松浦史談会 『末廬國』 第172号より

庄屋文書にみる唐津城築造年代の一考察
神田   山田 洋

 
はじめに

 唐津城の築造年代について、『唐津市史』は秀嶋皷渓の『松浦記集成』等を引用して次のように記している。
「志摩守は松浦地方を領有し田中村に仮城を置き、本格的な城郭の造営に乗りだした。波多氏の本拠である岸嶽城は平山城で城下町として武士を住まわせるには不便であり、名護屋城は規模が大きすぎ、唐津に城を築くことになった。

工事は、
唐津城普請の事、慶長七壬寅年より同十三戊申年迄七年に成就也(松浦記集成)
として、慶長七年よりはじまり慶長十三年(一六〇八)に完成、なお工事には九州諸大名の助力があった。
 諸大名御加勢前後五年ニ当城御築立慶長年中被移居‥‥(寺沢広高公以来御代々記録)
 このことは現在も肥後掘、薩摩堀、長州堀、柳堀、佐賀堀という名で残っていることでもうかがわれる」。
 これが定説化し、その後発刊された町村史もすべてこれにならっている。
 唐津藩は、初代の寺沢氏は二代で改易、その後は譜代大名の支配下となり転封が多かった関係で、地元には藩政史料がほとんど残っていない。従って唐津城築造年代を特定できる一級史料がない。
 一方、庄屋文書は数多く残存するが、唐津城築造について記した庄屋文書がすべて慶長七年説をとっているかといえばそうでもない。
 そこで 『松浦叢書』や最近新たに見ることの出来た「寛保元年太閤様名護屋御在城前後謂書」(文化課保管)、さらには、唐津藩外の史料である「朝鮮陣留書」(山口県立文書館)や、「征韓武録」(鹿児島県立図書館)、「大八州遊記」等を参考にしながら、唐津城築造年代について考えてみたい。

 
庄屋文書の記す唐津城築造年代

 はじめに、『松浦叢書』等に登載された庄屋文書のなかの唐津城築造年代にいて、列記してみる。


 
◇慶長七年築造説

・『松浦記集成』秀嶋皷渓
「唐津城普請の事、慶長七壬寅年より同十三戊申年迄七年に成就なり」
・『松浦拾風土記巻1』
  (唐津根元並唐津城根元)
「…唐津城築き始りの事は、慶長七壬寅年より、同十三戌年迄七年に成就せり」
・『松浦要略記』
「慶長七壬丑(寅)年より始り同十二年まで七ヶ年にて御 成就これあり候」
・『唐津根元記』吉井文書
「慶長七壬寅年より唐津御城御普請御取り懸り、同十三戊申迄七ヶ年築之名古屋の城を移し給ふ」

 
◇慶長七年以前築造説

・『松浦拾風土記巻2』
 (天満宮並連歌奉納之事)
「鶴城御築は、文禄四年に始りて慶長七年に終わる。実年七ヶ年なり。大石の天満宮建移は十三ケ年後、元和元年春正月より三ケ月に成就なり」
・『松浦昔鑑』
「…はじめて田中に御入城成られ、それより文禄年中唐津城取立て、名古屋御城の御材木にて御普請、今の唐津御城これなり」
・『太閤様名護屋御在城前後謂書』
「…俄に取掛かり文禄三年より慶長三年迄五ヶ年に御成就、中場より御移り成られ候由申伝え侯」

 このように、庄屋文書には慶長七年説だけでなく、それ以前の文禄三年(一五九四)、文禄四年(一五九五)、文禄年中という記述もある。

 
◇天正十九年説

 ところで、唐津城はそれ以前にすでにあったと思われる史料が二点、中里紀元氏により紹介されている。朝鮮出兵のため名護屋陣にやって来た武将の記録で、一点は島津藩の『征韓武録』(鹿児島県立図書館蔵)、他の一点は津和野三本松城主吉見元頼の家臣下瀬七兵衛頼直の記した『朝鮮陣留書』(山口県立文書館蔵)である。

『征韓武録』(鹿児島県立図書館蔵)は、秀吉の朝鮮出兵に一万五千の軍役を命ぜられた島津氏が、鹿児島を出発し帰国するまでの様子を記したものである。
 作者は桑武堂正名とあり、明治二十一年(一八八八)に出版された全十巻からなる武録である。唐津城に関係するのは次の数行である。

「‥‥鹿児島領諸懸郡御軍役壱万五千の出務を仰せ付けられ、去年より肥前唐津名古屋両城義御陣場普請公役、諸国同前に仰せ付けられ、細川幽斎、石田三成も相詰め諸下知これ有るにより、御家老伊勢雅楽助貞真入道任世御用聞のため去冬より相詰められ、その外普請奉行等廿数人在勤なり」

 石田三成が島津義弘に軍役数と名護屋城普請のための人夫動員数を伝えたのは、天正十九年(一五九一)八月十五日である。この年十月十日より名護屋城の普請が始まっているから、「肥前唐津名古屋両城義御陣場普請公役、諸国同前に仰せ付けられ」たとすれば、唐津城普請も天正十九年に諸国大名の「公役」として築かれたことになる。
 『朝鮮陣留書』は、天正二十年(一五九二)三月八日、津和野を出立してから文禄二年(一五九三)四月七日迄の一年間の詳細な従軍日記であるが、唐津と唐津城を描写した部分は次のようである。
「十二日ニたかす御立候、肥前国の内よしゐと申し候所に御陣取り候、彼中途に筑前と肥前境目につつらいしとてこれ在り、肥州の名所鏡の宮ヲ御見物候、その次に唐津とて面白キ津これ在り、彼津にて竹を公儀よりこれを遣わされ候、彼津によき城あるのよし聞き候て吾等弐名にて見物申し候」

 「たかす」は高祖城のあった高祖(前原市)であろう。「つつらいし」は肥前と筑前の境にある包石と推測できる。

 一行は高祖を立った後よしゐ(吉井)に陣をとり鏡神社を見物、その次に唐津といういい港で陣屋の建築材としてであろうか、竹を手に入れている。この津に「よき城」があると聞いて見物している。
 さらに、青山鉄槍(文政三年〜明治三十九年・水戸藩の漢学者・大日本史の完成者)の『大八州遊記』(明治廿年)には、唐津城について「豊臣秀吉征韓の時秀吉命じてこれを築く」とある。
 これらのことから考えると、秀吉が朝鮮出兵の前衛基地として壱岐に勝本城、対馬の厳原に清水山城を築いたように、唐津城が名護屋城の後詰として築城されたことは十分考えられることである。
 ところで、唐津城築造の際名護屋城の建材が使用されたことが、庄屋文書には度々出て来て、慶長七年説を裏付けるものとこれまでされてきたが、これについては、平成十五年に唐津市教育委員会文化課が「小さな企画展」として行った「唐津城の不思議あれこれ」のパンフレットの中でつぎのように述べている。

「‥‥唐津城から名護屋城と同じ型で作った瓦が出土します。その典型的な物が、太閤が使用した五三の桐が描かれた (桐文様)軒丸瓦です。これはかつて名護屋城の解体した部材を利用して唐津城を造ったといわれ、その証拠の一つとしてあげられたものです。でも徳川政権下の築城となる唐津城で、微妙な力関係に慎重だった寺沢氏が、あえて太閤認可の(桐文様)の瓦を使うでしょうか。ここは無難に波風立てずというのが本音でしょう。とすれば、桐文様瓦が大手を振って使える時期こそが、この瓦の葺かれた時期と考えるべきでしょう。しかも、金箔瓦となったらなおさらです。
 ただ、城の形がどうであったかを考える必要があります。戦国期の築城は、関ケ原以後の築城とは違い戦略的な拙速性が優先されたものであり、秀吉はそのことで当時の武将達の中でぬきんでた人物であったわけですから、その優秀な旗本であった寺沢氏はなおさらであったと考えられます。つまり、今とは違った(構え)の砦的な城が当初造られたと考えるのが一番わかりやすいようです」

つまり、唐津城跡の発掘調査で出土した名護屋城と同型の「(桐文様)軒丸瓦」等は、唐津城が朝鮮出兵後に名護屋城の建材を使用して築城されたことを証明するのではなく、むしろ秀吉の威光が輝いていた時期に何らかの城郭といえるものが築かれたのではないかと考える方が理解しやすいとしている。
 このように考えると、薩摩堀・肥後堀・柳堀という呼称を今に伝えて唐津城築造に九州諸大名の助勢があったということも、秀吉の後押しがあったればこそと肯けるのである。

 唐津城築造については、郷土史家常安弘通氏も「名護屋の城を本営とし壱岐・対馬に前衛の支城を置き、後衛として唐津城を構えたであろう」として「太閤秀吉征韓にのぞんでの築城」という見解を述べている。


『寛保元年(一七四一)太閤様名護屋御在城前後謂書』

 最近発見された右表題の文書は、唐津城築造について新たな話題を提供してくれる。
 筆者は名護屋伊右衛門である。曾祖父は文禄の役で水先案内を勤めた名護屋越前守経述、祖父は寺沢広高により、名護屋村の惣庄屋に取立てられた名護屋経明(次郎作)である。
 名護屋家は、代々伊右衛門を襲名しているが、名護屋村や板木村等の大庄屋を勤めた三代目伊右衛門は文才があり「太閤様名護屋御在城前後謂書」のほかに「名古屋家文書」(名古屋政昭家蔵)等を残している。
 「太閤様名護屋御在城前後謂書」は、秀吉の朝鮮出兵前後の様子を書留めたものである。秀吉出兵の状況等かなりの部分は、小瀬甫庵『太閤記』(寛永三年・一六二六)より抜き書きしていることが明らかであるが、名護屋近辺に関することは地元の者でないとわからない記述が多く興味深い。
 唐津城築造の経過については次のように記している。

「太閤様朝鮮国思し召しの侭御切り取られ、文禄三年大坂へ御帰陣、名護屋御城は寺沢志摩守様に御預けられ志摩守様は岸嶽の城御拝領、之により唐津領六万三千石、薩摩国にて出水郡二万石相添えられ都合八万三千石御拝領成られ候、その節志摩守様に御上意、もし異国より責め来たる儀計りがたく、名護屋城堅固に相守るべき旨仰せつけさせられ候、之により太閤様へ仰せ上げられ候は、岸嶽の城下し置かれ有難き仕合に存じ上げ奉り候、しかしながら岸嶽の城は山城と申し名護屋御城には七里御座候へば、急なる儀には間に逢い申さず候、名護屋より四里東によき場所御座候、此所私自普請に罷り在り仕り名護屋御城守護仕るべく候、その内は田中村と申す所に三河守隠居屋敷御座候、此所に罷り在り申し度段願い奉り候へば、ともかくも宜敷はからい申すべき旨御上意により、俄に取掛かり文禄三年より慶長三年迄五ヶ年に御成就、中場より御移り成られ候由申伝え候、則ち朝鮮国御用のため唐津御城の儀は御築成られ候に付江戸鏡(鑑)にも朝鮮国御用の為と御座候儀、其の紛れ無御座候御事」

 秀吉の二度目の大坂帰陣は実際は文禄二年(一五九三)八月であるが、この時、秀吉は寺沢広高に兵八千を与え名護屋城留守居役を命じている。
 寺沢広高が秀吉の旗本参謀より大名に昇格するのは慶長二年(一五九七)であるが、既に文禄二年の時点で旧草野領と旧波多領の代官として六万三千石を領有し、実質的な大名としての力を持っていたと考えられる。
 文書によれば、岸岳城を与えられたが、名護屋城留守居役を勤めるには名護屋まで七里と遠すぎる。そこで「名護屋より四里東によき場所御座候、此所私自普請に罷り在り仕り名護屋御城守護仕るべく候」と申し出て許可されている。そこで「俄に取掛かり文禄三年より慶長三年迄五ヶ年」かけて築城したが、広高は完成半ばの唐津城へ中途から移り住んだようである。
 ここで興味をひくのは、大方の庄屋文書が、唐津城築造には九州諸大名の助勢があったとしているのに対し、伊右衛門は「私自普請」、つまり寺沢広高自身の築城としていることである。また結びに「朝鮮国御用のため唐津御城の儀は御築成られ候に付江戸鏡(鑑)にも朝鮮国御用の為と御座候儀、其の紛れ無御座候」と、唐津城の築造は朝鮮出兵に必要だったからであり、そのことは「江戸鑑」にも「朝鮮国御用の為」とちゃんと書いてあり間違いのないところであると強調している。
 このように、朝鮮出兵のお膝元である名護屋村の庄屋職を先祖代々勤めてきた名護屋伊右衛門が、唐津城築造について「名護屋御城守護」を仰せつかった寺沢広高が「文禄三年より慶長三年迄五ヶ年」を掛け「朝鮮国御用のため」に「私自普請」により築城したものであると記しているのは興味深い。恐らく唐津城築造については、江戸時代から十分な資料のないまま様々な論議があり、伊右衛門も、それに対する自分なりの見解を述べたのではなかろうか。

(参考)

@「武鑑」や「江戸鑑」を年次的に集成した 『江戸幕府大名武鑑編年集成』(東洋書林)には、寺沢氏関係を見つけ出すことは出来なかった。
A鳥羽正雄著『近世城郭史の研究』(昭和三十七・雄山閣)では、唐津城修築が慶長二年(一五九七)になされたとしている。根拠になる資料が明瞭でないが、この年に朝鮮出兵が再開されたこと(慶長の役)、寺沢広高が秀吉の旗本参謀から大名に取立てられたこと等を合わせ考えてみると一概には否定できないところである。

 
まとめ

 唐津城の築造については、これまで述べたように、江戸時代より学識のある庄屋達の間で様々な意見があったようである。これら庄屋文書と朝鮮出兵に関する他藩の資料とを勘案し、現段階では唐津城築造について、次のようにまとめることが出来るのではないかと考える。
@唐津城築造は名護屋城の後詰めとして、天正十九年(一五九一)名護屋城築造と同時に進められた。築造にあたっては、秀吉の命により九州諸大名の助勢があった。
 つまり、名護屋城を本営とし、壱岐・対馬に前衛の支城を置き、後衛として唐津に砦的な城を構えたことが考えられる。
A唐津城の増築補強が寺沢志摩守の昇進と並行して行われたと考えられる。
(寺沢志摩守の昇進)
・文禄元年(一五九二)
  長崎奉行
  旧草野領(太閤蔵入地)の代官
・文禄二年(一五九三)
  旧波多領(太閤蔵入地)の代官
 この年秀吉の大坂帰陣により、兵八千を与えられ名護屋城留守居役となる。この時点で旧草野領と旧波多額を支配する実質的な大名となった。
・慶長二年(一五九七)
 秀吉の旗本参謀より大名に任ぜられる。
B松浦川の改修、虹ノ松原の造成、各地の新田開発等を含む大規模な城づくりは、徳川政権となった慶長七年(一六〇二)以降まで続き、寺沢氏による唐津藩の支配が確立した。


 唐津城築造年代の特定については、信頼できる藩政史料の発見や、今後の唐津城跡発掘調査の成果に期待したい。
                               (完)


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