唐津城に関する新聞記事


 唐津城石垣崩落の恐れ~市が調査へ

【記事の概要】
唐津城の石垣が崩落する恐れがあることが明らかになり、専門家らによる「唐津
城石垣修復専門家委員会」が発足した。委員会は調査結果を踏まえ、具体的な工法
などを検討することになった。
調査している石垣は、城が建てられている最上部の東、西、南側部分の計約
1460m2、高さは最大約11m。石垣は江戸時代の築城当時のものとみられ、石がせ
り出している場所もある。
こうした状態が生じた時期や原因は不明であるが、10 年前の写真と比べると、一
部の石には割れが確認されたり、間詰め石の落下も生じている。
現在ある天守閣は、市が1966 年に建てたもので、長さ19m、16 本の基礎杭で支
持されており、石垣の傷みに伴う傾きなどはない。
委員会のメンバーのコメント「はっきりとした原因は不明だが、基礎杭をつくる
ために掘った穴の一部に石垣の内側の砂が流れこんだことも考えられる」。
委員長の三浦哲彦・佐賀大名誉教授(69)のコメント「石垣の劣化は深刻。放って
おくと、大変なことになる。即刻修理が必要と考えている」と話している。

読売新聞、平成18 年8 月20 日
 
唐津城石垣9年かけ再構築 修復始まる

 築城400年を迎え、損傷が進む唐津城(唐津市)の石垣の修復工事が始まった。市が約15億円をかけ、2016年度までの9年間で、本丸を囲む石垣のうち約7割の1300平方メートルを再構築。歴史遺産と市の観光シンボルとしての魅力を後世に引き継ぐ。

 唐津城は、唐津藩初代藩主の寺沢志摩守広高が1608年に築城したとされ、昨年、築城400年を迎えた。本丸最上段にある天守閣だけでも年間10万人が訪れる観光名所になっている。だが、近年は本丸の石垣に緩みや張り出しが現れ、崩落の恐れも指摘され、市は2006年から専門家の意見をもとに修復の工法などを検討してきた。

 工事は本丸の東西と南側を囲む13面の石垣が対象で、面ごとに石垣を積み直す。作業は幅0・6メートル-1メートルほどある石を上部から外していき、石垣の裏に詰められている浸食防止用の「栗石(ぐりいし)」も取り外す。土台部分の土には特殊なシートを張り、石垣の緩みの一因ともなる土砂の流出を防ぐ。その上で、石を元通りに積み直す。

 1月から工事に着手、現在は文化財確認調査を進めており、市都市計画課は「費用も期間も大規模な工事だが、将来に引き継ぐためしっかり修復する必要がある」と話す。工事期間中も観光客の散策ルートは確保するという。

佐賀新聞  2009年02月16日
 
唐津城で名護屋城と同じ瓦 通説裏付ける史料に

 佐賀県唐津市東城内の唐津城本丸跡から、名護屋城跡(同市鎮西町)で出土した瓦片と同一の文様が入った瓦片が出土した。「唐津城は名護屋城の解体資材を使って建てられた」とされる通説を裏付ける史料になる。豊臣秀吉が建物に使ったとされる金箔(きんぱく)瓦も見つかり、唐津城築城の歴史を解明する手がかりになる。

 瓦片は、唐津城天守閣がある公園の東側の石垣(幅12~28メートル、高さ12メートル)の裏側の全域から約1000点が出土した。大きさは15~39センチほどで、豊臣家の桐文様や唐草文様などの意匠が入った軒瓦が数十点あった。名護屋城のものとみられる瓦片は1995年に3個が見つかっていたが、大量に確認されたことで、解体資材使用を強く裏付ける材料になる。

 市教委は、これらの文様が名護屋城跡から出土した瓦の文様と合致し、大量に見つかったため「名護屋城の解体資材が現在の唐津城のある場所に運ばれ、相当数の建物が建てられていたと考えられる」とみる。

 唐津城築城については幕末に書かれた複数の庄屋文書の記述から「寺沢広高が名護屋城の廃材を使い1602年から1608年にかけて築城した」と伝えられてきた。

 また、金箔が張られた瓦片1個も見つかった。大きさは10・5センチ×8・5センチで、表面に彫られた無数の溝などに金箔が残っていた。市教委は、飾り瓦の「しゃちほこ」のひれの一部とみている。

 金箔瓦は、豊臣秀吉の権力を示すもので、全国約40カ所の城郭で確認されている。県内では秀吉が滞在した名護屋城に続き2例目。

 ただ同型の金箔瓦は名護屋城の出土物にはなく、市教委は「寺沢の時代に名護屋城から運んだものかはわからない。それ以前に、豊臣政権が名護屋へ至る拠点として金箔瓦を載せた建物を作ったとも考えられ、唐津城以前に別の城があった可能性もある」とみている。

 瓦片は、唐津城の石垣再築整備事業に伴う文化財調査で発見した。事業は2016年度まで15億円をかけて行う。

 市は28日午前9時半と午前11時から現地説明会を開く。

佐賀新聞 2009年06月23日


  唐津城石垣から金箔の瓦出土、秀吉との関係裏付け

唐津市教委は23日、唐津城の石垣発掘調査現場から金箔(きんぱく)を施した瓦が出土したと発表した。金箔瓦は豊臣秀吉の政治的な威光を示すもので、全国で約40の城から見つかっており、県内では名護屋城跡(唐津市鎮西町)に次いで2例目。市教委は、唐津城と秀吉の関係を示す貴重な資料としている。
 発表によると、金箔瓦は縦8・5センチ、横10・5センチ、厚さ3・5センチ。本丸広場東側の石垣を解体中、地表から約2メートルのところから栗石に交じって出てきた。大きなW字状の凹凸があり、その断面に1~2ミリ間隔で細い溝が彫られ、溝の一部に金箔が長さ1センチ前後で数か所残っていた。金箔の接着剤として使われた赤漆も見られた。市教委は飾り瓦の(しゃち)のひれか植物紋の一部ではないかとしている。
 唐津城の築城は約400年前。秀吉が文禄・慶長の役(1592~98年)に際して築いた名護屋城の移築に伴い、建材をリサイクルしたということが伝承や江戸後期の記録に残っているが、それ以前に秀吉の西進ルートの拠点として築かれたという説もある。市教委は、いずれにせよ金箔瓦の出土は秀吉とのかかわりを裏付けるものとみている。
 城郭研究家の高瀬哲郎さんは「金箔瓦はどこにでも出土するものではない。拠点城としての位置づけを示す重要な発見だ」と話している。
     ◇

 唐津城の石垣発掘調査は、2008年10月に石垣の整備事業として始まり、16年度まで続く。
 市教委は28日午前9時半と同11時の2回、現地説明会を開く。唐津城の藤棚付近に集合。説明は1時間程度。参加は無料。雨天決行。

読売新聞 2009年6月24日
 
名護屋城の瓦出土の唐津城で説明会


 唐津市の唐津城本丸跡で出土した名護屋城(同市鎮西町)様式の瓦や金箔(きんぱく)瓦などを公開する説明会が28日、唐津城であった。約120人が、瓦片や出土した石垣解体現場を見学、唐津城築城の歴史に思いをはせた。
 石垣の修復現場では、唐津市教委の職員が、大量の瓦片が出土し、名護屋城出土品と同じ文様の瓦片や金箔が付いた瓦が含まれていたことを説明。名護屋城の解体材をリサイクルして建物を造ったことや、唐津城築城以前に金箔瓦を乗せた建物があった可能性があることを紹介した。

 やぐら台の根石などの発掘成果も公開され、参加者が写真に収めていた。市内の男性(57)は「権力の象徴である金箔瓦が石垣の裏から出たのに興味がある。築城時は大きな時代の変わり目だったのだろう」と話した。

佐賀新聞 2009年06月28日

 
唐津城、築城当時の石垣発見 本丸西側、南北に


 唐津城の石垣の内側から、江戸時代初期の築城当時の石垣の一部が見つかった。高さ50センチ、幅約3メートルにわたって7個の石が並んでいる。築城に関しては古文書に簡単な記録があるだけで、市教委は「築城の歴史を解明する手がかりになる」としている。 

 天守閣がある本丸西側の石垣(高さ4メートル、幅約40メートル)から約3メートル内側の地中から見つかった。石垣の最下部の根石で、割るなど加工されていない自然のままの石が出土した。現在の石垣に平行し、南北に7個連なっていた。石垣はその後の改修などで壊されたとみられ、途切れている。 

 周辺から江戸初期に朝鮮半島から伝わった陶磁器や瓦の破片など数十点が出土したことなどから年代を特定した。 

 築城期の石垣の地層は粘土質だが、石垣の上には石や砂混じりの盛り土があった。土質が違うことから、過去に数回、石垣を積み直す大規模な補修や改修が行われていたことがうかがえる。 

 幕末の古文書では「寺沢広高が慶長7(1602)年から同13(1608)年に築いた」との記述が残っている。 

 築城時の石垣とは別に、解体した天守閣西側の収蔵庫跡からやぐら台の石垣も出土した。南北9・5メートル、東西7・5メートルの長方形で、瓦などの出土品などから江戸中期から幕末にかけ、平屋建てのやぐらが建っていたとみられる。天守台東側の地中からは通常の割り石とは色や形状が異なる石が見つかり、天守閣の石垣も積み直した可能性も出てきた。 

 唐津城では2016年までの予定で石垣の修復工事が行われている。市教委は「本丸には依然不明な点が多く、具体的な遺構を手がかりに築城期の全容を明らかにしていきたい」と話す。 

 市教委は10月3日午前11時と午後2時から現地説明会を開く。

佐賀新聞 2010年09月29日


唐津城、築城期の石垣確認 勾配緩やか、乱積み


 唐津市教委は16日、唐津城本丸南の石垣の内側から、江戸初期の築城期ごろに造られたとみられる古い石垣が見つかったと発表した。これまでの石垣よりも勾配が27度緩やかなため、同教委は「築城当時、本丸は現在よりも狭かったことが分かる」としている。 

 外に露出している「9面石垣」と呼ばれる石垣の約1・3メートル内側から幅60~80センチ、高さ40~50センチ、奥行き60センチほどの石垣が5つ確認された。 

 9面石垣は奥行き約1メートルで、形を整えた花こう岩を勾配78度に重ねているが、今回見つかった古い石垣は花こう岩と玄武岩を加工せずに乱積みしている。勾配が51度と緩やかなため、本丸は築城時、現在より北側にあって狭く、天守台も北に位置したか、まだ建てられていなかったと考えられるという。 

 唐津市は築城から400年を経過し、損傷した石垣の解体・修復を進めている。秋以降は天守台の石垣の解体調査を行う。築城に関しては古文書に簡単な記録があるだけで、市教委は「謎の多い築城期の様子を知る手がかりとなる」と期待する。 

 市教委は一般向け現地説明会を28日午前10時から開く。参加無料で、本丸中段広場に集合する。問い合わせは市教委文化課、電話0955(72)9171へ。


佐賀新聞 2011年08月17日更新
 

 唐津城の本丸石垣 裏側に旧石垣発見

 唐津城の石垣の発掘調査をしている唐津市教委は16日、現在の本丸の石垣の裏側に旧石垣を発見したと発表した。17世紀初めの唐津城築城当時の石垣は、これまで見えていた石垣ではなく、今回見つかった旧石垣である可能性が高まった。市教委は「謎に包まれた唐津城築城の様子を知るための重要な手がかり」としている。

 旧石垣が見つかったのは、本丸南側の石垣の解体作業現場。「9面石垣」といわれる現在の石垣の裏側約30センチのところに、別の石垣が5個並んでいた。いずれも幅60~80センチ、奥行き約60センチ、高さ40~50センチ。現在の9面石垣が道具を使って花崗岩(かこうがん)を割った「割り石」であるのに対して、旧石垣は花崗岩や玄武岩の自然石。勾配も、9面石垣の78度に対して、旧石垣は51度と緩やかになっている。

 これらの特徴から市教委は、旧石垣は9面石垣よりも早い時代に造られたものと結論づけた。唐津城は1602(慶長7)年~1608(慶長13)年に築城され、これまで、9面石垣が築城期の石垣と見られてきた。ところが、新たな石垣の発見で、旧石垣が築城期のもので、9面石垣はさらに時代が下る可能性が強まってきたという。

 また、旧石垣は、石垣の軸が9面石垣よりも6度ずれており、これが築城期の石垣だとすると、天守台の形も現在のものとは違ってくる可能性が出てきた。現場で調査を続けている市教委文化課の坂井清春さん(35)は「7月中旬に見つけたときには興奮した」と話す。

 旧石垣は仮設道建設のため今月末には埋め戻される予定。28日午前10時から、本丸中段広場で、一般市民を対象にした現地説明会を開く。問い合わせは文化課(電話0955・72・9171)へ。
(田中良和)

朝日新聞 2011年08月17日


 唐津城旧石垣5個発見
市教委「創建時のものか」

唐津市教委は16日、唐津城の石垣再築整備事業に伴う文化財調査で、本丸南側の現石垣の奥から1608年の創建時と思われる旧石垣を5個発見したと発表した。創建時の本丸部分は現在よりやや小さく、形状も異なっており、唐津城築城の謎を解く手がかりになるとしている。

 旧石垣は7月中旬、現石垣を解体していたところ、石垣の奥から約30センチ離れた栗石部分から見つかった。幅60~80センチ、高さ40~50センチ、奥行き約60センチで、花こう岩や玄武岩の自然石だった。現石垣が花こう岩を割って形を整えて積んでいるのと異なっており、石垣の勾配も現石垣の78度に対して、51度と緩やかだった。

 現石垣は、盛り土から出土した陶磁器などの遺物から江戸時代初め頃とされ、市教委は「旧石垣はそれより古く、創建時ではないか」とみている。現石垣と平行ではなく、約6度南北にずれていた。西側が解体していない天守台まで続いていると想定され、本丸(面積約5000平方メートル)はより小さかったとしている。

 市教委は今冬から天守台の石垣の解体調査を行う予定で、文化財担当の坂井清春さん(35)は「現在の本丸部分は築城当時のものでないことが明らかになった。天守台の石垣の調査で、本丸の全容がわかるかも知れない」と話している。

 市教委は28日午前10時から、今回の成果についての現地説明会を開く。集合場所は城の中段広場。

読売新聞 2011年8月17日  
 

唐津城 秀吉時代の?金箔瓦
朝鮮出兵の拠点か

 佐賀県唐津市の唐津城の発掘調査をしている市教委は25日、金箔瓦の破片4点を発見したと発表した。今の天守台石垣より古い石垣裏の盛り土から見つかったことから、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役(1592~98年)ごろに金箔瓦を使った出兵拠点が唐津城のある満島山につくられた可能性があると市教委は見ている。
 市教委によると、瓦の表面に金箔を張り付けた金箔瓦は豊臣政権の「力の象徴」。全国約40カ所の豊臣家ゆかりの城から出土している。唐津城(1602~08年ごろ築城)でも2009年から10年にかけて計4点出土しているが、いずれも表土などからで時代を特定できなかった。
 今回、天守台石垣から約4㍍南側の地中から旧石垣が見つかった。
 金箔瓦が見つかったのは、旧石垣裏側の盛り土の中。地表から深さ約0・5~約2㍍のところにあった。鱗の形をした鯱瓦で、金箔がところどころ残っている。鯱の胸びれと見られる部分は横約14センチ、縦約10センチ、高さ約6センチの大きさ。そのほかは目や顔の一部と見られる。
 秀吉の朝鮮出兵は、玄界灘を望む唐津市鎮西町の名護屋城と周囲の諸大名の陣屋を拠点とした。長崎県対馬と壱岐に前衛の拠点、福岡市内に後衛の城が設けられ、唐津湾に臨む標高42㍍の満島山にも後衛の拠点があったのではないかと市教委は見る。その建物の遺構は残っていないが、当時の薩摩・津和野両藩の古文書に「唐津にいい城がある」との記述が見えるという。
 市教委文化課の坂井清春さん(35)は「文禄・慶長の役当時、満島山に金箔瓦ぶきの建物が建てられ、それが何らかの理由で壊れて土に埋まった。その数年後に旧石垣が築かれたのではないか」と推測する。
     (田中良和)

朝日新聞 2011.10.26

唐津城から金箔瓦片を発見 唐津市教委


 唐津市教委は25日、唐津城天守台南の中段広場の地中から、金箔(ぱく)が付いた瓦の破片が見つかったと発表した。築城以前に造られたとみられる石垣の裏の盛り土から出土しており、市教委は「築城前に、豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として築かせた建物の瓦とも考えられる。発掘調査以来、最大の発見」と話す。 

 地表から0・5~2メートルの盛り土の中で、一部に金箔が付着した瓦の破片四つが出土した。こぶし大で、黄褐色。鯱(しゃち)瓦とみられ、ひれの形や目、口の曲線が描かれている。 

 城郭で金箔瓦が使用され始めたのは安土桃山時代から。文禄・慶長(1592~98年)の役の拠点・名護屋城(唐津市鎮西町)を築いた秀吉は、軍事的拠点などに限って金箔瓦の使用を認めており、市教委は同城に近い唐津城のある満島山に後方支援の拠点を築かせたと推測する。 

 市教委は「金箔瓦を使うほどの重要な建造物が築城前に存在したことを示す物証が出たのは初めて。唐津と秀吉との関係など、唐津城の謎の解明に向けて大きく前進する」と話す。 

 唐津城では2009年4月~10年12月の調査でも4点の金箔瓦の破片が発見されているが、表土や後世の土層で発見されており、年代などは特定できていなかった。 

 市教委は30日午前10時から、唐津城中段広場で現地説明会を開く。問い合わせは市教委文化課、電話0955(72)9171へ。

佐賀新聞 2011.10.27

 
 

唐津城跡:城内から最古の石垣 謎解明へ
 築城以前の状態示す遺構

 ◇豊臣政権の朝鮮出兵への考察にも

 唐津市教委は25日、唐津城跡の本丸文化財調査で、中段広場の天守台下から、築城以前のものとみられる石垣が見つかったと発表した。築城以前の状態を示す遺構が発見されたのは初めて。近くでは、文禄・慶長の役(1592~1598年)のため名護屋城に布陣した豊臣秀吉が家臣らにしか使用を許さなかった金箔(きんぱく)瓦の破片4点が出土しており、市教委は櫓(やぐら)や御殿など、秀吉が関係する重要建築物があった可能性があるとみている。

 市教委によると、石垣は地下1・5メートルで8月下旬に見つかった。残っていたのは高さ3・5メートル、延長5・7メートルで、50センチ~1メートルの石20個を確認した。

 これまでに見つかった最古の石垣は唐津城築城(1602年)時期のものだったが、今回の石垣は1591年の名護屋城築城から唐津城築城までの間に造られたとみられる。

 文禄・慶長の役では、周辺を120に及ぶ大名の陣屋が囲んだ名護屋城を本営として、壱岐や対馬を前衛拠点、筑前の名島城などを後詰めの拠点としていたことが知られており、唐津にも重要拠点が築かれていたと考えられる。

 市教委文化財担当の坂井清春さん(35)は「唐津城築城の様子は不明な点が多いが、今回具体的な遺構を初めて確認することができた。これは築城の謎を解明するだけでなく、豊臣政権の朝鮮出兵態勢の考察にもつながる」と話した。

 市教委は30日午前10時、現地説明会を開く。集合は同城跡中段広場。問い合わせは市教委文化課0955・72・9171。

毎日新聞 2011.10.27  【原田哲郎】

 

唐津城築城以前に建物、文禄・慶長の役の後衛拠点か

唐津市教委は25日、唐津城の石垣発掘調査現場から、城で最も古い旧石垣と金箔(きんぱく)を施した瓦の破片を4点発見したと発表した。豊臣秀吉の政治的権力の象徴である金箔瓦、石垣の構築法から、唐津城築城より以前に建物があった証拠で、文禄・慶長の役(1592~98年)の後衛の拠点として築かれた可能性が高いとしている。

 天守閣南側の中段広場で、地表から深さ1・5~5メートル掘り下げたところ、旧石垣は南北に延長5・7メートル、高さ3・5メートルで見つかった。金箔瓦は、この石垣裏の盛り土の中から出土した。(しゃち)瓦の一部とみられ、一番大きいのは横14センチ、縦6センチ、厚さ10センチあった。焼きが良くない軟らかい仕上がりで、いずれも一部が金色に輝いていた。

 唐津城は、伝承や江戸後期の庄屋文書から1602~08年に築かれたというのが定説。しかし、旧石垣は自然石を積み上げた工法から、名護屋城(唐津市鎮西町)築城が始まる天正19年(1591年)から、慶長年間前半(1605年頃まで)のものと推定され、唐津城より前に金箔瓦を用いた建物があったとしている。

 秀吉は文禄・慶長の役に際して名護屋城のほか、対馬、壱岐(いずれも長崎県)、福岡市・名島に城を築いたのが知られており、島根県・津和野藩家臣の従軍日記「朝鮮陣留書」に「唐津によき城ある」などの記述もある。これらから、市教委文化財担当の坂井清春さん(35)は「豊臣政権によって後衛の拠点として築かれた建物」とみている。

 石垣技術研究機構(佐賀市)代表の高瀬哲郎さん(60)は「旧石垣は自然石の野面積みの技法から名護屋城と同じ時期に築かれたのは間違いない。金箔瓦を使った建物があったのは、秀吉が唐津を名護屋城中心の広域的な軍事拠点の一つとしていた物証だ」と話している。

読売新聞  2011年10月26日 )
 
唐津城、築城当時の石垣発見 本丸西側、南北に


 唐津城の石垣の内側から、江戸時代初期の築城当時の石垣の一部が見つかった。高さ50センチ、幅約3メートルにわたって7個の石が並んでいる。築城に関しては古文書に簡単な記録があるだけで、市教委は「築城の歴史を解明する手がかりになる」としている。 

 天守閣がある本丸西側の石垣(高さ4メートル、幅約40メートル)から約3メートル内側の地中から見つかった。石垣の最下部の根石で、割るなど加工されていない自然のままの石が出土した。現在の石垣に平行し、南北に7個連なっていた。石垣はその後の改修などで壊されたとみられ、途切れている。 

 周辺から江戸初期に朝鮮半島から伝わった陶磁器や瓦の破片など数十点が出土したことなどから年代を特定した。 

 築城期の石垣の地層は粘土質だが、石垣の上には石や砂混じりの盛り土があった。土質が違うことから、過去に数回、石垣を積み直す大規模な補修や改修が行われていたことがうかがえる。 

 幕末の古文書では「寺沢広高が慶長7(1602)年から同13(1608)年に築いた」との記述が残っている。 

 築城時の石垣とは別に、解体した天守閣西側の収蔵庫跡からやぐら台の石垣も出土した。南北9・5メートル、東西7・5メートルの長方形で、瓦などの出土品などから江戸中期から幕末にかけ、平屋建てのやぐらが建っていたとみられる。天守台東側の地中からは通常の割り石とは色や形状が異なる石が見つかり、天守閣の石垣も積み直した可能性も出てきた。 

 唐津城では2016年までの予定で石垣の修復工事が行われている。市教委は「本丸には依然不明な点が多く、具体的な遺構を手がかりに築城期の全容を明らかにしていきたい」と話す。 

 市教委は10月3日午前11時と午後2時から現地説明会を開く。

写真:新たに確認された築城当時の石垣(中央)。現在の本丸の石垣に沿うように南北に約3メートル延びている=唐津城

佐賀新聞 2010年09月29日更新

 
修復中の唐津城 石垣の裏に思い思いのメッセージ

 築城400年が経過し損傷した石垣の修復工事が行われている唐津城(唐津市)で3、4日の両日、石垣の裏に埋め込む石に思い思いのメッセージを書き入れるイベントがあった。唐津くんちの見物ついでに立ち寄った観光客計約400人が、後世に残す思い出づくりをした。
 「メモリアルストーンin唐津城」と題したイベントで、メッセージを書き込んだ幅15センチ程度の石を石垣の土台を固める「裏込め材」に使う。「何百年か先の修復時に掘り起こされるタイムカプセル」(施工業者)という。

 「くんちにバルーンと佐賀ざんまい」という広島市の会社員足利友希さん(33)は「自分の名前を書き込んで、いい思い出ができました」と話した。今回メッセージが書かれた石は、本年度修復される西側160平方メートルに使用。修復工事は2018年度まで続く予定。主催の市は今後もイベントを継続していく方針。


佐賀新聞 2011年11月05日更新
 
唐津城で石垣解体工事 崩落防止、14年秋に復元

 唐津市は7月から唐津城の石垣崩落を防ぐため、天守閣下の石垣解体工事を始めた。天守閣はそのまま残し、土台となっている高さ10メートルの石垣をいったん全て外し、あらためて積み直す「難工事」で、全国でも初めての取り組み。工期は2年5カ月で、その間も天守閣は一般開放される。

 唐津城は築城から400年が経ち、石垣にすき間や緩みが出て、崩落の危険性も指摘されている。市建設部は今月から来年7月まで石垣を解体、来年9月から2014年11月まで石垣を元と同じように積み上げて復元する。

 5層の天守閣は天守台に打ち込まれた16本のくいで支えられているが、くいだけでは横揺れに弱いこともあり、市建設部は石垣を仮設の土台で囲み、天守閣の下のくいを側面から支える工事を施す。

 唐津城は1608年、初代藩主の寺沢広高が築城。現存する資料に天守閣についての記述はないが、唐津市が1966年、観光のシンボルとなるように天守台跡とみられる石垣の上に天守閣を建てた。


佐賀新聞 2012年07月06日更新
 
 

唐津城、豊臣時代に? 天守台築く大改造確認

2014年01月17日(最終更新 2014年01月17日 00時21分)

 佐賀県唐津市教育委員会は16日、唐津城跡の発掘調査で、江戸時代初頭に築かれたとされる現在の本丸・天守台の下から、豊臣政権時代に造られた可能性がある石垣が出土したと発表した。同様の石垣はこれまでに天守台近くでも出土しており、市教委は「古い石垣を基礎にして天守台を築く、大改造があったことが明確になった」としている。

 市教委によると、新たな石垣は天守台南側の地下約1・5メートルで確認した。長さは約10メートル。加工していない自然石を使い、石垣の勾配が緩いなど、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592~98年)の拠点となった名護屋城(同市)と同じ特徴があるという。

 現在の天守台は、古い石垣の上部を取り外して築いたと考えられる。石を割って大きさを整える「割石」という加工技術を使っていた。市教委は2011年にも自然石を使った古い石垣を確認。秀吉が拠点城郭と認めた城に使った金箔(きんぱく)瓦の一部も出土し、現在の形状とは違う城があったとの見方が出ていた。

 城郭研究家の高瀬哲郎・石垣技術研究機構代表は「元の石垣の一部を撤去して新たに築き上げるケースはほとんどない。関ケ原の戦い後も大きな戦乱が予想されたため、当時の唐津藩主寺沢氏がより城を強固にしようとした危機感の表れとも考えられる」と話した。市教委は19日午前11時と午後2時、現地説明会を行う。

=2014/01/17付 西日本新聞朝刊=



唐津城、異なる形状の本丸があった可能性も

 唐津市教育委員会は16日、唐津城天守台の石垣の下から、積み上げ方が異なる古い石垣が見つかったと発表した。唐津藩初代藩主・寺沢広高による江戸時代初期の築城(1602~08年)より前の石垣で、朝鮮出兵の文禄・慶長の役(1592~98年)ごろに、現在の唐津城とは異なる形状の本丸を持つ城があった可能性が高いとして、市教委は調査を進めていく。

 見つかった旧石垣は天守台南側の石垣の下に埋もれており、発掘調査で長さ10メートル、高さ1・5メートルの範囲で確認した。現在の石垣は石工が加工した割石が使われており、傾斜は77度。一方、旧石垣は自然石が積まれ、傾斜は64度とやや緩やかになっている。

 2年前に発見された天守台周辺の2カ所の石垣とほぼ同時期のものとみられ、これらの石垣を結ぶ線が旧本丸の輪郭とみられる。市教委は石垣修復工事と並行して2019年度まで実施する発掘調査で、旧本丸の全体像を把握したい考え。

 天守台周辺の旧石垣の近くからは、これまでに豊臣秀吉が好んで使ったとされる金箔(ぱく)瓦の破片も出土しており、朝鮮出兵の拠点となった名護屋城の後詰めの城として、唐津に豊臣政権の城が造られた可能性も指摘されている。

 市教委は「唐津城築城の状況を知る上で重要な発見。旧石垣の構築年代、さらには天守台石垣の年代の解明につなげていきたい」としている。

 市教委は19日午前11時からと午後2時からの2回、一般向けの現地説明会を開く。問い合わせは市教委生涯学習文化財課、電話0955(72)9171へ。

2014年01月17日更新  佐賀新聞
 
 
 唐津城の石垣下から古い石垣 市教委発見
 急速な築城技術の発展示す


唐津城跡(唐津市東城内)の発掘調査を行っている唐津市教育委員会は16日、現存する天守台の石垣の下から異なる石積みの石垣が見つかったと発表した。天守台のものより古い工法の積み方で、市教委は「古い石垣を基礎にして新しいものを築くのは全国的にも珍しい」と説明している。

 市教委は2008年から、築城から400年を経過した唐津城の石垣をいったん解体して積み直す修復工事を行い、周辺の発掘調査も実施している。

 市教委によると、古い石垣は、地下約1メートルのところで見つかった。加工した石材を積み上げた現存の石垣と異なり、運ばれてきた自然石をそのまま積んだ「野面(のづら)積み」と呼ばれる工法だった。土台の役割を果たしていたとみられ、築城が始まったとされる1602年前後に築かれたと考えられている。

 豊臣秀吉が朝鮮半島を攻めた文禄・慶長の役(1592~98年)時の名護屋城(同市鎮西町)築城の際には、全国の大名が集められており、市教委は「様々な情報交換が行われ、築城技術が急速に発展するきっかけになったと考えられる」とし、今回、新旧の石垣の発見から、唐津城完成(1608年)までのわずかな期間に造営の技術が急速に発展したことがうかがえるという。

 市教委は19日の午前11時と午後2時、発掘現場で一般向けの現地説明会を開く。参加無料。問い合わせは市教委生涯学習文化財課(0955・72・9171)へ。

(2014年1月17日  読売新聞)
 
 
唐津城の旧石垣公開 ファン200人が見学

 天守台下から旧石垣が見つかった唐津城で19日、一般向けの現地見学会があった。歴史ファン約200人が訪れ、唐津城築城の謎を探ろうと熱心に写真を撮ったり、市教委担当者の説明に耳を傾けていた。

 唐津城は江戸初期(1602-08年)に造られたという古文書が残っているが、後世書かれたもので、正確な年代についてはまだ研究が続いている。今回、見つかったのは、さらに古い年代の石垣で、豊臣政権の城が唐津にあったのかどうか、見学者たちは質問を重ねていた。

 「塚崎・唐津往還を歩く会」の活動を通じ、「太閤道」も歩いている馬場良平さん(63)=武雄市=は「やはり気になるのは名護屋城との関係。旧石垣の城はいつできたのか、秀吉がどう関わったのか、歴史のロマンを感じる」と話していた。

 大分県の玖珠町教委の野口典良さん(37)は、地元の角牟礼城跡の石垣修復に関わっているだけに「石垣の下に旧石垣というのはとても興味深い。うちの城も文禄・慶長の役ごろに整備された城で、同時代の唐津城の調査を関心を持って見守っていきたい」と語った。


2014年01月20日更新 佐賀新聞
 
 

唐津城天守閣改修へ 利用者目線で施設整備

開館50年 UD導入、朱印状など展示

2016年03月10日 10時50分 佐賀新聞

 唐津市は、今年で開館50周年を迎える唐津城天守閣の改修に乗り出す。「舞鶴城」とも呼ばれる美しい姿は、多くの観光客が訪れる唐津のシンボルとして親しまれているが、老朽化や展示の画一化など課題も浮き彫りになっていた。50年の節目を機に利用者目線で施設整備を進め、観光唐津の拠点として魅力アップにつなげたい考えだ。

 唐津城は豊臣秀吉の家臣、寺沢広高が1608年、7年の歳月をかけて完成させたと伝わる。実際には存在しなかった天守閣ができたのは1966年。唐津観光の中心施設にしようと当時の金子道雄市長が建設方針を打ち出し、市の年間予算の1割を超す総工費1億5千万円をかけて完成させた。

◇入場者が増加

 天守閣への入場者は例年10万人程度だったが、歴史ブームや海外観光客の増加を追い風に昨年は約13万人に増えた。一方で、「展示が何年も変わらない」「車いすでは利用できない」という声も寄せられていた。市は2013年度に策定した改修の基本計画に沿って本年度までに耐震補強工事を終え、新年度から2年計画で改修を始める。総事業費は4億1200万円で、3月議会に予算案を提出している。

 改修のコンセプトは「古くなった展示テーマを更新する」「唐津観光へのまち歩きを誘う」「ユニバーサルデザイン(UD)を導入する」の3点。地下1階から5階まですべてに手を入れる。

◇ストーリー性

 城の内部は、刀剣やよろい、唐津焼などが並ぶ郷土資料館としての役割も果たしている。だが、空調設備がない上、開館当時からの古い展示ケースは日光の影響を直接受け、展示物の傷みにもつながる。「環境が悪く、展示したくてもできないものも多かった」と市観光課はいう。

 改修計画では1~3階に空調設備を設け、温度や湿度管理に適した展示ケースに刷新し、豊臣秀吉の朱印状や中里家から寄贈された唐津焼の銘品なども並べる予定。来場者の興味を引くよう展示内容にストーリー性を持たせ、展示品の入れ替えも行う。

 1階の案内や5階の展望所から見える市内観光名所の解説は多言語化する。多目的トイレや授乳室を新設する。天守閣内はスペースが狭いためエレベーター設置は見送る方針だが、高齢者や身障者が車いすのまま楽しめるよう可搬型の階段昇降機を導入する。

 市観光課は「唐津観光の起点として、唐津城からまちを周遊する流れをつくることができれば」と期待する。


唐津城 謎多き城
 虹の松原を見下ろす小高い山にそびえる唐津城(佐賀県唐津市)。唐津藩初代藩主の寺沢広高によって江戸時代初頭に築かれたというのが通説だが、最近の調査によって豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592~98年)の拠点となった名護屋城(唐津市鎮西町)後方の備えとして造られた可能性が浮上した。城の石垣をキーワードに、築城の謎に迫る。
      (下村佳史)

旧石垣 築城年代の定説覆す?
 「築いた様子を記した文献が残っていない。このため築城年代すらはっきりせず、謎の多い城。それが、石垣の発掘調査で解き明かされつつあります」。こう語るのは、唐津市教育委員会生涯学習文化財課の坂井清春さん(40)。劣化した石垣を解体して再築する事業が2008年度から始まったのに伴い、石垣の調査を担当している。
 文献が伝わっていないのは、寺沢氏が2代で断絶したからだ。このため、築城年代を知るよすがとなっていたのは、寺沢時代から200年もたった幕末の庄屋の文書。地元の伝承を基に築城を1602~08年とする記述があり、これが定説となった。
 ところが、天守台の石垣周辺を掘り下げたところ、もっと古い時代の技術で積んだ旧石垣が3カ所で見つかった。

金箔瓦 朝鮮出兵の秀吉後陣?
 2011年に長さ約6㍍にわたって確認された旧石垣の調査では、裏側の盛り土から金箔瓦の破片4点が出土した。これは、この旧石垣ができる以前に金箔瓦を使った重要な建物が存在していたことを意味する。
 金箔瓦は、秀吉が権力を誇示するために名護屋城で使っていた。「朝鮮出兵のとき、秀吉は名護屋城の前衛となる城を壱岐や対馬に構えていました。唐津城も同様に、連携
する後詰めの城として建てられたとも考えられます」と坂井さんは解説する。
 天守台の石垣は、くさび状の道具を使ってほぼ同じ大きさに整えた割石を使っているが、旧石垣は加工していない自然石だった。石垣の勾配を緩く築いている特徴からも、名護屋城築城が始まった1591年までさかのぼる想定ができるという。

天守台 「関ヶ原」後に大改造?

 もう一つ、注目を集めた発掘成果がある。2014年に、天守台石垣の土台に当たる場所から見つかった旧石垣だ。基礎として旧石垣の一部を利用し、新たに天守台の石垣を上部に築くという大改造をしていたことが判明した。
 天守台の隅角部(コーナー)は、ノミで削って形を整えた横長の石を用い、井桁のように長辺と短辺を交互に積み上げる「算木(さんぎ)積み」という技法を採用している。これは全国各地の大名たちが、大規模な城を築いた慶長年間後半(1605~15年)以降に見られるもので、大改造もこの時代に行われたと考えられる。
 坂井さんは「関ケ原の戦いの後も、徳川と豊臣の二大勢力が張り合っていた時代。再び大きな戦乱があるのではないかとみて、寺沢氏も他の大名と同様、城を強固にして軍事力を高めていったと思われます」と推察する。石垣再築に伴う調査は2019年度まで続く予定だ。

2016年3月19日 西日本新聞夕刊
 

唐津城と城ブーム

天守閣50年機に磨き上げを

2016年08月11日 07時03分 佐賀新聞

 昨今、城がブームという。歴史ファンというと中高年男性が主だったが、ゲームやアニメをきっかけに戦国武将や歴史に興味を持つ若者、女性が増え、私たちが欧州の古城に引かれるように、訪日外国人客が日本の城に足を運ぶ。

 戦国期の築城ラッシュから400年前後の時期にあたり、姫路城をはじめ各地で修復や記念行事が行われ、さらには社会を覆う閉塞(へいそく)感が懐古的な歴史ブームを招いているという分析もある。

 県内でも唐津城の入場者が増えている。2012年度は10万7千人台だったが、14年度は13万人に増えた。昨年度は耐震工事のため11月以降、無料開放したこともあって約16万人となった。

 インバウンド効果も顕著だ。入場者のうち外国人が占める割合は14年度後半は3・8%だったが、昨年度は7・8%に増え、本年度は7月までで14%を超えた。

 唐津城の天守閣は1966(昭和41)年10月に完成した。もともと天守閣はなかったが、天守台跡に「観光施設」として慶長様式の5層5階の天守閣を建設した。

 当時、唐津市は財政再建団体から脱却したばかりで、年間予算の1割を超える1億5千万円の総工費をめぐって反対運動が起き、歴史家からも「史実に反する」と疑問の声が上がった。

 曲折を経て天守閣が完成し、今年で50年。今では観光唐津を象徴するランドマークとなった。

 北部九州には天守閣がそびえる城は少ない。小倉城も周辺はビルが建ち並ぶ。博多港に寄港したクルーズ船客や外国人旅行者は城下町のたたずまいを求めて唐津を訪れる。国内クルーズ船受け入れ体制が整った唐津東港は、唐津城を臨む眺望がセールスポイントだ。

 そうした追い風の中で開館50周年事業として10月1日、記念式典を行い、天守閣の改修工事に入る。老朽化した展示ケースを改修し、デジタル機器を活用した案内設備を整える。併せて可搬型の階段昇降機の導入など高齢者や身障者も見学しやすいようにする。

 天守閣は資料館を兼ねるが、唐津焼中堅作家が「展示内容は高校時代から変わらない」と言うように、古めかしく、代わり映えしない。駐車場とエレベーターを使うと、入館料と合わせ3回、料金を払うことになる。観光においてホスピタリティー(もてなし)が重視される今、磨き上げが必要だ。

 熊本では地震で被災した熊本城の再建が復興の象徴となっている。古来、為政者は権威と力を見せつけるため高い建物を建てたが、それがいつしか、人々の心のよりどころとなり、まちづくりのシンボルとなった。

 唐津の旧城下にそびえる天守閣が日常の風景となって半世紀。伝統に立った創意を観光諸施策に受け継いでいきたい。(吉木正彦)

 
 

唐津城大手門の遺構を確認 江戸期礎石を発見

2016年08月30日 09時40分 佐賀新聞

 唐津市教育委員会は29日、唐津城の本丸大手門の遺構を初めて確認したと発表した。現代の模擬櫓門(やぐらもん)の礎石の間から江戸時代の礎石などを見つけた。具体的な櫓門の状況が明らかになり、江戸時代の唐津城の姿を把握する上で重要な発見としている。

 本丸大手門は城跡の中段広場(二ノ曲輪(くるわ))から本丸へ上がる階段状の通路にある。本丸につながる最後の門で、通路両側の石垣(櫓台)の上に櫓を通し、1966(昭和41)年に模擬櫓門が建てられていた。

 見つかった門礎石(110センチ×60センチ)は1個で厚みは30センチ。花こう岩で上面が平らになっている。両側の石垣に沿って3個ずつ計6個据えられていたとみられるが、現代の門礎石と配置が重なるなどして、5個は除去されたと考えられる。このほか、東西両側の櫓台も検出し、江戸中期の絵図に描かれている櫓門による大手門遺構とした。

 想定される大手門の大きさは南北6・1メートル、東西18・8メートルとされる。模擬櫓門は平面で逆L字型になっていたが、東側の櫓台の平面形状は定かでない。市教委は「具体的な門の範囲など現在と少し違う。今回の成果も踏まえ、どんな形で残していくか、今後検討していく」と語る。

 市教委は9月4日午前11時と午後2時からの2回、一般向けの現地説明会を開く。問い合わせは市教委生涯学習文化財課、電話0955(72)9171へ。

 
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