唐津と夢二

山内薬局のぼちぼちブログより

2007/7/17(火) 午後 11:35

唐津と夢二


夢二研究家安達さんという方が訪ねてこられた。

夢二は大正7年に唐津を訪れていて、その時に3枚の写真を撮り、
それには「唐津」と書き込んであるらしい。
氏は3年ほど前にも、この写真の撮影された場所を探しに唐津に来られたと言うことだった。
今回は図書館に行っても相手にされず、木下書店に行ったらうちを紹介されたとか。
 
 
 
 一枚は見覚えのある石垣。
これは西の濱、旧栄徳屋角ではないかと。
早速安達さんは現地に向かわれ、暫くして電話有り。
「ありましたよ。間違いない!」
「よかった〜。おめでとうございます。」
私のカンも捨てたものではない。
 

後の二枚は全く見当がつかない。
 
 一枚は唐津の武家屋敷特有の笹垣の写真。
石垣の上にこの笹垣が写っていて、僅かに藁葺きの屋根が見えている。これだけでは特定できない。
 
 
 一枚は櫓を下から見上げた風景。
これも全く分からない。
唐津城に展示してある長谷川雪塘の唐津城下絵図に似たような櫓が描かれていると安達さんが申されていたが、確認していない。


櫓の上には半鐘らしき物が写っている。寺の鐘楼にしては櫓が高すぎる。


大正7年にこんな櫓が唐津に残っていたのだろうか。
近日図書館で雪塘の絵図を確認してみたい。

どなたか心当たりのある方いらっしゃいませんか?

と今朝、仕事を抜け出し、図書館へ。
旧家所蔵 長谷川雪塘の写真ファイルを出して貰った。
何と、私が毎日眺めている山岡家蔵の絵図ではないか。
複写できる物がないか尋ねると、出てきたのがコピーをコピーしたような実にみすぼらしい物だった。
ということでうちに掲げているカラーコピーをデジカメで撮ってみた。



それが4枚目の絵図。慶応年間か明治初年、長谷川雪塘が描いた唐津城下図の城内の部分である。

 


気になって図書館に行ってきました。
以前あった場所にない。パソコンで検索して貰う。
「昨日の方ですか?」と。
「いいえ昨日の方にここに雪塘の写真集があることを教えた者です。」
奥から3冊出して貰い、パラパラッと眺める。
絵図があった。見慣れた絵図。山岡家蔵の例の町屋は京町だけ名前が書いてあるヤツ。これは雪塘さんとは知りませんでした。
さて、これにそれらしき櫓があるのだろうか。??????削除

2007/7/18(水) 午後 0:30


この三枚目の写真。
夕焼けでしょうか?
さすれば東から西に向かって眺めた風景。
そして見上げたようなアングル。
大正7年当時残っていた櫓。

2007/7/18(水) 午後 5:44


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すごい!!
1枚目は、ばっちり西の浜入り口から臨んだ栄徳屋角でしょう。
真ん中に見える家は現在私が住んでいるウチではないですか!!
2枚目は水野旅館の通りの石垣、もしくは昭和幼稚園から西に向かう小路、満島邸がある通りでは?
夢二は唐津にも来ていたのですね。
彼の絵やデザイン物は大好きなので感動と驚きです。

2007/7/18(水) 午後 10:09[ きーたん ]


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きーたんさん
こんばんは
夢二は竹屋食堂には来とらっさんですか?
何処に宿泊したか問題です。
「唐津松浦潟」によれば
旅館
◇一等旅館 (唐津町)
博多屋(紺屋町) 新岩井屋(本町) 晴芳館(京町) 長崎屋(大手ロ)
◇二等旅館(唐津町)
本家岩井屋(大手口) 元岩井屋(本町) 木村旅館(西の濱)
希望館(西の濱)房屋(西寺町)
◇三等旅館(唐津町)
橋口屋(大石町)花屋(大石町)鹽屋(材木町)古元屋(木綿町)
佐賀見屋(木綿町)恵比須屋(木綿町)壹岐屋(京町)千歳屋(停車場通り)玉屋(停車場通り)小城屋(停車場通り)常盤屋(紺屋町)榮屋(西寺町)

私のカンですが、夢二の日記(二階から浄瑠璃の太棹が聞こえる)と、夢二の趣味からして、券番にほど近い本町の新岩井屋ではなかったかと思います。

2007/7/18(水) 午後 10:26


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当時は商家の子女は浄瑠璃の太棹を嗜んでおりました。
私の曾祖母(カンマズヤ)もやっていたようで、曾祖母が使っていた太棹が今でも二階で埃をかぶっています。

色町のお座敷では端唄など、細棹の三味線で艶っぽい音色ですが、
太棹が聞こえてきたので芝居好きの夢二は「近松がすんだこの土地では、特に感じが深い」と日記に書いています。
となると当時の文豪達が泊まった博多屋でもよいのですが。
どうも夢二のイメージとしては化粧の薫りがほのかに漂うだろう本町の新岩井屋(現在廃屋)が妥当かと思います。

2007/7/18(水) 午後 11:02


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うちの掲示板を見てください。
びっくりする情報を頂きました。
この鐘楼は唐津尋常高等小学校の鐘楼でした。
夢二は今の甘栗屋辺りから西にカメラを向けたと思われます。やはり夕日だった。

2007/7/19(木) 午前 0:18


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残念ながら、夢二がうちに来られたという言い伝えはありません。
ところで、新岩井屋。
ここのところの雨のせいか、さらに崩れがひどくなっています。
このまま崩れ落ちるのを見てるだけっていうのもですね〜・・・。
1度入ってみたかった。
もうさすがに入れないでしょうね。すぐ床が抜けそうですよね。

2007/7/19(木) 午後 10:12[ きーたん ]


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きーたんさん
こんばんは
廃屋の新岩井屋、崩れる前に写真に納めとかにゃですね。
明日は早起きして新岩井屋・栄徳屋角・昭和幼稚園から西に向かって五間馬場まで写真ば撮りに行こうて思とります。

2007/7/19(木) 午後 10:30


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唐津の街並みのこんな見方もあるんですね。

2011/10/6(木) 午後 1:02[ あわ美くん ]


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あわ美くんさん
唐津と夢二はその4までございます。よかったら覗いてみてください。

結局2枚目の写真、笹垣の場所は特定できていません。

夢二が博多から長崎に向かう途中、久保田駅で下車、唐津へ向かい唐津駅を下り立った後宿に荷物を置くとすればやはり博多屋かなと思われます。博多屋を出た夢二はカメラをさげて近松寺〜坊主町〜五間馬場〜栄徳屋前〜西の浜〜大手口〜呉服町〜博多屋と歩いたと見ています。

2011/10/6(木) 午後 5:28


2007/7/19(木) 午前 11:59

唐津と夢二その2


昨夜、うちの掲示板に、以前から貴重な資料を提供していただく方が決定的な二枚の写真を貼り付けられた。
探し求めていた場所がこれでほぼ判明した。

一枚目が問題の夢二の写真




二枚目は唐津尋常高等小学校の大川校長銅像除幕式



唐津尋常高等小学校については
母校百年史から

わが唐津小学校も例外ではなかった。明治二十七、八年の日清戦役後は、国家の隆盛と共にわが唐津町も著しい躍進を遂げた。明治二十九年十一月一日唐津港は外国貿易港に指定され、明治三十三年六月十一日には浜崎・満島問に馬車鉄道が開通した。かくの如く唐津町の産業・交通をはじめとして政治、経済、文化などあらゆる方面に非常な活況を呈した。又農村地帯も豊作が続き、住民の資力の増加が目立っていた。この好機に唐津尋常小学校及び唐津高等小学校の移転と新築が計画されて、明治三十二年十月十日唐津町から東松浦郡役所へ提出され、十一月八日付で「小学校変更之儀ニ付伺」の書類が東松浦郡長広瀬昌柔より佐賀県知事関清英宛に提出された。

  東学第一四七〇号
     小学校変更之儀ニ付伺
  本郡唐津町唐津高等及唐津尋常小学校ハ今般新築可致之処在来ノ敷地ハ不適当ニシテ完全ナル建築ヲ施ス能ハス、依テ左記ノ通り移転変更シ新築為致度尤モ移転之場所ハ本年七月文部省令第三十七号第一条ニ適合候条特ニ至急御許可相成度則チ同町ノ意見ヲ取り此段相伺候也
   明治三十二年十一月八日
          東松浦郡長 広 瀬 昌 柔   印
  佐賀県知事 関 清英殿


一、唐津尋常高等男子小学校位置
   唐津町大字唐津三四三番地
一、唐津尋常高等女子小学校位置
    同      三五九番地第一
  但、右ハ明治三十四年四月一日ヨリ変更スルヲ以テ唐津高等及唐津尋常小学校ハ同日ヨリ廃止ス
   唐津尋常高等男子小学校として指定された「唐津三四三番」は現在の唐津市役所敷地内の東松浦広域組合の事務室あたりで、後に「城内西四番」となっている。同じく唐津尋常高等女子小学校敷地の「唐津三五九番」は現在の唐津商工会議所あたりで「城内西十一ノ一」と変更されている。
  そして明治三十二年十二月二十二日県指令第三、〇〇九号を以って唐津尋常小学校々敷位置指定を許可されたので郡長より十二月二十五日正式に指定された。即ち、東松浦郡唐津町大字唐津字郭内の三四〇番より三五九番までの市街宅地、畑等一町四反八畝二十九歩(四、四七〇坪二合一勺五才=一四、七五一、七平方米、但道路敷一反三畝三歩=三九三坪二合五勺=一、二九七、七平方米を含む)が唐津町所有地となり小学校敷地として指定されたのである。そして愈々校舎の新築工事に着手すべく当町出身の辰野金吾工学博士に学校設計を依頼した。彼は同じく唐津町出身で、唐津英語学校耐恒寮で一緒に学び工部大学校まで同級生であった曽根達蔵と相談して、唐津小学校の建設設計を製作した。


三枚目は大手口から唐津尋常小後頭小学校を写した絵葉書

大手口のお堀埋め立てに関しては「曳山コースの変遷」より
古舘翁の「曳山のはなし」では明治24年にお堀が埋められた、更に新大橋ができたと記載してあるが、「佐賀県の地名」によれば新大橋の架橋は明治33年である。また、「唐津市史」によれば佐賀〜呼子の県道は明治23年竣工、完成は何年なのか書いてない。さらなる確認が必要であるが、新大橋架橋を明治24年として解説したい。また、下記の石井忠夫氏の記述に依ればお堀の埋め立て完成は明治26年のようである。

また、灯籠が写っていますので、年代が絞られてきます。
 
四枚目
一枚目の写真にちょっと悪戯をしました。
下の暗闇にお堀の石垣の部分に線を入れてみました。
 
 5枚目
大志小学校の開校式当日、夢二と同じ角度で同じ場所を撮っていました。
 

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大川校長銅像除幕式の写真
テントにはヤマ古のマーク、側面には太閤
後ろの直会幕はいつか見せていただいた三本線の刀町の直会幕
奧にそびえる煙突は米屋町の古舘酒造

2007/7/19(木) 午後 4:57


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竹久夢二
大正7年8月12日来唐

博多から長崎に向かう途中唐津に寄ったと書かれています。
北九州鉄道は大正8年に会社設立ですから、博多から唐津へは、佐賀を経由して入るしかありませんでした。
夢二は長崎に行く途中久保田駅で唐津線に乗り換え唐津入りしたと思われます。

2007/7/19(木) 午後 6:46


夢二が何時頃唐津入りしたか定かではありませんが、
唐津駅に着いた夢二親子は、その足で呉服町〜大手口〜唐津神社〜
五間馬場〜北城内を散策して栄徳屋角で写真を撮る。
その道すがら謎の笹垣の写真も撮ったと思われます。
そこから西の濱に向かい、お盆前の暑い昼下がり、海水浴はしないまでも、ケツをまくって膝まで海に入っては旅の疲れを癒したのでした。?唐津では珍しく水着のおねえちゃんがいたりして、夢二は目の保養をしていると日も傾いてきます。帰り支度をしてトボトボと城内の石垣の小径を抜け、大手口に差し掛かると西の空は真っ赤な夕焼け。唐津尋常高等小学校の鐘楼にカメラを向けました。
宿(博多屋?)に着いたら二階から太棹の渋い音色が聞こえてきました。近松が住んだこの土地で感慨深いものがあったと述べています。

2007/7/19(木) 午後 8:29


自分は全く知らない風景だど思ってましたが
こんな近くにそんな物が建っていたとは知りませんでした
四枚目の写真も分かり易く、謎が解けてすっきりしました。

図書館でも分からなかった物を解明するとは
さすがですね。

2007/7/20(金) 午前 8:49[ @博多通勤 ]


@博多通勤さん
三枚目の笹垣の写真、現在の南城内市営駐車場東入り口の南側に似たような石垣の上の笹垣が確か今でも残っております。
石垣の長さもちょうどこれ位。石垣の笹垣の切れ間から右に折れて奥まった小径があります。笹垣の奥には民家。ちょうど藁葺き屋根がそれに当たります。まだ確認できていませんが、これがそうだとすると、一通り西の濱で遊んだ後、栄徳屋角で一枚。次に南に下って笹垣で一枚。明神横小路に突き当たって右折して神社前に出る。お参りして参道を大手口に差し掛かると、右手に夕日に映える唐津尋常高等小学校の鐘楼が目に入りシャッターを切る。
この三連お写真はこの順番になります。
笹垣の写真、さてさて何処でしょう。

2007/7/20(金) 午後 2:47


2007/7/20(金) 午後 5:32

唐津と夢二その3


お薬の配達ついでに写真撮ってきました。

夢二が歩いた道をたどって、写真もその順に並べてみました。

まずは栄徳屋角
生憎車が止まっていて同じ角度からの石垣は拝めませんでした。
回り込んでの石垣の確認。

そこから南を向けば河村美術館
 
 
産業道路を横断して埋門小路へ
問題の笹垣である。如何でしょうか?
石垣の石を比較して検討いたします。 
 
 
 
 
 唐津神社を右に見て大手口へと
夕日こそなけれども、夏の緑に生い茂った肥後堀の石垣
 
 
 

夢二が泊まったかもしれない紺屋町博多屋旅館跡
五足の靴の記念碑が建っています。
 
 
 
おまけで昭和36年10月29日の博多屋前
手を引かれて綱に着いている小さな子供は私です。
 
 
 本町の新岩井屋は忘れていました。
mixiで熊寅さんがUPされていた画像を使わせていただきました。
 



最後は大正15年の唐津の地図に夢二ゆかりの場所をプロットしてみました。


これで夏休みの自由課題はできあがり。


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2枚目の石垣、私は西の浜のきむら旅館に入る小道を入らずに、東に進んだ現在廃屋と旧温泉センター(?)の向かい側の石垣ではなかだろうか?とにらんでおりますが・・・。
じゃんでしょうか?
ばってん、珠取さんの子供の頃のかわいらしさ〜。
明日からいよいよ土曜夜市開幕ですね。

2007/7/20(金) 午後 10:57[ きーたん ]


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しゃんだろか?
木村旅館かい水野さん進んだところは
石垣の高すぎやせんだろか。
そしてそん上に笹垣は作らんて思うとよ。
笹垣の残っとる箇所ば徹底的に洗い出して、石組みば照らし合わせにゃいかんとて。
おいは石垣はこん写真かい目の高さより下で、そん上に笹垣ば作ってある場所て思うとばってんね〜。
こん写真ば持って来らした夢二研究家ん人の日曜日夕方唐津さんいらすてばってん、竹屋は開いとっとかな?ウナギばご馳走したかとばってん。

土曜夜市どころじゃなかとて。明日は子供の柔道の強化練習で朝かい佐賀さん行かにゃいかんとて。
子供クラブのキックベースボールの練習も出られんとて。
ばってん夜市の初日、天気の心配かね。

2007/7/20(金) 午後 11:11


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博多屋ん門の写真はこいしかなかとて。
可愛か子の写っとるばってん、メインは後ろの博多屋の門ばい。
采配ば持っとらすとが川島さんて。
子供の手ば引いとらすとはうちのお手伝いさん。椿おばちゃん。中山峠ん手前のため池ん辺かい来よらした。
可愛か子供の法被は赤に背にはうちんとは金で獅子の描いてあったとばってん、探すばってんどけいったか分からんごてなった。
綱の後ろん人も赤の法被。恐らく背には白い絵の具で珠取獅子。曳山展示場に展示してある京町の赤か法被も白絵の具で珠取獅子の描いてある。
川島さんは白の法被に背には赤の珠取獅子。こん頃は赤か法被と新調した白か法被の混在しとった。一時ゃしゃんだったばい。
川島さんのこん法被(今は肉襦袢て言う)はうちが預かっとるばい。

2007/7/20(金) 午後 11:28


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日曜の夕方に来唐されるという「夢二研究家も安達さん」、お会いになられたら
「柳川、御花亭の正門の所で夢二資料開示所を開いていらっしゃらないか」
お聞きになって頂けませんでしょうか。

実は今年の春、柳川さげもん祭りを拝見に伺った折に「唐津から来ました」
と自己紹介すると、「唐津と夢二の関連」について非常に熱心に語られ意気投合。

「機会があればまた唐津に行く」と宣言されてお別れしたのでした。
その時に名刺を頂いたのですが、どこにしまったのか・・・(^^;)。

2007/7/21(土) 午前 6:35[ @ネ寸 ]


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おはようございます
@ネ寸さん
まさにその方です。

夕方まで佐賀です。行ってきます。

2007/7/21(土) 午前 7:04


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19:45帰宅
柔道の強化練習。過酷でした。
子も親もへろへろ。
帰り着いたら唐津は夜市の真っ盛り。

2007/7/21(土) 午後 9:28


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すごいですね。よく見つけましたね。私は南城内で育ったので、城内はどこも遊び場(石垣登って叱られたり・・・)でしたが、分かりませんでした。
今年三月に柳川の御花亭に行った時、夢二の作品が展示してあって、そこの方が夢二のゆかりの地唐津に行くことを神田五郎さんと(私の実家と姉妹の家族で出かけた)話していらっしゃいましたが、ひょっとしてその方ですか?私は夢二は好きですが、唐津と縁があるとはその時初めて知りました。

2007/7/22(日) 午前 8:15[ はあみいちゃん ]


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はあみいちゃん
おはようございます。
今朝再び北城内〜東城内探索して参りました。
唐津と夢二その4にUPしております。

そうそう、夢二研究家安達さんは御花旧守衛室にいらっしゃるそうです。
今日夕方お会いすることになっています。

2007/7/22(日) 午後 0:47



2007/7/22(日) 午前 11:49

唐津と夢二その4

今朝問題の石垣を探しに出かけました。
まずは栄徳屋角のリベンジ。これ!間違いなし。
続いてそこから西に向かい昭和幼稚園の前の石垣


問題の石垣は、人の目の高さからファインダーを覗いて見ると
先日UPした南城内市営駐車場の横の笹垣は石垣の上が見えてしまうので、
やはり今朝見た栄徳屋角から五間馬場にかけての石垣の高さが必要となる。

そして、写真では左側でいったん笹垣が途切れているようにも見える。
石垣もここで途切れて右に上がり口があるのかもしれない。

そんなことを思いながら、何枚も写真を撮ったのでUPしてみた。













五間馬場まできて、もしやと思い、今度は二の門のお堀の先
木村旅館前から水野に向かう石垣のチェック。
笹垣はないが昔はあったのかもしれない。しかし、ちょっと石垣が高いようにも思える。

 



 また栄徳屋前に戻る。
旧高取邸の通りの写真も。
 
 
今朝は大志校区子供クラブのキックベースボール大会があっていた。
ちょっと取材。うん、うちの子達も頑張っている。 
 
 写真解決の糸口となった大川校長の銅像に敬意を表しながら、
唐津尋常高等小学校から移された銅像と柵の石のポールを取材。


 
 
 唐津神社によって、大手口にあった石灯籠の制作年代確認。
これはお堀を埋め立て参道が開通した時に奉納されたのではなかったかな。
明治28年の文字を確認。

唐津神社社報16号より
明治26年 ○明神小路開通工事成る
      ○木綿町右の記念に大石燈籠奉献
      ○刀町曳山第二回塗替
      ○新町曳山第二回塗替
      ○米屋町曳山塗替
明治27年 ○日清戦争始る。
明治28年 ○唐津神社拝殿落成す。
参道開通記念ではなかったか。

おや?この石灯籠26年奉献
 

 
 
9時過ぎ、帰ってきたら、京町の角で交通量のカウントの準備。
今日は日曜、しかも夏休み最初の日曜日。
人っ子一人通らない鄙びた商店街で、カウント作業ご苦労様です。
町んもんはカウントに入れたらいかんよ。 
 
 
まだまだ笹垣解決せず。
大正15年の地図に書き込みなおしてみました。
 
 
 
  唐津駅に着いた夢二親子は、呉服町を抜けて大手口から裁判所横大手小路を北へ向かう。
西の濱の入り口、栄徳屋角で1枚。
お盆前、イラが出始めていたが海水浴客で賑わう西の濱で旅の疲れを癒す。

日が落ち始めたので帰途へ着く。しかし、右手の石垣が気になり、ついつい五間馬場まで
足を伸ばした。途中笹垣の写真1枚。

ちょっとの回り道が、結局唐津神社の参道を抜ける頃には日も沈みかけ、大手口に差し掛かる。
肥後堀の向こうには夕映えの鐘楼。写真1枚。

宿(博多屋?新岩井屋?)に着くと二階から太棹の音。
 


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郷土史とか歴史とかの話だと、場違いの感じがして、なかなか参入できませんが、どうも見たことがあるような石垣の写真。
それがどこだったか解らない位忘れています。
自宅と唐津神社、志道小、一中が点でしか思い出せないんですよぉ。

竹久夢二は群馬にもゆかりが深くて、伊香保に美術館がありますが、入館料が高いので入ったことがないんです。

昭和52年発行の別冊太陽(竹久夢二)が押入れにしまってあったので、久々に読み返してみました。
年譜もあり、あちこち旅行をしたことが載っていましたが、唐津へ旅行とはありませんでした。残念。

ここいら辺とか、何枚かある写真のどれかとか、あいまいにはできないものなんですか?
大変な作業ですね。頑張ってください♪

2007/7/22(日) 午後 8:18[ ミータン ]


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その別冊太陽にこれらの写真が掲載されているようですが。
いかがでしょうか?
かっこちゃんのおらしたアパートの裏が
五間馬場からの石垣の小径です。

夢二研究家の安達さん午後5:30来唐。
本町の新岩井屋をご案内して、(勿論写真撮影)
中町の竹屋にてうなぎ定食。
資料や地図を取り出して大正7年の話しで
あっという間の約二時間。
20:10の博多行き高速バスに間に合う。
丁度西の空は日も沈み、夢二が見た夕日には遅すぎた。

新岩井屋と大手口の夕空の写真を追加しました。

2007/7/22(日) 午後 8:45



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夢二は近松に非常に興味があったそうで、
もしかすると唐津に降り立った夢二親子は近松寺の近松門左衛門の塚を見て、それから坊主町を北へのぼり、五間馬場から石垣を右手に見ながら栄徳屋角。それから西の濱で海水浴?帰りに肥後堀の夕映え。
このコースが見えてきました。

2007/7/22(日) 午後 9:17


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夢二は宿で二階から浄瑠璃の三味線が聞こえたことを喜び、「近松も住んだこの土地では特に感じが深い」
と書いてた事を知りました。

唐津から長崎に移動し、斉藤茂吉と合っている事から夢二の利用した宿は

旅館「きむら」
http://mixi.jp/view_album_photo.plalbum_id=1447435&number=732822583&page=7
とも思いました。2階から聞こえたのは「高取屋敷のお座敷唄?」
などと妄想したりもしましたが、茂吉が「きむら」に逗留したのは
大正13年・・・どうやら妄想は妄想のままでした・・・。

2007/7/23(月) 午前 10:17[ @ネ寸 ]


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別冊太陽を見ましたが、写真はありませんでした。
夏、九州旅行を不二彦をつれてしたとあり、長崎・島原・雲仙・別府へ行き彦乃と落ち合うが、彦乃は病院に入院。
それだけでしたよ。

唐津のことは書かれていませんが、もし、竹久夢二がお好きなようでしたら、この「別冊太陽」を差し上げますが…。
押入れに眠っていると、いつまでたっても起こしませんから。

2007/7/23(月) 午前 11:36[ ミータン ]


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@ネ寸さん
夕映えの肥後堀の写真がありますので、宿に戻る前に大手口にいなければなりません。
青木繁が泊まったとされる金波楼?(西の濱)や木村旅館も考えましたが、それではこの夕映えの写真が撮れません。
よって宿は内町。
三味線も細棹でツテンチツテン♪と粋な音色ではなく、太棹でベベンベンベン♪と渋い音。お座敷三味線ではなく、義太夫のお稽古だったと想像しています。
博多屋や新岩井屋の一級旅館だったか、
子供連れで三等旅館
壹岐屋(京町・今のフクスケ) 千歳屋(停車場通り・現在ビジネスホテル) 玉屋(停車場通り・今のジュエリーマキハラ) 小城屋(停車場通り) 常盤屋(紺屋町)
のいずれかに泊まったのかもしれません。

2007/7/23(月) 午後 2:09


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ミータンさん
別冊太陽よかったら送って下さい。お願いします。

彦乃は九州旅行の夢二親子を追いかけて九州入りするが、結核が悪化して別府の病院に入院。
唐津8/12を発って雲仙〜島原8/15〜長崎の旅を終え、長崎に逗留。長崎から夢二は別府まで彦乃に会いに行く。
「島原巷談精霊流し」という夢二の絵は
唐津の近松、島原の精霊流し、彦乃の死が織りなしてできあがった構図ではないかと、夢二研究家の安達さんは仰いました。

2007/7/23(月) 午後 2:19


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了解、('◇')ゞ ラジャ
お役に立てれば、幸いざんす。
どうせ、老眼鏡なしには、文章も読めないし…(>_<)
ゆっくり絵を鑑賞するより、庭の草むしりやバラの薬剤散布が重要なんです、今の私。(o_ _)ノ彡☆
少々お待ちくださいませ。m(__)m

2007/7/23(月) 午後 5:50[ ミータン ]


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ミータンさん
待っとるよ。
私も遠近両用眼鏡に替えてます。
しかし、新聞や本を読むときは眼鏡を外した方が
ハッキリ見えます。
年にゃ勝てん。
今朝から京町はラジオ体操の始まったばってん、
体操のおじさんは第一体操の4回飛んで2回手と足ば広げるやつで、
膝に来たとて。日頃の運動不足ば痛感しとります。一週間も続ければ何とか慣れてくると思われます。
京町は意気地なしやけん、7:30にうちの前でしよるとです。
ふたを開ければ京町はうちともう一軒。他の子供達は呉服町4家族、紺屋町1家族。
その昔の京町のラジオ体操は子供だけで30人はいた。
ラジオ体操には各自ほうき持参。体操が終わって
京町の端から端まで掃いていました。社会奉仕と呼んでいました。
今の京町では二家族だけで、社会奉仕は出来ません。

夏場の水やりご苦労様です。

2007/7/23(月) 午後 6:36


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昨夜、竹屋を出るとひぐらしが鳴いていました。
今、京町でもひぐらしの声
梅雨が明けたばかり、夏が始まったばかりというのに、気の早いひぐらしです。

2007/7/23(月) 午後 7:48


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7:30からのラジオ体操ですか、私みたい(^^ゞ
6:30は忙しいんだもの、だから手が空いたら…。でもよく忘れる(o_ _)ノ彡☆
膝は大丈夫でしょうか?力が入りすぎでしょ!
私もそれを家の中で飛ぶものだから、あまりの振動に子猫が飛び上がって逃げていったんですよぉ〜。゚( ゚^∀^゚)σ゚。ヶヶラヶラヶラ

そちらは梅雨が明けたそうですが、これから夏本番!暑くなりそうですね。佐賀県はどこでもセミがいるんでしょうか?
佐賀の唐人町でもセミが鳴いていたし、京町だって商店街でしょ。
ありえない!
だから、何年か前に国体で佐賀に出かけた知り合いが、「セミは鳴いているわ、駅前に田んぼはあるわで、はなわの歌通りの田舎だね!」と。
駅前の田んぼは今はないそうですけど、セミは鳴いてるだろうなぁ〜。
でもね、田舎ってここだって田舎だよ。でも、セミはあまりいないの、何故か…。

2007/7/23(月) 午後 10:51[ ミータン ]


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おはようございます
今日も元気
子供達が集まってきました。
ぼちぼち行かねば。

2007/7/24(火) 午前 7:28


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はい
今朝は手加減して飛びましたので
膝大丈夫でした。

2007/7/24(火) 午前 7:41


後日洋々閣の女将さんがこれをネタに「女将の挨拶」を執筆されました。

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