唐津軌道物語

ある日、一枚の写真が送られてきました。
唐津軌道に関するものでした。

以下は当店の掲示板から引っ張ってきました。


唐津軌道時代の石油発動機客車?  投稿者:山内薬局投稿日:2008/03/22(Sat) 23:29No.1068   HomePage


町は築城400年祭で浮かれている最中、こんな画像が送られてきました。

拝啓、唐津の歴史のHPを拝見した者です。
英国にお住まいの*****氏より、別添の写真を送ってもらいましたが、これは唐津軌道時代の石油発動機客車だと思われます。ご確認いただければ幸いです。
千葉県浦安市***** ** 篤

皆さん如何でしょうか?

松代松太郎著「唐津松浦潟」には次のように記してあります。

◇軌道
 東は濱崎より、虹の松原を樅貫して、三百六十間の松浦橋と同じ長さの橋で松浦川を横ぎり、唐津町、西唐津を経て佐志に達す。此の間三里強を走つてゐるのが唐津軌道車ある。擾音(ぜふおん)をたてゝ往来するのも余り好い感じもせぬので、遠からず電車として生れ変ることゝなつてゐる。

と言うことは写真の背景は佐志の可能性が。
皆様、如何でしょうか。

他に唐津軌道の写真があればこの客車との比較が出来るのですが。





Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/03/23(Sun) 00:09No.1069   HomePage

この客車ともちょっと違うようですが、・・・・・。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/03/23(Sun) 00:12No.1070   HomePage

これも違う!



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/03/23(Sun) 10:33No.1071   HomePage

明治大正の唐津より

馬鉄に始った交通機関

 交通戦争の波は唐津にも押寄せて、道路は人と車とのラッシュである。その交通の中軸をなす昭和バスが創立三十周年を迎えた今日半世紀前の唐津の有様を思い出すのも一つの興味であろう。半世紀と云えば明治の末頃から大正の始め頃、満島鉄道の出来た当時にさかのぼって見よう。

 明治も半ば頃までは、唐津と満島との連絡は、唐津側の新堀から満島の大正町東端の間を結ぶ渡船だけにたよっていたが、明治二十九年二月に至って附近関係町村有志の申し合せで松浦橋と云うのが竣工し渡橋賃を取り、従来の渡船は廃止された。面白いのは此の橋が計画されている時、満島側の一部の人々に、此の広い川に橋を掛けるのは危険だという反対運動さえあったという。然し大勢は架橋に協力して漸く出来上ったということ、今日からでは一つの笑い話の種である。

 それから間もなく、草場猪之吉、山崎常蔵、平松定兵衛、佐久間退三の四氏で満島馬車鉄道合資会社が設立された。 資本金三万五千円、三十二年六月に線路敷設許可を得て、直ちに満島松原口から浜崎入口までの線路工事に着手、三十三年六月から開通した。その当時の記録によると軌道敷設費が一万八千九百余円、客車五輌三千七百五十円、貨車一輌一千二百円、それから車を曳く馬匹費が六頭で百八十円、即ち一頭三十円で乗車賃が全線上等並等を平均して全区一人四銭、貨物運賃が百封度当り一銭五厘という。今の人たちでは想像もつかぬ値段であった。

 その後資本金を七万円に増額し、三十四年四月松浦橋を二万円で買収し軌条を橋上に架設して唐津の船宮に続いて三十六年に大手口まで延長した。ところが四十二年十月一日午後一時のことである。風雨もはげしくない晴れた日突如として橋梁全部が川の中に墜落して、通行人死者二名、負傷者数名を出すという大惨事が起った。ちょうど其の直前、客車を曳いて橋の袂まで来ていた馬車の馬が突然停止して動かず馭者があせって鞭で強打して前進を促したが、馬はどうしても動かず、そうこうする内に、突然橋梁が落ちたのである。

 乗客一同奇蹟的な命拾いをした。今でも時に聞く科学に超越した動物の勘というのであろう。この災禍のため、馬車鉄道は満島側と唐津側とに中断され、橋の部分を渡船で連絡することとした。然し県で橋の復旧に着手、橋脚は馬車会社と共同して練瓦作りの永久的な計画として、軌道は西側を県道と並行して、ここに再び全線一貫した運行を見ることとなった。

 然し会社では此の機会に馬匹を廃して軌道を使用することとし、最初は石油発動機を併用したが、あれやこれやの災厄で出費が多く経営が甚だ困難となったので、新らたに唐津軌道株式会社が創立された。資本金五十万円、払い込み十二万五千円で、社長に松永安左エ門、重役に大島小太郎、草場猪之吉の他、福岡方面から数名、満島馬車を吸収合併し、馬車運行を全廃して石油発動機のみとした。

 更に大正二年十月九州電灯鉄道株式会社に合流した其の当時の乗客一カ月平均一万四千人位であった。九州電鉄では直ちに重量軌条と架設取替えに着手、又大正四年から工藤式と称する新規汽動車二台を購入して漸次客車を取替えると共に軌条の西唐津延長に着工、朝日町近松座の南あたりから、県道より南にはずれて高架線を架設し、双子入口で国鉄唐津線の上を立体交叉して西唐津に達した。大正五年十月であった。引続き佐志唐房の入口に達した全長約十五キロ、浜崎から佐志までを連結することとなった。成績は頗る良好であった。ところが大正半ば頃になると、一般に自動車の定期営業が数々おこって来た。

 九電鉄でも此の大勢に応じて、小型パスの運行をはじめ、汽動車と併行していたが、昭和三年春、軌条全部を撤去してバス一本となした。

 之れが満島馬鉄にはじまる唐津市内縦貫軌条の最後であった。其頃から後の交通状況は、大概の人が知っているだろうから、之で筆をおく。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/03/23(Sun) 10:45No.1072   HomePage


確か馬鉄の写真があったと思いまして。

二軒茶屋 松屋前の馬鉄と人力車です。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/04/02(Wed) 14:03No.1083   HomePage


「明治大正の唐津」より

西唐津延長に着工、朝日町近松座の南あたりから、県道より南にはずれて高架線を架設し、双子入口で国鉄唐津線の上を立体交叉して西唐津に達した。

ということは、朝日町の今じゃんなっとるかな〜

ここでgoogleマップを登場させましょう。
検索 唐津市朝日町 横尾 で検索してください。

こちらはYahoo地図
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=33.44927194&lon=129.964675&...

出てきた出てきた

最近角に焼鳥屋のできとるごたるばってん、そこば斜めに入っていって細か路地ばまっすぐ延ばしたらカトリック幼稚園の北側に出る。更に延ばしたら江の尻川に到達。
その上を川に沿って進むと唐津線が見えてくる。
勿論当時唐津線は高架ではない。唐津軌道の高架を唐津線がくぐっていく。
更にその先、現在の高架下を二タ子に出る細い道に繋がるではありませんか。

何かあの辺りで牢屋の塀みたいなのが残っていたように記憶するが、あれが唐津軌道の橋脚だったのか。

で、その先は再び国道を軌道が走るというわけです。

画像:大正15年の地図ですが、これではよくわかりません。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/04/02(Wed) 19:48No.1084   HomePage


二タ子の唐津軌道
赤の点線で書いてみました。

牢獄の壁みたいな橋脚が未だに残っているとも聞きます。
どの辺りでしょうか?



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/04/05(Sat) 16:29No.1085   HomePage


湊に用事がありまして、帰りに問題の場所の撮影が出来ました。
先ずは二タ子の橋脚跡です。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/04/05(Sat) 16:31No.1086   HomePage


この橋脚跡を通過させた場合の軌道予測図です。
これを真っ直ぐ延ばすと国道日赤前の交差点に出てきます。

東側の朝日町から国道を反れて入り込み、唐津線をまたいで、そこを頂点とすれば、勾配を考えるとやはり西側にもそれだけの距離が必要だと思われます。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/04/05(Sat) 16:41No.1087   HomePage


そして問題の写真です。
唐房入口
歩道橋の上から撮りました。

トラックの向こう側の空き地が昭和バスの待機場所。
ここが問題の写真の唐津軌道の機関区ではないかと思われます。
いかがでしょうか。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/04/05(Sat) 17:34No.1088   HomePage


大手口の軌道が見えます。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/04/05(Sat) 17:35No.1089   HomePage


もうひとつ



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/04/07(Mon) 11:58No.1091   HomePage

写真提供者からメールが届きました。

拝復、お送りしました写真は英国の鉄道研究家の@@@@@@@氏から送られてきたもので、写真の表題が"JAPAN KARATSU TRAM"となっていましたので、唐津軌道時代に導入された石油発動機客車ではないかと思い、問い合わせさせて頂きました。

写真そのものは絵葉書からの複製かと思います。ただ、気になりますのは、給水桶と思われる構造物が背後にあること、車輪のところにクランクとシリンダー、連接棒らしきものが写っていること、運転席のところにあるのは縦型ボイラーらしく見えること、煙突が石油発動機の排気としては太いことから、これは石油発動機客車ではなく、蒸気動客車である可能性があり、そうなれば、馬車鉄道から石油発動機に動力を変更させた唐津軌道の写真ではないということになります。いずれにせよ、専門の方々の鑑定に期待したいと存じます。


「明治大正の唐津」によれば
会社では此の機会に馬匹を廃して軌道を使用することとし、最初は石油発動機を併用したが、あれやこれやの災厄で出費が多く経営が甚だ困難となったので、新らたに唐津軌道株式会社が創立された。資本金五十万円、払い込み十二万五千円で、社長に松永安左エ門、重役に大島小太郎、草場猪之吉の他、福岡方面から数名、満島馬車を吸収合併し、馬車運行を全廃して石油発動機のみとした。

ここで「蒸気動客車」が登場しませんね。
私も問題の写真の給水桶が気になっていました。
さて、謎は深まるばかりです。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/04/11(Fri) 23:18No.1094   HomePage

唐津軌道で検索しましたら
唐津軌道の蒸気動車にヒットしました。
http://www2.biglobe.ne.jp/~inaba/siryou.html
唐津軌道の蒸気動車 吉川 文夫 83/7(31) 49(209)-50(210)

http://www.railhobbies.com/tsiryou.html
1248031 鉄道史料 031 1983 08 地方鉄道14・木造客車・私鉄めぐり2−京阪・唐津軌道の蒸気動車・鉄道施設24転車台・南満州鉄道鉱業部の電気機関車/撫順炭鉱87t組立図
B \5500

ということは石油発動機客車だけではなく蒸気動車も存在していたのではないかと思われます。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/04/12(Sat) 21:22No.1095   HomePage


ということで
唐房入口の様子を対比してみました。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  ゲテ物ハンター-2008/04/24(Thu) 23:22No.1105  

 初めまして、蒸気動車の事をWebで検索していて寄らしてもらいました。
 最近刊行されました「日本の蒸気動車(下)湯口 徹 著」という冊子に唐津鉄道の蒸気動車が載っています。
 1915年から計7輌の直立形水平火菅式ボイラーの工藤式軽便汽動車を大阪の市川克三商店より購入したが沿線住民の反対請願などで県からの使用認可は1917年に降りた様です。
 問題の写真の車輌は、山内薬局さんの観察の通り石油発動機動車ではなく蒸気動車の方と考えて間違いなさそうです。
 但し、上記の冊子に掲載の新製時(?)の写真と比較すると側窓の数が違ったりしているなど外見に若干の相違がみられますが後に改造された可能性もありますので否定の材料にはならないでしょう。
 また同冊子の巻末に松浦橋を行く蒸気動車の絵葉書も載っていました。
 冊子以外でこの希少な蒸気動車の画像に巡り遇えるとは驚きです。



Re: 唐津軌道時代の石油発動機客...  山内薬局-2008/05/01(Thu) 18:35No.1111   HomePage

ゲテ物ハンターさん
情報ありがとうございました。
早速写真の依頼人に連絡しましたら、早速「日本の蒸気動車(下)湯口徹著」を入手され、関連の部分をスキャナーして送って下さいました。

工藤式軽便汽動車
是に間違いないようです。


2008.4.12 メール

山内薬局様、
拝復、
ご指摘のように唐津軌道には蒸気動車も存在していたようで、そうなりますとお送りした画像は唐津軌道の蒸気動車である可能性が非常に高いことになります。画像の背景の山並みなど、現在と比較してみて合致するところがありそうか、お教えください。吉川文夫氏の「唐津軌道の蒸気動車」が極めて有力な資料となりますが、残念ながら私の手元にはありません。本件に関しましては引き続き頭に入れて調査機会を模索していきたいと思います。今後ともよろしくお願いします。


2008.4.25

うちの掲示板に次のような書き込みがございました。
 
初めまして、蒸気動車の事をWebで検索していて寄らしてもらいました。
 最近刊行されました「日本の蒸気動車(下)湯口 徹 著」という冊子に唐津鉄道の蒸気動車が載っています。
 1915年から計7輌の直立形水平火菅式ボイラーの工藤式軽便汽動車を大阪の市川克三商店より購入したが沿線住民の反対請願などで県からの使用認可は1917年に降りた様です。
 問題の写真の車輌は、山内薬局さんの観察の通り石油発動機動車ではなく蒸気動車の方と考えて間違いなさそうです。
 但し、上記の冊子に掲載の新製時(?)の写真と比較すると側窓の数が違ったりしているなど外見に若干の相違がみられますが後に改造された可能性もありますので否定の材料にはならないでしょう。
 また同冊子の巻末に松浦橋を行く蒸気動車の絵葉書も載っていました。
 冊子以外でこの希少な蒸気動車の画像に巡り遇えるとは驚きです。
 
 
 
「日本の蒸気動車(下)湯口 徹 著」を確認しておりませんが、貴重な手掛かりかと思います。
ご報告まで。


2008.4.26

山内薬局様、
御連絡をありがとうございました。RMライブラリーの「日本の蒸気動車(下)」については入手可能ですので、早速みてみたいと思います。いずれにせよ、1911年に唐津軌道が設立された以降に馬匹に代わって石油発動機動車が導入されたものの、どうやら九州電灯時代には蒸気動車が導入されたようです。これが石井忠夫氏のいう「工藤式」新規汽動車のことなのでしょう。これで謎がほぼ解消したような感じがします。引き続き、唐津軌道の蒸気動車については注意していきたいと思います。英国の*******氏には、「日本の蒸気動車(下)」の記載も踏まえて、今まで判明した内容を連絡しておきたいと思います。



2008.4.30

山内薬局様、
 
RMライブラリー103、104の湯口徹著「日本の蒸気動車(上)(下)」を入手しましたので、唐津軌道関係のページのみをスキャンして添付します。

以下はRMライブラリー103、104の湯口徹著「日本の蒸気動車(上)(下)」より





3−20.九州電燈鉄道→東邦電力

 軌問は当初762mmを予定した*1由だが1067mm、
1900年6月11日満島馬車鉄道(合資会社)として開業。
1911年10月11日唐津軌道に譲渡、1913年11月25日九州電燈鉄道に譲渡され動力瓦斯*2に蒸気を加え、1922年5月17日関西電気に合併。同年6月30日東邦電力に社名を変更したが、その後も一般的に唐津軌道(線)と称し、最大7哩10鎖(11.5km)の延長距離を有した。松浦湾に面した虹ノ松原は名高い景勝地である。
 1907年5月16日許可で福岡鐵工所(福岡駒吉・大阪難波)製の石油発動車を馬車に併用しており、1915年以降市川克三商店発売、直立形水平火管式ボイラーの工藤式軽便汽動車を導入した。2軸シングルドライバーの工藤式軽便汽動車が一般鉄軌道で旅客営業に従事した例は、他に篠山軽便鉄道(密閉車体)のみだが、この軌道では1929年度まで第一号〜第七号の7輌*3、1930年度4輌に減少している。製造は北村鐵工所と考えられる(→上巻2−8.参照)。
 1917年7月18日付佐賀県知事発、総理・内務大臣宛「汽動車使用認可ノ件」は次の通り。
 「九州電橙鉄道会社唐津汽動車構造二係ル当庁稟伺ニ対シ本年五月三十一日監第九三九号ヲ以テ御指令相成候ニ付会社ニ対シ右構造ノ件認可ヲ与ヘ置キ候処今般右汽動車使用願出候ニ付検査ヲ遂クルニ各車輌共構造仕様書ノ通完成シ附属品二至ル迄不都合無之(これなく)本月十一日使用認可候条此段及報告候也」
 これからは1917年7月11日認可で使用開始と読めるが、1915年5月17日「蒸汽動力併用願」では「最初弐輌ヲ製作シ実地ニ試用ノ上其適当卜認メタル時ハ全部本動力ニ改ム」。同年9月18日満鳥−浜崎同で試運転、12月10日「佐志延長線内西唐津裏線調書」は「車輌弐台ハ已ニ完成」、認可1年半前に就役*5していた。認可の遅れは 一部道路拡幅(買収)難航で最終土地収用、住民の反対請願*6などが原因である。
 1916年12月1日「汽動車構造変更認可申請書*7」での2輌は客室扉を開き戸から引き戸に、機関室と客室の仕切りに左右2個の丸窓(中央に小型姿見つき)を設け、デッキ後部に「簡易ナル手荷物用網枠」を設置し、車体外荷台として瓦斯倫動車*8にはるか先立つ事例である。それ以外は既認可と同一とするが、組立図*9ではホイルペース5−6”、定員22(内座席14)人。客室、機関室とも若干伸びて車体実長16−8 1/2"。伝熱面積も34.54平方呎から51.853平方呎に増加=それだけボイラーが大きくなった。
 第42回営業報告書(1916年12月〜17年5月)では車輌総数11(対前期1輌増加)、運転車輌数各月215〜281回、同哩数9,333〜14,663哩、乗車人員32,933〜49,052人とある。1日当りでは1,111人〜1,582人。
 1926年4月19日「軌道機罐車ハ逆行運転不可能ナルヲ以テ約一里先ノ終点濱崎迄運転セザレバ引返スコトヲ得ス其不便多大」として工事方法変更を申請し、9月13日認可。「北九州鉄道東唐津駅開業(前年6月15日)により、同駅前で引き返せるよう転車台を設けている。
 営業報告書では「機罐車」「汽動車」「汽動車」「発動車」等が混在し、「軌道機罐車」は軽便汽動車および石油発動車の両方を指すかのようだが、統計でも車種分類が不明確で汽動車・発動車を蒸気機関車と誤認、あるいは重複認識した報告もある。
 なお汽動車、発動車とも双方向に走行できるが片運車とされ、終点では必ず転車台で転向し救助網も前方にしかなかった。その転車台木製(栗材)桁直径がたったの1.770mm*10なのが泣かせる。
 本来北九州鉄道開通で補償買収されるはずが、経営主体が大所帯であり、20分毎運行と便利で利用者が毎期(半年)30〜36万人程度。1928年以降毎期平均1,840円程度の赤字ながら存続し「諸般ノ施設ハ総テ著シク老朽、特ニ松浦川橋梁(302間)危険」として1929年9月6日許可、1930年11月28日廃止された。




*1 谷口良忠「肥筑線沿線地方の鉄軌道沿革史」鉄道ヒクトリアル417号.

*2 明治大正期軌道での石油発動車動力は「瓦斯」とされた   「帝同鉄道年鑑j(1928年5月)では 動力軌間馬力二呎六吋」と誤っているが「蒸汽7、瓦斯倫5」=蒸汽が軽便汽動車、瓦斯倫が石油発動車

*3 1917年3月10日「汽動車耕蔵認可申請追申」での「給水ポンプ及インゼクターノ種類」では1〜3号シャーウード複式.4、5号メトロポ(ママ)リタン単式、6.7号市川商店工業部特製メトロポリタン式.輌数だけなら播州→播丹鉄道と並ぶ

*4 りんし=官庁用語で「合議伺い文書」

*5 中川浩一「日本における蒸気動車の沿革」鉄道ビクトリアル256号

*6 煤烟・火災の危惧、石油発動車導入時上質石油からすぐ低質油を使った経緯等からの反対。1915年12月4日「蒸汽動力併用願ノ儀ニ付追申」では「無煙炭及骸炭(コークス)を燃料トスレトモ仝燃焼シ難キモノナルガ故燃焼不良ナアル時ハ誘燃焼補助トシテ流動燃料ヲ併用ス」。

*7 同書には、「大正5年7月21日付監第一〇六八号許可及大正五年十月六日付佐賀県指令保第六〇一七号使用許可ト同一ノモノ」とある。

*8 内燃動車事例では軌道は磐城炭礦円太郎バス改造車(1925年)地方鉄道では播丹鉄道(1928年)、正式の許可取得は長門鉄道キコハ10(1929年)

*9 図の6個窓は1917年5月12日付「誤記アリ訂正」で窓4個に、伝熱/火格子面積は51,853/1.97平方呎と拡大修正。図面日付の29th,Oct.5.は大正5(1916)年であろう。

*10 工藤式軽便汽動車ホイルベースは5-0/5-6(1,524/1,676mm)、石油発動車は3-9(1,143mm)


 2−8 工藤式軽便汽動車=市川克三商店発売車−1
  市川克三商店は大阪市西区江戸堀南通4丁目から1915年6月立売堀北通6丁目に移転。材料部(のち鉄材却)と工業部があるが本来商社で、小島栄次郎工業所と同様合資会社北村鐵工所/株式会社伊藤鐵工所と契約*1して自社工場と称していた。
 最初は大手が手を出さない実用新案「軽便汽動車」で、工藤兵治郎は欧州軽便鉄道での2軸蒸気動車を念頭に、より小型車を開発したと思われ1915年2月20日出願し6月19日登録された。ボイラーは超小型の縦型水管式で走り装置との固着はなく、実用新案登録請求の範囲要旨は次の通り。
 ボイラーの下部に鍔のような「取付版(ト)」を付し床の凹みにはめ込み固定*2し、抜き取る際は「緩衝梁(ヘ)」を外し、ボイラー下部に枕木等を入れて持ち上げ気味に支え、車体を反対側に押す。煙突にも途中に鍔と継ぎ目があり、上下が分離できる。機関妻部には「塵除板(ホ)」を付して妻下部とする。
 鉄道時報1915年7月31日号「軽便汽動車の発明」は「若し汽罐に故障を生じたる際又は掃除する際容易に客車より分離すべき装置をなせば汽罐は取外して修繕をなす間に客車は別の汽罐を据付けて使用し得る」「大阪人工藤兵治郎氏は初めて之が実用新案の特許を得たり」。
 以前深川式車でのメーカー能書丸写しの反省か、「未だ実験を経ざるを以て其効果に就て批評を下す能はざるも又参考とするに足るべし」として、実用新案申請図を引用解説している。
 要は両オープンデッキのシングルドライバーで、蒸気機関だから双方向周一速度走行は可能だが、「営業運転ニ際シ後進運転装置ハ無シ線路ノ両終点ニ於テ転車台ヲ設置」「但シ構内ニ於テ換線機*3ノ場合ニ於ケル後進ハ機関室ニ於テナシ得*4」。使用気圧は大型車と同じ160封度/平方吋(11.2kg/cm2)、シリンダは33/4×7(95.25×177.8mm)とオモチャ*5のようなもので水槽は25ガロン(114l)。広告には「建転手兼火夫一名、車掌一名ニテ足ル」とある。



 九州電燈鉄道(通称唐津軌道)は1915年5月17日早々と2輌の試用を申請し、同年8月即日北村鐵工所(メーカーであろう)で軌間762mm試作車試運転が実施された。当時貧弱な大井川木橋(富士見仮構)に軌道を併設し、手押しでの人貨輸送実施寸前の藤相鉄道がこの車輌に着目し、同年10月9日「橋上のみ使用」を石油燃焼で申韻*6。
 しかし重量、ホイルペース*7に対し富士見仮橋耐久力不足、車輪フランジ厚が既設線路轍叉部に不適等で認可の見込みがなく11月27日取下げ。改めて藤枝新一大手間使用として申請し、これには支障がなかったが1916年3月17日再度取下げた。
 試作車は最終北海道の岸尾木材店運材軌道(留辺薬)に納まった*8とされ、以後の消息はわからない。結局一般旅客営業の軌道/鉄道に採用された「軽便汽動車」は後述九州電燈鉄道/篠山軽便鉄道(密閉車体)と、共に軌間は1067mm、総数8輌にとどまった。
 軌道用として定員が16/18(内座席12)人とは、1920年以降自動鐵道工業所(→日本鉄道事業)が発売した自動機客車の12人(立席なし)よりは大きい程度。
北九州地区3フィーターも主なターゲットに想定したと思われるが、主要軌道での蒸気機関車転換は大方終了済で供給タイミングがずれ、この時期新規需要開拓には小型に過ぎたのであろう。
 九州電燈鉄道採用車はボイラーが直立型水平火管式に変わり煙室扉も付き、ホイルベースが5−0(1,524mm)、全長も若干伸び、シリンダは同じ、水槽容量40ガロン(182l)。最終(であろう)の2輌はホイルペース、車体長が更に伸び、水槽も60ガロンであった(→3−20.参照)。
 市川克三商店は1915年1月〜翌年2月にかけ鉄道時報に軽便汽動車広告を10回以上掲載したが、他に売れた記録は得られない。また伊藤鐵工所製造の篠山軽便鐵道ハニキ3には市川商店は関与しなかったと思われるが、詳細はその項(一3−12.参照)に譲る。




*1 白井茂信「機関車の系譜図(3)」432頁。合資会社北村鐵工所は設立1911年4月、資本金10万円、鉄工業及加工作業、大阪市北区樋ノ口下町/株式会杜伊藤鐵工所は1918年2月、100(払込済25)万円、西区桜島町埋立地丙ノ1=銀行会社要録1920年版。

*2 ポイラーの台枠への装着法は川崎造船所製播州鉄道ロハキ1〜3の逆影響ではないか。

*3 人換の意味であろう。

*4 九州電燈鉄道1915年12月4日「蒸汽動力併用願ノ儀ニ付迫申」。

*5 豆相人車鉄道が動力変更に先立ち購入したボールドウィン製軌道機関車(2.7t)は41/2(鉄道時報1905年3月11日号。臼井茂信「機関車の系譜図」417頁では43/4)×10。

*6 臼井茂信「軽便鉄道機関車誌・静岡鉄道駿遠線(1)」鉄道ファン246号。

*7 市川克三商店最初の広告は写真がなく実用新案申請(側面)図、軌間2-6、定員16人、ホイルペース4-9、満載時重量3.72t、ボイラー水管式。藤相鉄道「工藤式軽便汽動車使用願」では5−0、4.3t=九州電燈鉄道と同じ18人乗りで、別車両である。

*8 小熊米雄「日本の森林鉄道(上巻)」。上記3.72tの試作水管式ポイラ一車であろうが、藤相鉄道が予定した4.3t車は製造さ  れなかったか、1067mm軌間に修正→九州電橙鉄道納品かは不詳。

吉川文夫「唐津軌道の蒸気動車」鉄道史料31号



工藤式軽便汽動車実用新案申請説明図。この図では煙室がないから水管式ボイラーなのであろう。

朝日町の気になるスポットです。


この焼き肉屋の左(南)の細い路地を唐津軌道は走っていました。



最後にまた掲示板に戻ります。
何と、上記冊子の著者湯口氏の書き込みがございました。
ご紹介します。

唐津軌道の蒸気動車  投稿者:湯口 徹投稿日:2008/05/17(Sat) 14:58No.1119
かなり以前になりましたが3月22日浦安市の篤さまご投稿の唐津軌道蒸気動車について、従前4個窓の写真しか見ておりませんでしたが、6個窓のものもあったことを知りました。拙著「日本の蒸気動車」(下)26頁掲載図面は6個窓ですが、大正5年12月1日付「汽動車構造変更認可申請」に添付されていたものと思われ、大正6年5月12日付「誤記アリ訂正」では「客室両側窓6個→4個」などとありました。
これらを考え合わせると、第二次、あるいは第三次増備の際6個窓車が1両または2両出現。最終増備の2両は6個窓車の図の寸法等を一部修正・後備荷物棚を付加などして提出したのではないかと推定しています。



これで大方のことは解決しました。
ネットのお陰です。
   

こんなものがありました。

大正15年4月に門司鐵道局が出したパンフレットに唐津軌道が描かれていました。     2009.4.1
 
 
    唐 津 案 内   (大正十五年四月)

 ▼舞鶴公国  ▼呼子港 ▼虹の松原 ▼名護屋城址
 ▼奇勝七ツ釜 ▼海水浴場

これハ九州松浦潟より出でたる僧にて候…謡曲…女郎花に名高い松浦潟は唐津附近海岸の総称である。唐津の町は此の松浦潟に沿ふて横に長く、松浦川を隔て萬松一路、白波の岸を走る、虹の松原に続く風光明媚の地、殊に海水浴の好適地として有名なところである。町は小笠原氏の舊城下、今人口一萬八千余、町の中央を唐津軌道が西から東に佐志から濱崎まで通じて居る。又東唐津(満島)から海岸に沿ふて前原を経て博多に至る北九州鐵道が通じて居る。
 此の地は単に風光の明媚、海水浴の好適地なるのみならず、舞鶴公園・虹の松原・近松寺・立神岩・七ツ釜・領布振山・佐用姫神社・名護屋城址等見るべき探るべき名勝史蹟が多い、神功皇后と豊太閤、佐用姫とそして巣林子、豊かな歴史の資料は、優美な風光と相俟って唐津の天地を詩化して居る。

▼旅館 新岩井屋(唐津駅より三町)博多屋(唐津駅前)松屋(唐津駅より二町)本家岩井屋(唐津駅より三町)晴芳館(唐津駅より二町)長崎屋(唐津駅より三町)
▼名産 松浦漬、雪丹、唐津焼、松露饅頭、唐津半紙


【海水浴場】 虹の松原海岸と西の濱海岸の二箇所に、脱衣場・淡水井戸・売店等設備の整ふた海水浴場がある。西の濱は唐津駅の北八丁、砂白く水清き、遠浅の海で数町の沖へ出ても危険の虞なく且つ眺望のよい場所である。
▼旅館 希望館、東潮湯あり、夏は自炊客に貸間する素人家も多い、土地不案内の人には町役場で貸家貸間の周旋をして居る。

【舞鶴公園】唐津駅の東十町、北九州鐵道線東唐津駅から西へ五町、松浦川の流れ緩に海に面したところに舊城址がある。此処が舞鶴公園で、葉櫻の交叉した間の石段を廻り廻りて登ると、そこからは山も海も町も村も一眸の裡に見渡され、眼下流るゝ松浦川を静かに上下する白帆や、其の河口に架けた三百余間の長橋を走る軌道が豆汽車の如く、丁度飛行機の上からでも見る様な眺めである。
右方二里の大弧形を画いて続く虹の松原が鶴の右翼に、西の松原が其の左翼に、湾内の鳥島(トリシマ)が頭となり、市街がその腹に髣髴して居るので、こゝを舞鶴城址又は舞鶴公園と称するのである。虹の松原の趣きも此処から挑むるのが最もよい、松原の翠緑に渚の白砂それに海面の水色を加へて、虹を地上に描いた様に、虹の松原の名亦之に因るのである。

【虹の松原】 唐津駅から東一里半、軌道約三十分、北九州鉄道線虹の松原駅所在地。舞鶴公園からは公園の下で渡船に乗り松浦川を渡り、花の廓の満島を通りぬけて行く、虹の松原は唐津の生命で仮りにこの松原を取り去るならば松浦潟の風光は龍を画いて眼を点ぜぬ死画の類である。満島から濱崎まで二里の間は教百年を経たる老松が、翠を連ねて幾萬株となく続いて居る、松林の中程、二軒茶屋と称するところに、数軒の茶店があって名物「松原おこし」を売って居る。
▼旅館 松林の中に梅濱院、岡崎屋、松屋、新茶屋等がある。夏季は海水浴客の為に多く満員勝ちである。

【領巾振山】 一名鏡山とも云ふ、虹の松原の後に聳ゑ、松浦佐用姫のロ一マンスを以て有名である。宣化帝の御宇=千四百年前=遣唐使大伴狭手彦、新羅征討の途次此処に滞留し、篠原長者の娘佐用姫と果敢なき恋を結び、復の逢瀬の記念に太刀と、鏡と、巻物とを残して、船出したのである。姫は想夫の念に堪へかねてこの山に登り、行く船しばし君待てと領巾(キヌ)うち振りて呼び止めたのであるが、船は止る由もないので山より飛び降りて其の跡を追ひ、五里の彼方、加部島に来て遂に力及ばず、やる瀬ない儚い恋に悶ゑ死んで、其の身は石と化したと、傳へられて居る。之が郎ち望夫石で加部島の田島神社の境内にある、祠を佐用姫神社と称へ其処に望夫石が祀られてある。
    ●蛤に鴻もつまづく鹽干かな【三千風】

【近松寺】 あの華やかな、元禄の文壇に、紅紫乱点の色彩を凝した浄瑠璃作家、巣林子近松門左衛門が幼時得道したところ、寺は唐津駅の北六丁西寺町に在る、元和年間、三百余年前寺澤氏の創建による南禪寺派の末寺、寺背に文豪の墓がある、香花常に新しく墓碑の銘に曰く、後遊京師変姓名弥近松門左衛門。以著作浄瑠璃為業。享保甲辰十一月二十二日卒於浪華。以遺言。帰葬於当時墓地。 (享保十乙巳年六月二十四日)

【西唐津】 唐津駅より鉄路一哩八分、唐津線の終端で、内外船舶の出入頻繁な輸出貿易港である。唐津駅の沿線に於ける石炭の多くは此の地に集り、 唐津炭の名を似て内外各地に輸出せられて居る。海岸に長崎税関支署及三井、三菱の支店や出張所などが建って居る。
波静なる日、船をやとうふて油のやうな海上を西に四里、神功皇后征韓の時、多くの守護神が集ひましたと言ふ、神集(カシワ)島、高さ十数丈の玄武岩より成る、立神(タテガミ)岩、神工鬼作の玄武岩洞の奇観・七ツ釜・燈台にて名ある。鷹島、遠くは、烏帽子島、又本邦捕鯨の創始地と傳へらるゝ、小川(ヲガワ)島、夕日に映ゆる尖塔の教會に敬虔なる佛人の宣教師によりて全島人が導かるゝ、馬渡(マダラ)島、水天髣髴の処に、壹岐、対島あり、船路の眺め飽くことなく、更に綸を垂れて行く行く小魚を漁らんか=沖膾箸の雫や淡路島=百年寿命が延びる様な思がする。

【七ツ釜】 唐津から海上約四里、神功皇后征韓の後、戦捷を祝ふて御酒を中軍に賜ひ、其の土器を此処に棄てられたるとかにて、土器(カワラケ)崎又は神崎(カウサキ)と言ふ。
 全岬悉く玄武岩より成りて断崖絶壁を為し、角形の石柱幾千萬となく恰も薪を束ねて績み上けた様に、累々として白波砕くる其の巌脚に.洞窟が七つ、竃を並べた如く列んで居る。因て之を七ツ釜と称するのである。
 風なき日は自由にこの洞窟に舟を漕ぎ入るゝことが出来る、夏季は毎年唐津から遊覧汽船が運航するが、湊(唐津の北二里二十五町)或は呼子(唐津の北三里十二町)から小舟をやとふて行くことも興多い。
 然し風のある日は波が高くて近寄ることが出来ないのみならず危険である。此処より海上一里にして玄界の要津、呼子の港がある。

【呼子港】 唐津港から陸路三里十二町、俥もあれば自働車もある。
 呼子湾の長く湾入せる処に在る、箱庭のやうな美しい港で、前に加部島を控へ名古屋と相対して居る、今人口六千余、漁業の盛んな処で又秋冬の季は捕鯨が盛んである、唐津の名産「松浦漬」は多くこゝに獲れた鯨の軟骨を粕漬としたものである。
 夏季は避暑を兼ねて史蹟を探る人、又は画材を蒐むる為に滞留の客が尠くない。
 ▼旅館 上方屋、其の他二三軒ある。
 此の地は又壹岐対島に最も近く壹岐まで僅に四時問、定期船が運航して居る。

【名護屋城祉】 呼子の西一衣の水を隔てた名古屋村に在る。舟で渡ると僅かに十数分間、渡場から石段を上って更に七、八丁行くと、千古颯々の響を傳ふる松林の中に「豊太閤征韓陣営之跡」と記された木標が建って居る。
 こゝが文禄年間=三百三十年前=豊太閤が征明討韓の行営を置いたところ、今点々として石壁残す礎石散在して、天下の大軍を集めた当時の偉大な勢力と、規模の雄大な俤を偲ばしむる。更に眼を放てば筑紫の島山を控へ、左に平戸半島を指し、前面近く渺波の裡に壹岐、対馬を遠く雲煙の彼方に霞む朝鮮を望むのである。
 天正の昔雉林八道を呑まん為に、豊公の陣営を此地に卜したことが三百年後の今日、荊棘長く延ぶるところに佇みて尚首肯されるのである。

  天正十年豊臣秀吉師を海外に出さんと謀り其冬西海諸侯に謀り城を名古屋に築き似て行営と為さしむ翌文禄元年四月秀吉名古屋に至る、諸軍海陸竝び會す凡五十萬人以て朝鮮に入らむ、八月秀吉大阪に帰る前田利家留まりて軍事を摂す凡我師の韓に在るもの七年、慶長三年八月秀吉薨す遺令徳川家康をして外師を班せしむ  −海東諸國記−

 ▼廣澤寺(クワウタクジ) 城址の麓に古色蒼然たる一寺がある。豊公の愛妾廣澤(ヒロザワ)の局が建立したもので其の庭内に豊公遺愛の蘇鐵がある当時加藤清正が朝鮮より持ち帰り公に献上したるものと傳へて居る。

【加部島】 呼子の前面に横はる俗塵を離れた神仙郷、島の東端に國幣中社田島神社があり、其の境内に「效忠貞之節」、の五学を扁額とせる佐用姫神社がある。夫恋しさに石に化したると傳へらる「望夫石」も亦此処にある。開帳を願ふと祝詞(ノリト)の聲厳かに扉が開かれて「望夫石」を拝観することが出来る。
  ●花を慕ふ ひれすかたかや舞ふ子蝶    【三千風】






 後日「唐津軌道」で検索しておりましたらこのようなサイトを発見。
見事に蒸気動車が復活しております。
http://homepage3.nifty.com/762mm/kousakusitsu1.html
 
   

 
玄海の轍 第2話 唐津軌道始末記(上) ‐ ニコニコ動画(原宿)

鉄道史シリーズ04の第2話(第1話sm14581430)は、唐津を中心に軌道運営を行っていたとある馬車鉄道に端を発する鉄道史の物語です。とある地域の発展を記念して発足した馬車鉄道会社が地域経済の発展と確執に巻き込まれ、成長する姿を追います。上下セットでご覧ください。なお、全編通しますと、約70分あります。お時間と心に余裕のある時にお楽しみください。
コメントやマイリスト登録いただけますと励みになります。
お詫び:最近動画作成が遅滞しており申し訳ない限りです。今後は身の丈に合った作品作りを心掛けたいと思います。加えて、ノイズが多少入っております。
あかつき3号鉄道動画 mylist/17354181


http://www.nicovideo.jp/watch/sm15532611
 

なかなか良く纏まっています。

歴史的背景も大変勉強になります。
根底には水火の争いが尾を引いていたと言うことですね。
 
 
制作されたあかつき3号さんに心から感謝する次第。 




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