の大門附近で、唐津中学生一行のポート転覆事件である。 それは明治三十八年四月三十日、日露戦争が勝利を重ねて終戦に近づき、国民全部が緊張一杯の頃であった。大体唐津中学のボート部は、明治三十二年、ボート三隻で発足、直後増加して当時六隻になっていたが比の一行は九名で第二舞鶴丸に乗組み三十日朝西の浜を出発した。晴朗で風波もなく丁度海上行楽のような日であった。昼頃芥屋の大門に到着し、少憩の上帰路についたが、天候が悪くなり風浪が高くなって来たので、帰路は深江に向ったが、南風強くなり海岸に近づきがたく、一生懸命力漕したが、暴風は益々激しくなり逆浪のためポートは転覆したので、皆それぞれ艇側に鎚がりつき互に名を呼びかわし励ましあったが次第に水中に没してしまった。比の惨状を、陸上から発見した芥屋村の漁民か漁船三隻で、野辺の崎から約五百b位の水上に漂流していた西村伊之助を救い上げ同村山本区長宅に抱き込み手当をした末、約三時間ばかりで漸く意識回復したので漸く実情が明らかになり死体捜索に努力した結果、五月二十日に至って漸く全部の収容を終ったが、捜査に働いた人員約三百余名、東松浦、糸島両郡海岸の学生まで応援して、実に物々しい大作業であった。そして五月二十七日近松寺で合同葬を行った。乗組員只一人の生存者西村伊之助は、終戦後六十余歳で病没した。 ○ 悲しい昔ばなしを書いたが、夏を送る為に楽しい面白い思い出を一つ。それは今から七十年ばかり前、明治三十七年夏のことである。その年七月二十一日、当時の佐賀中学の上級生三十余名が、水泳訓練のため唐津にやって来た。宿舎は当時唐津中学の寄宿舎で、指導者は時の佐中校長清水誠吾先生以下先生四、五人清水校長は伊勢出身で、伊勢藩の伝統である観海流の師範であった。大体水泳はスピードに重点がおかれるが、観海流というのは早さよりも浮水時間を目標としたもので、十時間以上の浮水時間も珍らしくはないということ。 そこで佐中生一行は、公園下遠浅のところに二十メートル位の間隔をおいて二本の標柱を立て、其間を往復する練習が一日数回、一回ごとに往復度数を増して長時間水泳の練習をする。大体人体は海水よりは比重が軽いので、用心さえすれば必ず浮く、従って練習はめきめき上達し、一週間もたった頃から遠距離練習に入り、先ず烏島往復から、西唐津往復の末、最後の仕上げは浜崎まで。 西の浜を起点として高島を迂回し玉島川口が終点。ザッと八キロと云う長さ。五・六メートル位の間隔をおいて一列縦隊、小船二隻に校長はじめ引率の先生が塔乗して水泳隊の両側を遅々と漕いでついてゆく。そして一生懸命舷側をたたいて監督激励、午前六時出発で浜崎着が十一時、僅か八キロのところを五時間も要したが、これが長時間水泳の主眼で、人間はどれだけ泳いで居れるかという練習。一人の落伍者もなく、今まで練習のため見物の時間もなかったからと、帰りは鏡山に登って松原を歩いて帰った。勿論バスも馬車もなかった時代、若いとは云いながら元気なことであった。その練習者の中には、後の最高裁判所判事本村善太郎、佐賀医師会東種秀、画伯の高島香名などの人々も居た。 筑紫箏の来歴 先日佐賀から筑紫箏についての放送があったそうだが、筆者は不幸にして之を見ることが出来なかったがその内答は甚だ素略で、ただ市場直次郎氏の解説が立派であったそうである。 この筑紫箏が唐津に入って来たのは、伊万里生まれの前川礼子女史が唐津水主町村井家に縁付いてからである。 大体この筑紫箏は京都の公卿仲間で流行していたもので、筑紫善導寺の僧侶に伝承され、其後同寺の憎、賢順が力を入れ、漸次肥前方面に入り、明治の中頃に至って伊万里の人野田聴松に伝えた。ところで此の聴松と姻戚のある前川礼子 (後の村井礼子)女史が聴松の教えを受け、大正六年五月に、皆伝を受けて筑紫箏曲第十二世となった。 この筑紫箏は、中世風な秘伝的風格を有し、自ら楽しむことを主としたので、世に広布することなく僅かに肥前に命脈をつなぐのみで、聴松を終りとして減んだものと思われていたが、村井女史の健在が明らかになった。村井女史はこれについてこう云う。「これまでは、俗箏と異って流行的に聞くよりもむしろ保守的であったため、筑紫箏は、俗化することを厭い、広く伝えるよりも純粋に保つということを第一として私も先師の教えを一途に守りぬいているが、何といっても古雅に過ぎて俗耳にうとく、従って伝習を志す者はあっても、中途で倦いて離れる人が多いのはやむを得ないだろう」と村井女史はこう語っていたが、昭和二十八年、三笠宮殿下が来県された時、伊万里に立寄られ、伊万里市では歓迎のため、かって聴松の門弟だった井上みな子女史が、之れを演奏したので、久しぶりにこの箏曲が表面に出て来た。そして東京の芸術大学教授・田辺尚雄氏が村井女史の唐津在住を知って其の現状調査を唐津高等学校長市場直次郎氏に依頼したので、市場氏が調査に乗り出し数次に亘って村井女史宅を訪問し、これをきっかけに人も寄り付かなかった筑紫箏も漸く話題になるようになった。 先ずNHKで録音することになり、三十年秋、東十人町法蓮寺の庫裡で録音しそれを佐賀放送局と芸術大学と、唐津図書館とに保有することとなった。それから、同年十一月の一夜、唐津神社彰敬館で、市及び市教育委員会の共催で一般公開の演奏会が開らかれ、村井女史が「里無勢津、布貴」其他を演奏、会場一杯聴取者、特に目についたのは、金子市長が珍らしく和服正装で出席し、熱心に耳をかたむけていたことである。 それから間もなく、NHK東京放送局、邦楽鑑賞の時間に全国向け録音放送があり、唐津地方でも相当反響があったようであった。そしてその後田辺教授らの推挙で無形文化財に指定され、村井夫妻同伴で上京し文部省で証書を受けて来たこれで愈よ村井女史も表面の有名人となったが、あと一年ばかりで、高血圧等の病気で長逝された。そしてその葬儀は自宅で執行、その席には大分県出身の東京大学女子学生で、以前暑中休暇中に村井氏方に寄寓し筑紫箏の指導を受けていた人が出席し、仏前に村井女史愛奏の箏を据えて追悼の曲を演奏した。全く珍らしい葬式で、参列者も皆涙を浮かべ耳をかたむけていた。 ところで近来俗流の筑紫琴が数々出て来たようだ。正流の筑紫箏を耳にすることが出来ないのは残念の至りである。尚、ついでに書いておくが村井女史をなくした翌年、米国人のロベルト・ガルフィア氏夫妻が、田辺教授の紹介で来唐、近松寺境内の小笠原記念館に収めてあった筑紫箏や附属品を見学、琴を手に掛けた上で満足げに出発した。そしてあとから来た礼状に「私共の筑紫箏の勉強の手助けをして頂いて御礼申し上げます」と書いてあったが、その後の消息はわからない。 |
自由を守った人々・勇気ある孤独の人 昭和22年3月14日発行「時事特報」より転載 異端者だ、反軍主義者だと絶えず彼の周囲には冷たい社会の視線と特高憲兵など、軍閥の走狗となった亡国の手先きは執拗な而も猜疑の強い眼差しを向けていた。昭和十八年の終りも近いある日、唐津市立図書館の司書室………… A氏「ホウ石井さんも遂に時代の波に迎合するようになったかね」 と後ろの壁を指したのはA氏だ。 不機嫌そうに振返った石井さんの目には「米機に警戒、英機にはより警戒」と彼自身の手になる墨の跡が映った。 A氏「米機に警戒と云うことは解るがイギリスの飛行機により警戒しなければならないと云うのは何うした意味かな、未だ英空軍が本土に襲撃するとは考えられないが……」 石井「英機は国内に来ているよ、そして日本に最後の止めをさそうとしているじゃないか」 A氏「エーツ?」意外な石井氏の答えにA氏は彼の顔を穴のあくほど見つめた。 石井「そうだ内閣総理大臣臣兼参謀総長東条英機即ち英機じゃないか」と云い切った彼よりもA氏の方が明らかに狼狽していた。 A氏「君、君そんなこと正気でいうのか、まさか君はまさか」 石井「勿論正気だよ、石井忠夫、不肖と云えど未だ責任のもてない言葉は口外したことはない。」 その時瀟洒な私服をきた中村憲兵が入って来た。A氏は気まづげに話題を転換させようとしたが、それは極めてぎごちない不自然なものになっていた。 中村「やあ暫く……石井さん相変らずの持論ですな。私は貴方と個人的には懇意にしているが、いまのような不要意な言葉を再び繰り返えされると職務上、例へば反逆心を持った国民として取扱はなくてはならないことになる。」 石井「ホウ、反逆心?私は何時上御一人に対し異心を抱くようなことを云いましたかね」 中村「現に言われたではないですか。東条内閣の政策やそして個人に非難を加えられた」 石井「あ、それは反逆心とは言えますまい。単に批判であって、議会制度の確立している国家の国民の当然の権利で、これが募れば内閣不信任と云うことになるが、決して反逆心にはならない」 中村「ウームー然しそれは…‥…然し石井さん、議論では貴方の敵ではないが、国を愛する僕とし石井「国を愛することは私も人後に落ちないつもりだ。唯私は貴方よりも、ものを静かに考える余裕を持っているのです。私もかつては宗教的国家主義者であったかも知れない。然しそれは軍国主義とは違う。支那事変末期から大東亜戦争にかけての軍閥のやり方には、正直に云って貴方の前だが承服出来ない」 中村「よし貴方が飽くまでその態度を是正しないならば私には私の考えがある」 石井「それは御随意です」 中村「Aさん貴方にも注意しておきますがね、こゝの図書館は思想的危険地帯と僕は見ている。従ってこゝに出入りする者は……」 A氏「いや僕は今日始めて来たので…ネエ石井さんそうでしょう」 石井「ハハ……その通り、こゝに来ている常連があったとしても私の考えに共鳴する者はおるまい。今三、四年たてばまた別だが……」 中村「重ねて云います。石井さん今の言葉を撤回する意志はないですか」 石井「喋ることは自由だ、私は憲法で許された私の自由を飽くまで守る」 中村「それでは巳むを得んここらで失礼する」 中村氏は靴音も荒々しく立去った。 A氏「じゃ僕もこれで‥……」 とあわて、その後を追う。石井氏静かに立上り窓辺に寄り戸外を眺めている。女子事務員市川が静かに入って来て、 市川「お客さんもう帰られたのですね、お茶が二ッとも無駄になったわ……石井さんお茶いかがですか」と机の上に湯呑を置く、 石井氏つぶやくように「私は孤独だ、孤独だ誰のために……日本のために妥協はせんぞ、妥協はせんぞ……」 終り |
編集あとがき 唐津市の元図書館長であった石井忠夫さんは、昭和四十九年十二月十七日、天寿を全うして惜しくも永眠された。享年八十七歳、硬骨で個性豊かな明治人が、近年次から次へと、唐津の街から姿を消し去っている折柄、一生を和服の着流がしで通して来た特異の存在であった石井さんを、再び見かけることはできなくなった。貴重な人間文化財を失くしたような寂寥感を覚える。 ただわれわれ後人の、ささやかな慰めは、八十八歳の米寿を前に、逝去の年の秋、岸川欽一さんを発起人、代表として知己、友人、後輩ら約四十数名が参会して、一年早い米寿のお祝いをそれこそ盛大に行ない、ご本人にも大変喜んでもらったことである。 さて石井さんの履歴やひととなりは、この冊子の中にも記載されているので重複をさけるが、石井さんが明治、大正、昭和の三代にわたって地方ジャーナリズムに活動したことは、多く知られているところ、縦横の華麗な論旨のほか小説、誌、俳句の領域まで多岐角的な、この人の文才は、往くに可ならざるは旨しといった感があったようである。特に寸銀人を斬る独特の凡刺は、既に定評のあるところであった。 石井さんは十数年間の唐津図書館長を、昭和三十年辞任して以来、市井人として表立った仕事に就かず、逝去まで殆んど隠棲に近い生活を送ったものだが、時あるごとに、石井さんの知識や経験、あるいは貴重な資料が、生かされたものであった。いうなれば、引退後の石井さんは唐津市の文字通り生き字引であったといえようか。 その豊富な資料を基に、石井さんは唐津商議ニュースに昭和四十二年はじめから四十七年秋にかけ、四十数回、山中海太郎のペンネームで「思い出のトピック」と題し、唐津の過去の足跡を各項目にわたって寄稿した。 唐津商工会議所では、この唐津市の生きた貴重な歴史を後世に残すため、これらの記事をまとめ、商議創立四十周年記念として期日を遥かに遅れたが、ここに刊行することになった。 着手当時まだ生存中であった石井さんは、発刊を心待ちにしていたが、その後諸般の事情で刊行が延び延びとなり、残念ながら石井さんの死後、約二年半の今日、やっと刊行の運びとなった次第である。 生前の石井さんに、この冊子を捧げることができなかったのは、返えす返えすも悔まれてならぬが、この小冊子が、石井さんの分身として未来永劫、唐津市とともに生き続けて行くことを念願してやまない。 なお刊行に当り、いろいろご協力ご援肋をいただいた関係者各位に深い敬意と感謝を表する。 なお、右にも触れた通り、この冊子は本来、昭和四十九年秋、刊行の予定であったので記載の発行賛助の各氏の手記、談話は、その当時のものである。掲載した各位に遅延のお詫びとご了承を願う次第である。 昭和五十一年四月 編集委員 田原 治男 尾花 明 堀田 哲男 稲富 政雄 明治・大正の唐津 昭和五十二年五月三十日印刷 昭和五十二年六月二十日発行 著 者 石 井 忠 夫 発行所 唐津市西城内一番 хA5141 唐津商工会議所 印刷所 唐津市千代田町 唐津印刷有限会社 |