唐津城築城四百年記念
「唐津城下Hi唐町人まつり」の当日、わが家は私一人。ブラブラさるくこともできず、生憎の雨、晴耕雨読と洒落込んで、古新聞の整理をしていたら、掘り出し物!

早速ネット化に着手しました。

読みづらい箇所、旧仮名遣い、旧漢字などは書き換えております。
 
平成20年3月23日

唐津築城と薩摩武士の墓(上)

                                   佐藤ドルメン翁稿

 神集島の湾内奥深き処、東西に亘り一の漁村がある。神集島小学校は村の西端烏帽子岳の麓にあり小学校より烏帽子岳に稍や上るところ一異彩を放ちたる無名の墳墓がある。石材は立派な花崗石で形は楕円形にして雨覆いあり一見常人の墓にあらざるを知る。

 是れぞ唐津築城に絡む悲烈愴烈なある薩摩武士の墳墓である。嗚呼人情紙の如き今日に於て逝きし物語を書くと云うことは、私の最も光栄とする処である。

 偖て唐津の城は今を去る三百二十四年前豊臣秀吉が逝去し、秀次が在世の頃慶長七年に工事を起こし夫れが十四年に竣工を告げたのである。偖て家康が征夷大将軍となられたのは慶長の八年である。唐津の城は豊臣時代から徳川時代にかけ七年間に亘りたるもので、その間世は豊臣から徳川に変わったのであるが此の工事が中止しなかったのは国家的事業であって、対支韓策のための築城で一城主たる寺沢志摩の守のために作ったものではないのである。一体此の工事は慶長七年からとしてあるが夫れは城を築き始めてからのことでその実秀吉が在世当時からの経営である。そうすると五六年前からのことになるのである。此の五六年間は石材を集むるために費されたる日子であろう。唐津の城がなんで国家的事業であるかと云うと、秀吉は朝鮮を征服して明の国まで攻め入ったが時に利あらず、碓往かず、遂に戦を引き返すことになったのである。それで後世彼れが復讐のため日本に攻め入った場合には唐津城を根拠として九州諸大名を督して防戦するために築城したものである。名古屋の城を見た人には能く判るであろう。名古屋の城は侵略的の意味であるから城郭を築くに当たり、土止め工事に石垣を築いたもので永久的に築いたものでないから、その材料の如きも至って貧弱なる石材を使用したるものである。唐津城は永久的即ち防衛のために築かれたのであるから最も宏壮に最も堅牢なるのである。此の意味からして名古屋が史蹟名勝の内に数えられるならば、唐津城も史蹟名勝の内に数えられるべきものである。

 偖て秀吉の朝鮮征伐は天正十九年に思ひ立たれ、翌文禄元年には名古屋に乗り込まれたので名古屋の城は僅か一年で出来たのであるが、唐津の城は七年もかかったのである。今日迄の記録伝説によって見れば唐津の城は、石材は名古屋から移したことになっているが名護屋城の石と唐津城との石は其の性質が全く違って居るのである。是れぞ薩摩武士が壮烈な最後を絡む因となるのである。




唐津築城と薩摩武士の墓(中)

 神集島と湊村との間に於ける海峡は丁度今日の関門海峡の如く、神集島の和に津は門司港の如くであった。一体湊と云うことは海峡と云うことである。由良の港明石の港等が夫れである。此の海峡が最も有功に能率を発揮したのは筑前太宰府に鎮西府を置かれ日支韓交通の盛んにあったまでで、豊太閤の朝鮮征伐時代には何も能率を発揮することが出来なかったのである。瀬戸内海よりして名護屋に下るには下関の福浦よりして順風一過直に名古屋湾に下ることが出来たのである。名古屋より上方に上るにもその通りである。上大阪と下薩摩との往復はその中間にある名護屋湾内呼子港を以て寄泊の地と定め呼子港を以て航海上の慰安所となしたるものである。此の呼子福浦間は順風を得ざるときは一ヶ月も滞在し居たるものであるが順風を得れば只だ一風にて目的地に達することを得るのである。

 神集島の最も殷盛を極めた時代は我々祖先の大陸より我邦に移動した当時である。其の証拠としては彼の神集島にドルメンがあり夫れに余が段々研究の結果ケールンもありストンサークルもありメンヒルが夫れを立証するものである。此の神集島が日支韓交通上有用しせられて居たことは支那の三国時代にも韓国よりして対馬壱岐末廬怡土奴国今の博多にして皆此の海峡を通過したるものであるが、寺沢志摩守が唐津に築城するに当たり八万石を領し、今の福岡県の怡土志摩の二郡を領するに当たり、怡土志摩海峡を埋築して田面となし博多に通ずる航通を杜絶し博多繁栄の一分を唐津城下に奪いたるものである。唐津は加羅津又韓津である。茲に於いて神集島は糸志摩海峡が全く杜絶すると同時に往時の殷盛を奪われたるものである。

 以上の如くであるから神集島に於ける薩摩武士の墳墓に絡まる烈士談は大阪城を築くための用材運搬の途中にあらずして唐津城を築くための用材運搬の途中である。是れ程沢山の石を何処から集めたるもので伝説にもなければ記録にもなく唐津市外和多田村の内、先大石と云う処があるので其処より運搬したるものであろうと云うものがあるが、唐津築城の用材は天守台を除く外皆ごろ石で割石でないのである。先大石の石は皆大石を割った跡方のある処より見れば皆割り石にして城郭の角々等の用材に使用したるものであろう。又鹿家方面の磯石でもなく是れだけの石が何処から来たのであるか夫れが判らんと云うのは遺憾の極みである。

 神集島の烈士の墓を大阪城に絡むと云うことも無理ならぬ話である。殊に唐津の史蹟が埋没して居るのは唐津築城以来六代も国主が代わっているので記録が伝わって居らないのである。是れに依って思い起こすのは余が研究である日本建国以来二千五百八十六年であるのに余が研究よりすればその二千五百余年間即ちドルメン時代があったと云うのである。(未完)


唐津築城と薩摩武士の墓(下)

 唐津城の石材については段々旧藩士中の古老に就いて取調べて見たこともあるが、少しも手掛かりがなく三宅吉蜀氏の談に身分不相応な城を似てた居た大名があったのであれにあんな大きな城を持たして於ては将来どんなことをするかも知れないと云うので取り崩されしその石材を移したものだと云うことである。

 それより考へて見ると城を崩す役目に当たった大名もあれば其の石材を運ぷ大名もあったものであろう。それにも多くな日子を費やしたものであろう。その石材が稍や集った処で城を築き始めたものでその時が丁度慶長七年からの工事となるので、その始め縄張りは秀吉在世の時からであろう。

 九州や諸大名が分担して此の工事をなし、其の証拠としては唐津小学校の前堀を肥後堀と云い唐津銀行のある処を柳堀と称へ柳河公の築いたものだと云うことになってゐる。私の考へでは肥後堀と云えば元の大手門より以西西の門迄で一体が肥後公の分担で大手門から以東唐津銀行の処を通して二の門迄の間が柳川公の分担であったものと思う。そうして二ノ門より以東唐津城一帯にかけての工事は薩摩公の分担であったものであろう。此の工事が一番難工事であって薩摩公の力でなければ出来なかったのであろう。一体唐津の城址の石材は多くごろ石で割り石は天守台ばかりである。最も角石は別である。

 天守台が薩摩公の作られた証拠としては天守台に上る左右の角石が花崗石で丸に十の字が彫刻されて居る御持矢場の角石も同様である。それで角石丈は薩摩名産の花崗石を運搬したるものであるが角石は薩摩より運搬したるものであろう。その石材を積みたる大船が神集島湾内にかかり来る日々南風に支へられ唐津城は見えて居りながら唐津城下に入ることを得ず使者は矢の如くに入るも如何ともすること能わず、其の内城は出来上がり運搬の御用を務てゐた士は責任を果たすこと能わざるよりも、遂に腹を切って申し分けをなしたのである。何と悲絶愴絶なることではあるまいか。村の人達は老若男女の差別なく此のお墓は薩摩の身分ある士の墓だと称えて居る。その石材は割石にして処々の工事に使用されてある。盆正月は叉于置き平素と雖も祖先の墓に参詣するもの一夕の水でも一乗の花でも分けて手向くるのである。私は今故人になられた中村氏より唐津築城の用材であったと伝えることを聞いて居る。島の人々は大阪城の用材と伝えるものは大坂城の石・同 であるから夫れに、大阪築城の用材たるを聯想せしむるのである。能く説教師などが云うことである大阪城の用材を日本国中の諸大名が皆其の国々より持ち運んだものであると称えて居るが、大阪城の石が皆同一なる処より見れば各国々より持ち運んだものでないと云うことが立証されるのである。

 唐津公園の案内記にも唐津築城の用材は名護屋城の用材を移したものだとしてゐる。然るに名護屋城は今日尚お築城当時其のままである。又石の質が全然相違して居るのである。大演習前に公園の建札を書き換えたろうであろう。

 又薩摩から大阪に上るには日向沖に出るのが順路であると云うものがあるが、航海業者の云う処によれば昔の帆船当時日向沖を乗ると云うことは出来なかったものであると云うことである。神集島も是れから段々開け行くであろう。一度神集島に遊ぶものよろしく薩摩武士の墓に詣ずべきである。(完)




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