松浦拾風土記

松浦拾風土記    2008.7.16より

巻一

一 唐津大明神 松浦古事記参照

前略 宗次公直筆の文あり、紙の性朽ちて切れ切れに成りし故、文詞の続き定かならず。其外古き證書数多ありけれども、寺澤兵庫頭殿の家中の者、拝見して其儘に返さず紛失せり。

〇    〇    〇
一  波多氏親の寄進状有り、其文に曰く
     奉寄進田地之事
一  唐津大明神之御所在肥前上松浦の西郷、庄崎之川向八丈田之下、田地三丈之事、四至堺書之作也。
 右件の田地は親当知行無相違所也。然るに尊天長地久・当村安穏・家内長久・子孫繁昌・息災延命.為御油燈奉寄進処也、仍寄進状如件。
 文安六年己巳正月十一曰

            源 親 判
 唐津大明神官
   文安六年は寶徳元年也、後花園院御宇、武将は従一位右大臣東山義政公の時なり。

        〇    〇    〇

一 天文十二癸卯十一月吉日、田地寄進状
                          隈本右衛門督 判
  高松寺快幸代也。高松寺は勸松院の寺号也、後奈良(平城)院御宇、武将は権大納言の時也。

        〇    〇    〇

一 永禄十一己辰九月二十六日

   日高甲斐守喜 判
 右棟札当社務畑津右衛門太夫
   正親町院御宇、武将義栄征夷大将軍に在ること二ケ月、同年五月に薨ず、依之假御殿建てし儘にし義昭の代に営みあり。

        〇    〇    〇
一 神田能登守寄進状 其文に曰
奉寄進 唐津大明神
 一刀 二尺三寸 備前  一馬 一疋 鹿毛  一 鏡 一面
 右息五郎当病平癒の所也。
天正十年壬午五月三日

 宮司坊 快辰楷
   正親町院御宇、武将織田信長の代
 神田能登守高 判

        〇     〇     〇

一 慶長十五年庚戌八月吉日

右棟札      寺澤志摩守豊臣廣忠
         惣奉行 並河長兵衛尉
         小奉行 加茂 勝助
当宮司頼雅

        〇     〇     〇

一 本地観世音堂の前に掛けたる墨跡は、文禄の頃鍋島信濃守殿に在りし、雲海と云ふ朝鮮人の筆なり。
  慈 悲 靄 々 盈 天 地
  廟 像 *(クサカンムリニ魏)々 冠 古 今

        〇     〇     〇


一 鏡の銘

肥之前州松浦郡、当社大明神、神田五郎宗次以夢想、往来于海邊。一日有一筒寶筐而浮海上、光明照曜、遍満十方。宗次半驚怪之、半尊崇之。忝問。孝謙天皇下詔命、號唐津大明神、于時天平勝寶七年九月二十九日也。
故老所傳、一宮観世音化現、二宮慈氏尊降下也。爾来歴八百五十一星霜、霊験不減昔日、異哉、今也寺澤志州太守廣忠朝臣、令工鋳鐘、祭神妙、在感歎之余賑、烏明神始終祝太守遠大云々太守為尊神徳周。華鯨新鋳祝千秋、鐘聲亦與名聲大、遠近傾頭九々州。
 慶長十年龍集乙巳二月 曰
 前南禅承~誌
当宮司覚信房


      〇     〇     〇

一 唐津宮縁記
夫以大極分而陰陽立、阡陌交而生於五行矣。清而軽者昇成天、陽而重者降成地。天地分而生於萬物、顯其中間。
人者萬物霊而與天地同骸也。気者元大極而與天地人一貫也。故天地之間、莫不充。借気則神而正者之理也。故以正理意願則無不通叶也。于此、当社唐津大明神者、往古神功皇后、泰平於三韓之時、西海蒼々、船路無限、当干時后宮向天而為給合掌也。我朝神国之域而正直之元也。故妙哉、奇哉、海上忽然波静而眼前在光輝。於此皇后傳之、自然得船路、平治於三韓也、仍給號唐津大明神、云々


二 唐津御城主

一 寺澤志摩守所務三十九年、十二萬三千石、文禄四年未年より寛永十酉年迄前志州大守休甫宗可大居士

一 寺澤兵庫頭志摩守二男所務二十五年、八萬三千石、寛永十一年戌年より正保四年丁亥年迄、十一月十八日逝去、孤嶺院白室宗不大居士

一 慶安元年戊子一ヶ年公料と成る
  上使 水谷伊勢守 中河内膳正

一 大久保加賀守、慶安二年已丑播州明石より引越。先之通八萬三千石、入郡而酉年迄二十一年。翌戌年四月十九日逝去、本源院前加州大守日禪大居士
翌亥年石碑立、寺坊、日蓮宗、寿周坊、高二十石山田村にて新田高寄附、永代山田村より納。

一 大久保出羽守、加賀守の養子延寶元丑年入郡、同五年加賀守と改名、同六年総州佐倉に所替。

一 松平和泉守乗久.延寶六年入郡、上使細井金五郎・新上與惣右衛門、和泉守高七萬三千石、怡土郡之内にて壹萬石欠る貞享三丙寅年七月十七日逝去、源正院殿前泉州刺史大譽圓記英徳大居士

一 松平主水、貞享三丙寅年九月家督和泉守と改む。翌卯年入郡、元禄三庚午年九月五日逝去、愛光院殿前泉州太守快譽廓白撤心太居士

一 松平源次郎家督、元禄四辛未年二月志州鳥羽に替代、後左近将監と號す。出羽國山形に所替。

一 土井周防守、七萬石、同年六月三曰、上使戸川平左衛門・周防守名代土井図書頭城受取、元禄未年より所務二十三年、正徳三巳年五月二十五日逝去、諦玄院殿前防州廓譽高峯徳雄大居士

一 土井出雲守家督、大炊介登號、正徳四年より元文元年辰年迄所務二十三年、同年十二月二十四曰逝去、寶眞 院殿前大倉穂蓮社明譽勇仁宗和居士

一 土井大炊介、同姓備前守息養子、元文二年丁己四月十八日入部、所務八年、延享元甲子年七月十六日逝去、廰所神田村、諦了院前大倉令眞譽寂照堪然大居士

一 土井幾之助、同備前守息、則舎弟也、大炊頭と改む。延享二丑四月朔日入郡、所務十七年。寶暦十三年癸未五月総州古河に所替、治世の間種米半分與へらる。又米一萬三千俵與えられ、治世の間領分の大庄屋三人江戸へ出て、仁政に依って永く城主たらんことを祈請す。後京都所司代に任ぜらる。



三 岸嶽由来

波多家の先祖源の仕は六孫王経基の旗本に属し、藤原鈍素九州に攻入し時、武蔵守仕に追立てられ、終に岩松浦より黒崎へ引退す。仕は猶をも追撃し、下々一統或は討死し、或は自害し、惣大将純友も、播州にて生捕られ都に引かれけるに、其道中にて死せり。已に九州静りて後、多田備中大小の神祇に寄附奉納せん事を心に籠め、肥前國の主たらん事を願ふと雖も、再び九州に下向の隙なし。後に源の頼光肥前守に任し九州に下り給ひぬ。仕公は武州箕田に住す。其子箕田源治宛、其子綱は胎内に有って父に離れ、伯母聟渡邊左衛門尉に養育され、後十一才より頼光に仕へたり。其子松浦源太夫判官久は松浦郡を領せし事を爰に記す。
 岸嶽は鬼住せしと云ひし処也。其事を尋るに、武内宿禰の後胤、七姓の其一、木角氏の末葉なり。往古より此山中に位して代々近郷を押領し、誰に仕るともなく、獨歩して下々に威を振ふ。聖賢の末にも悪賊出来る事天性なり。末々に至りて木角氏をこかくと訓し、下々押入強盗を集めて、神変の凶賊と成り、柴角に堕落せし者凡三千余人。其中に夫々の役名を立て、大名に肩を並べり。迫々群賊蜂起して、國主の手に及ばず、早々御勢を下さるべしと、度々の注進有りければ、月卿雲客評議区々なり。早く討手を下さずば、近國をなやまし大事に及ぶべきやも計ひ難し、誅戮せずんは有るべからずと、先其人を撰ばれけるに、往古伊吹山より、大江の賊徒退治の例にまかせ、当時の英勇渡邊太夫判官久こそ、父源吾別当綱にも劣らじ、其器に当れりとて、評定一決して、木角退治の事を命ぜらる。時日を移さず肥前國松浦郡にぞ向ひける。其勢三千余騎を引卒して、先、豊前・筑紫の間にも、此処・彼処に悪党多かりけるを誅戮して、山本村に着陣しければ、岸嶽の張本木角斥候を出して、其勢の多少を窺はしむ。寄手の人数、静に兵粮をつかひ、手配を定め、岸嶽の麓に押寄せ、上を見けるに、敵も兼て覚悟やしたりけん、乱杭逆茂木を透間なく引かけ、坂中に掻楯を置て、其かげに射手と覚敷者百騎許、鎧の袖を重て弓筈ならべ、鼻油を引て待掛けたり。此山に籠る処の賊徒千余騎と聞えしが、皆徒らに立勢にて騎馬は見へざりければ、楯たゝきたゝきて閧の声を上ると、斉しく山谷も崩る計りに、城中よりも閧を合せ、矢掛り近く成ければ、矢尻を揃へてさんざんに討掛る。寄手の先陣弐百余騎、些しもひるまず、楯を並べ或はかつき、喚き叫んで攻め上り、逆茂木一重忽ちに引破り、掻楯に押せたり。山の上にも弓を打捨、双方打物にぞなりにけり。賊徒は元来強勢のあぶれ者。寄手は弓馬の駈け引の達者。追登し追下し、火花を散して戦ふたり。然れ共未だ勝負も見へざりければ、其日の陣は引にけり。翌日早天に押寄せて、城を見上ぐれば人一人も見へず、城中ひっそりと鎮りたり。寄手は勇み進み、必定叶はずと思ひ、夜中に何方へか落行きつらん、何國迄も追討んと、掻楯崩れたる処迄押寄せしに、大木茂りて是れぞと思ふ道もなく、石壁を構へ、岩を抜き、大手には石の扉をしめて押寄る道もなかりけり。斯る処に、相図の大鼓を打つとひとしく、塀櫓より大木・大石を投げかけ投げかけ、雷の落るがごと く、寄手も暫しためろう処に、源太夫さいはいを振り立て、掛れ者共、賊徒の族何條の事かあらん、一方を打破り無二無三に、駆り立てよと、鐙踏張す下知しければ、士卒も是に気を励まし、えいえい1聲を出して、難なく一方を打破りければ、城中よりも潮のわくが如くに押出し、大将木角も大あらめの鐙を着し、長刀掻き込み顯はれ出て、源太夫久を目掛け、竪横に打て廻る。源太夫少しもをくれず、大太刀抜ひて走せ向ふ。大将の戦ひに何かは猶予すべき、我れも我れもと揉立て、終に本城に責人たり。賊徒共は度を失ひ、官軍に気を奪はれ、塀際迄押し詰められ、洩れて迯ぐべき道もなく、数千丈の谷底へ岩上に落ち重り、己れが太刀に貫かれ、微塵に成って死したりけり。源太夫久は木角と二人切結ひ戦ひしが、官軍早城中に責め入しと見るより、勢を励ましてはつしと打つ太刀を.木角受けはづして、左の肩先を切られければ、叶はざるとや思ひけん、泥障を相下りて逃げにけり。
源太夫眞しぐらに追詰め、松浦川の邊りにて終に木角を討ちとりたり。今に其処を鬼塚と名付け、首は都に登せ骸骨は其処に埋めたり。夫れより生捕りを揃へ城中に入りけるに、童女の泣聲さも夥敷く聞えければ.是れは如何なる者共か妻子かと尋ねしに、一人の女涙を止あ云ひけるは、我々は賊徒共の妻子にあらず、皆夫婦の中を引き離され、或は親子兄弟の恩愛をも厭はす、情けなくもかどわかされ、此山中に鬼神住まして、様々の所為を成すと聞かし、此所に連れ来って酒宴を設け、其の相手となされ一日千秋の思ひを成し、悲しき月日を送りし也。
あわれ神佛の御加護にて、かゝる仕業の洩れ聞へ、在所在所に返し給へと祈らぬ日もなく、今日只今迄はかなき命をながらへて、かゝる時節に逢ふ事の有難さよ、夫は何國の誰、是れは彼処の嫁、或は娘なりとぞさけぴ、御慈悲に親子兄弟の対面をさせ給へと、一同に手を合せ願ふにぞ、並み居たる猛き武士も、鎧の袖をぞ絞りける。
夫れより直に木角が首と、生捕りの内ち張本の賊三人を都に登せ、其外百三人の生捕共不残死刑に行ひて、都に凱陣しければ、凶賊退治の功に依って、肥前の國を鎮守し、松浦郡を永領の御感状を賜って、久安三丙丑年松浦へ下りて肥前國を治めける。此の源太夫判官の神霊を今宮大明神と尊崇せり。

四 松浦黨系図 第二巻参照


五 和多田村観世音

 世戸左衛門佐の守護本尊観世音菩薩は、今和多田村庄屋屋敷に有り。此観世音の作物と云ふ事を知って盗み取り、京都の佛町に持ち行きしに、佛師佛作と云ふ事を知って高金にて買ひ取り奉り、太平勝持寺の内に売り置きたり。頃は後光明院の御宇、承應三甲午年也。菴室の僧眠を催ふし佛檀の邊に居たりしに、不思儀成る哉、此の観世音告げて宣く、肥前國の松浦郡和多田村に安置せし佛也。盗賊の為めに爰に来れり。今又松浦郡に戻らん事を願ふと宣ひて、夢は覚めければ、此僧身の毛たって覚へたり。然れ共我修行の不足故に、心迷ひて夢は見みし物ならんと其儘に居けるに、翌夜も又告げ有り、佛師にも同じく告げ拾ふ。佛師は作佛と見奉りし故に、思ふ様誠に賊の持ち来りし御佛と買ひ取りて、又高金に売り奉り、其罪不軽、佛像を彫刻したる余恵にて世を渡る身に有間敷事なりと、太平勝持寺の内の庵室に至りて、しかじかの物語りしければ、庵主云ひけるは、我れも此夢想を得たりと。故に代金を返して、御佛を抱き参らせ我家に戻りぬ。和多田村心頭夢想を得、左衛門佐の末葉其時に有りけるが、同じ夢想有り、六月十七曰必ず戻るべし、水嶋の邊に出て迎ふべしと、精敷く告げにければ、兼々云ひける去年失せさせ給ひ心掛り成りしに、此の御告げを蒙る事の有難さよと、其の所の者に語りければ、彼れは乱心したるべしなりと云ふて笑ひ。又其の事心頭聞くより與に来り、しかじかの告げを蒙りたり、さすれば双方替らぬ御霊夢なり。人は兎も云へ、六月十七日を待って迎ひ奉るべしと約を成して、其日を待ち受け、唯二人世上に忍びて水嶋の方なる洲崎に出て、船や来ると待ち居ひける。程なく一艘の船河口に帆を下げて入津しけり。向ふの船より船頭と覚敷者、苫を上げて云ひけるは、夫れに二人もの待ち給ふは、若し和多田村の人にてはなきやと、二人は其の尋ねらるは仔細もや候はんと云ひければ、和多田村と云ふ処の人にて候はゞ用事有り迚て、端舟を卸して其二人の者を元船に乗せ参らせたり。夫れに付不思議成る事有り、夜前夢の内に、正しく此観世音我が枕元に立ち給ひ、明十七日は唐津に潜着岸すべし。和多田村と云ふ処の者出迎ふべし、彼の者に渡すぺし、此船に仮りに乗ると雖も是れ因縁深き故也。商売繁昌・船中安全を守るべしと宣ふと、夢見て覚めたりと語るければ、二人を始め船頭も有難泪を流しぬ。夫れより一礼を述べて宿所に帰り、運賃を持参して又船に行きけれども、運賃を取らず是非に断るにより、其儘戻りぬ。此訳を聞くより所の者取り寄り尊崇し奉りけるなり。



六 源太夫判官の石碑

 お久様と云ふ石塔千々賀村の内甘木谷にあり。波多家の時此邊の松浦黨、渡邊久の拝塔の為めに碑を建てし処也。石志清水の舘より布を引き道作をせし処也。真言宗千々賀山・甘木寺の境内也。波多氏の由緒ある大寺なりしが、波多家落去巳後一族散々に成りければ、寺も破壊して山伏に替派し、甘木坊と號す、其跡今に相続せり。



七 西行法師飛上り石

 西行法師飛上り石とて河原橋の下に在り。川岸養母田の方に有之、何時頃より云ひ傳へたるにや、此説異説なるぺし。往古より云ひ傳へし事なれば、爰に記し侍りぬ。



八 皷か瀧

 山本組山田村に有り西行法師の歌に、昔に開く皷か瀧に来て見ればたゞ山川の鳴るにぞ有りける



九 心月寺持田地の事

 往古は郷方物書すくなかりしにや、検地の時、心月寺住寺を頼み、水帳を書きし也。其節志州廣忠公、庄屋に心月寺を呼出され話の上土地の位下げ、持地に送られし也。



十 心月寺什物

 波多三河守前室、法名心月瑞圓大姉、墓所本堂本尊の下也。同寺什物、瑞圓大姉之琵琶、夢中飛入之観世音、瑞圓大姉の懐劔、瑞圓大姉の操珠数、波多相模守の鎧、天笠傳来苦行の釈迦



十一 秀吉公名護屋御在陣の節の御定

 波多三河守へ五奉行より出でたる書面あり、其文に

       定
 往還の輩一宿木賃の事、一人一文、馬一疋二文宛取りの宿を備へ置く可き事。
 糠・藁・薪・草履、以下一切不出事。

一 町人百姓に対し、非分を於申掛は可不被聴之事。
 右條々於遠背之族有之は、搦取可被加誅罰候、若し見隠し、聞隠すに於ては、以後被聞召共、其処にて町人百姓、共に可被加成敗候。
 文禄元年正月



十二 鎮西八郎為朝造立の石碑

 鎮西八郎為朝心在って、大伴狭手彦石碑を黒岩村醫王寺の後山の上に建つ。醫王寺の開基は、道元大師の弟子無菩和尚なり。又筑前上座郡小石村に八郎為朝、狭手彦の父金村の石碑を建つ、此寺も無菩の開基なり。其石碑在る所に.無菩此両寺院を建られし事不思儀なり。
 此趣に依って按するに狭手彦は数多の乱を治めて其勇いちしるし。實に智仁兼備の良将なれば、為朝も動功を慕ひたるなるべし。



十三 見帰りの瀧

 伊岐佐村より帰る瀧道難所也絶景の瀧なり。瀧の道筋に作物の愛染明王、また三光大権現の御社有り。何れも八並の守護の神佛也。



十四 伊岐佐村古戦場

 建武二乙亥年足利尊氏、九州に没落の時、筑前國大宮司氏一番に附属して城内に請し、九州の諸士に檄文を廻しけるに、岸嶽の城主松浦源三郎繁、考るに、天地の間大君の地にあらずと云ふことなし、人として天恩を知らずんば有る可からずと心を決して、弓引て叶はすば城を枕に討死すべしと、味方の色を見せりけり。一統の中よりも下松浦黨追々走せ集り、尊氏に相随ふ。其中より尊氏に告げけるは、松浦繁は菊地に力を合せ、一人内通するよし、小身と雖も松浦黨の長也。是れも随へ給はずば、後必ず過ち有らんと訴ふ。尊氏原田山城守をして味方に付けんとすれども、更に随ふ気色見へざれば、其旨尊氏の聞に達しぬ。尊氏も甚だ悪みて、諸士へ見せしめの為め捨て置き難し、誰か有る踏潰してくれん物をと、四方を急度見しければ、尊氏の甥満輔進み出て、厭はくは我をして向はしめ給へと望みけるに、尊氏悦びて其事を許せり。直に軍勢を進めて、大川端伊岐佐山に陣を張る。岸嶽にも素より思ひ設けし事なれば、手賦を定めて出張す。最初失合せをして、後ちは両陣入り乱れ、上よ下よと戦ひけるが、巳に夕陽西に傾きければ双方陣を引き、明朝未明より押寄せんと夜の明るを待ければ、松浦黨の中より和睦を進め、味方させんと尊氏に望みければ.許容有ってさまざまと説ひて降参せしむ、其一日の戦ひ双方討死七十五人なり。其の場所の跡を陣の山と云ひ、又麓の田原を軍場と云ひ、今に所の小名なり。



十五 道祖神之事

 往古、筑前國名島の商人佐嘉領に行きしに.道の邊りに社有りければ、詣ひて此度の商ひ利潤を得させ玉へと立願をして通りぬ。果して其所より先々商ひ仕合せよかりしに、帰りさに此社の前を通りける時、此社壇に商ひの仕合せ、よかれがしと祈りを籠むれども、銘々の仕合次第也。神の力にても及ばずと、拜礼もせず其処を通りしに、此川端にて狂気の如くなり、立願の初めより経る迄の事をのゝしり、狂ひ死たりける也。其後此村の者に託して宣はく、我れは是れ則ち道祖の神なり、汝等仔細を知らざるに、処をさはがし、大悪賊を亡して、世に善を求めさせしむ。今より此処の道の邊にて不時の難を救ふべしと云ひ畢り、前後も知らず伏しけるに、暫くして夢の覚めるが如くにて、又元の平気に戻りぬ。此故に其場所に道祖の神を祭りて、さいの元と云ふ。八並武蔵守の守護佛本尊なり。



十六 梶山村緑山並鯨岩

 朝鮮渡来の緑丸と云ふ鷹、其海より来りしを百合若大臣此山にて取り得られしと云ふ。此鷹無双の逸物なりとかや、此近邊に鷹取村と云ふ処あり、又筑前國夜酒郡上鷹場村の内に、緑松と云ふ木あり、久光村の内なり、其隣れる処に、鷹場・鷹揚と云ふ処あり、世俗此所より緑丸前羽を梶山村にて取り得しと云へり。
 又此所に梶山上総介の墓あり、其形鯨に似て大なる巌なり、其邊に逆さま川と云ふ所あり、是の鯨岩連歌師宗祇、九州行脚の時、発句に依て名付しなり。



十七 字津瀬川

 古跡なり中将姫の父豊成大臣九州に流され、配所のつれづれに此所に来り、其の身の姿水鏡に移して、是れを書き故郷に送れり。



十八 清水伊豆守守護佛

 清水観世音と申奉る此所を清水の館と云ふなり。



十九 玉之橋

 田中村に有り、往古は大川薗より、此川筋橋の下を流る、志州公堀り替へられ、今の所に成る也。



二十 龍谷山瑞岸寺

 寺號を瑞岸寺と云ふ、禪宗也。徳須恵村に有り、本尊観世音、牧渓の作佛と云ひ傳ふ、波多三河守代の大寺なり。



二十一 鎌倉嶽

 最明寺時頼入道諸國修行の時此上に安座ましまして諸方を遠見し玉ひしは是れ竹有村の内也最明寺諸國遍歴の事跡正しからぬにや。



二十二 馬渡池

 徳居村にあり、今は少しの池なり、馬渡信濃守館跡なり。



二十三 太刀淵

 同村に有り、岸嶽御祈祷の為め、太刀を集め檀を飾りし時、此川にて悉く清め洗ひしなり。



二十四 佐々木美濃之介屋敷跡

 稗田村の内に有り、安藝坂と云ふも同所也。



二十五 奥之坊

 同村にあり、岸嶽城始りよりの祈祷所也。中津町・鐵砲町・隠水・蓮華院・極楽寺・蓮御寺・厩別当・蓮池・厨坂・皆稗田村の内に有り。



二十六 常安寺

 岸嶽村に有り禪宗なり。此寺今井新左衛門尉の(法名常安居士)の開基也。



二十七 岸山村の古跡

 大門口橋・馬場・遊女町の跡、岸山の裾に有り。城山一・二・三曲輪・腰曲輪・外曲輪・茶園の大原、八町の所侍屋敷跡.古城外目録に出づ。此東に当り少し下り、水ノ手と云ふ所出水有り。城山より南に当り米ノ山、往古大敵を引き受籠城の時、数日囲みを解かず水ノ手を止めたり、此山にて白米を以て余計の水を遣ふ体に見せし所也。
是れを米ノ山と云ふ。麓の川をモスソ川と云ふ。里に下りて車川と云ふ、本城にも水石二つ残れり、所々石垣たしかなり。一の堀切迄、長さ三十三町なり、二の丸長さ四町、本丸橋一町半、東の方三左衛門丸、追手佐里の方、搦手岸山の方なり、侍屋敷所々にあり。
 
 長崎奉行牛込仲左衛門、徳居通りの時、山彦村弦掛け岩を見て詠める
 千代萬栄ゆく里は松浦なる、亀か巌の高根しらしも
と書て、扇子を山田村庄屋仁左衛門、道案内に出でけるに取らせける。是れより此の岩を亀か巌と名付けらる。



二十八 盛家松

 盛家松は立川村に有り、則ち墓所也。初の名は犬塚弾正忠鎮、後播磨守盛家と名乗る、阿部宗任の末葉にて、龍造寺山城守隆信の旗下也。足利尊氏九州に没落の時、伊岐佐村にて戦ひ、軍さ破れ此所にて自害す。四五町上に経石塚有り、盛家菩提の為めに、類葉のもの執行せし所也。



二十九 太刀洗川

 立川村に有り、少しの出水也。此所は日在城の戦ひに太刀をひやせし所なり。



三十 烏帽子嶽

 同村の内に有り、盛家軍戦ひ疲れ討死と極めて、烏帽子を此上に脱ぎ捨て、甲冑を掛けたる所也。最期の軍は花やかにして討死すべしと、再び烏帽子を戴かずして打て出て、敵数輩撃ち取り、後ちに自害す。龍造寺の旗下の英雄にて肩を並ぶる人なし。



三十一 寶亀山建福寺

 寺號を建福寺と云ふ、大川野今御茶屋敷也。往古眞言宗にて、日在城祈祷所也。霊々たる寺成りしに、日在落去巳後、自然と寺崩れ、其後田代可休と云ふ者の栖家と成りしに、可休無實の罪にて長野の原にて御法度に被仰付、夫れより庄屋宅となる。寺澤志摩守総庄屋取立の節、初めて平山村庄屋十五右衛門に被下、其後息兵庫頭の代に御茶屋となり、諸山の修験者等に祈祷を仰せて地方を持ち替へ、定奉行相詰めて差図有り、改めて普請成就せり。



三十二 駒鳴峠

 駒鳴村に駒石と云ふ所有り、坂半也。石の形ち駒に似て夜毎に聲を出しける故、往来の者甚だ恐れ、此故に石工を以て胸のあたりを割れり、其後ち件の駒石鳴かず、故に古人より名石と云ひ傳へぬ。其の昔は此山道もなく深樹生茂りたり。大川野四太郎遊と云ふ人、此山を切通し往還と成す、依って此山を駒鳴山と云ふ。或る説に、鎮西八郎為朝黒髪山の悪蛇退治の時、龍骨を馬に負はして此坂を越へしに、其馬重きをかなしみ、泪を流し鳴くと云ふ、是は異説か。



三十三 弦掛け岩

 大川野眉山より出し悪牛退治の時、渡邊源太夫此所にて弓弦を掛けし所なり、委しくは牛祭りの記に出づ。



三十四 田島大明神 松浦古事記参照



三十五 佐用姫神社 松浦古事記参照



三十六 芝居根元

 太閤秀吉公、名護尾御在陣の節、筑後國久留米に山三郎と云ふ者夫婦、都より来り物まねをし、様々の戯れ事を興して、一銭の合力を得けるを、曾呂利新左衛門と云ふ者見物して、太閣秀吉公の台聴に達しければ、則ち此者共を呼せられ名護屋の御城に来りぬ。此山三郎と云ふ者、難波の揚屋にて、若者をもてなし、其頭の太夫に難波江と云ふ、傾城にいつとなく馴れ合ひ、大阪を出奔せり。夫れよりさせる渡世もなく、人の興に乗じける節を業として、緒國を廻り、忝くも太閤秀吉公の御前に出て、一日興を催ふし、御機嫌斜ならず、在陣の大小名上下小者に至る迄、廣野にて見物す。芝原に畳を下し又毛氈を鋪いて群集し、下賤の者どもは芝原に並び居りて見物す。此の時芝の上に並居りて、其藝を見物せしにより芝居とは名付けたり。又子踊りを興しける時、鳥の*の鞘をも下され、天神楽の拍子を興しける時、取敢へず猿示の幣を下されたり。是れより人集めの太皷をあげて、此品もさし出し、御免芝居と號して、遠近に響かせり。是れ今の梵天なり。夫れより御帰陣の後、京都にて御覧を蒙り、名古屋山三と看板を出して、当世芝居をぞしける。此者四條河原にて其藝をせし故.河原物と云ひならはし、当御代の今に至るまで、繁昌なり。後江戸にては中村勘三郎と云ふ者、願ひを出し、是れ又繁昌し、又夫れより別れて市村羽左衛門と云ふ者出来、堺町の両芝居とはなりぬ。其後段々諸國津々浦々迄、枝葉栄へたり。
 又浄瑠璃は、秀吉公の侍女阿通と云ふ者、牛若丸と、矢作の長者が娘浄瑠璃姫との事を編みて書となし、十三段とす、其後京都の瀧野検校と云ふもの、此十三段に節をつけて語り初めたり、是れより浄瑠璃の名あり。



三十七 醫王山東光寺薬師尊縁起

 相賀浦薬師尊には往昔千原か浦のこなた成る、淵の上に立たせ玉ふ、御丈二尺にして弘法大師の佛作也。此寺醫王山臨済宗東光寺と號す、今相賀浦に移らせ給ふ。その古事を尋ね奉るに、承安二辰の年洪水にて淵上山崩れ落ち、此の時薬師尊海中に入り玉ふ。其後所々尋ね奉りけれども更に其尊像見へさせ玉はず、三年を経て同四甲午年、海中に夜な夜な光りを顯はし給ふ。見る人恐れて其近くに寄る事能はず、只評議区々のみなり。或る時染衣の旅僧何れより来るとも不知、此の浦に止宿して、其海中の光れる事を聞いて云ひけるは、まさしく是れは佛作の霊作成るべし、かゝる例し世に間々有る事也。必ず恐るまじとて其海邊に出て、読経しけるに弥増し光り日中の如し、自然と浪静かに成ると覚へしに、則薬師の尊像顯れ給ふ。夫れより夜の明るを待ちて、浦人共海中に飛び入りて此像を捧げ奉りあがれり。則ち其所の領主へ訴へて、小堂をしつらひ安置し奉りし也。其の由淵の上村の者ども聞き付け、尊像を迎ひ奉らんと望みけれ共、相賀浦より許さゞりき。猶此尊像は、弘法大師天暦五丙寅年より頻りに入唐の志を発し給ふ。折しも佛尊に祈り給ふには何卒ぞ我れに離塵の大善法を得させ玉はゞ、帰帆の後ち一異木を以て、七体の尊像を作り奉らんと、ふかく誓はせ給ふ。故に大同元年帰朝し玉ひ、阿尊本不生の善を得玉ひて、則帰朝の後作り奉られし七体の中の一体なり。其の余の六体逢来りて摂州有馬の陽山・讃州小濱、因州鳥取、肥後法華嶽、筑州竪粕、今怡土松浦の境淵の上に安置し奉られしなり。承安前後の頃は、大府草野氏、岸嶽波多氏、二重嶽原田氏、皆縁者たりといへども、取ひ合ひ度々にて、自然と穢土と成るける故にや、此相賀村に移り玉ひしより、今に至るまで霊験あらたなる事、算へがたしと云ひ傳はれり。縁起にも不思儀奇妙の事ども書載せ有けるを、猶又是れも諸人に勧善懲悪の為書き載せ侍りぬ。
 文徳帝の御宇、仁寿三癸酉年住職の盛巌和尚、熱病にて露の命もはかなく消んと思ふ折から、薬師尊白衣の老翁と化し玉ひて、脳み臥したる床のもとに来らせ給ひて、奇妙の薬酒を與え玉ひければ、身心とも忽ち快くなれり。其老翁はいかなる人とも知れざりければ、薬師尊の助けにやあらんと、拝し見るに薬を與へ玉ふ時の茶碗、御手に持居玉ひければ、直に此尊像の御助けに疑ふ事なしとて、泪を流し、拝謝し侍りぬ。其夜又霊夢を感得せられよし、古記に見へ侍りぬ。
 天正十六年戊子正月三日、大鐘の龍頭より火出、本堂の棟木よりも一時火出、諸堂悉く焼失せり。諸人曰く奇妙成る有難き鐘成るを、不浄の穢ある故、守護神の咎めもやと風聞しけり。又薬師尊者誰しも出しも奉らずして自分出て玉ひ、石上に立ち光四方を照らし玉ひね。
 慶長元丙申の年二月中旬、寺澤志州公妙なる鐘なるよし聞き召され、唐津の城内に取り寄せ、時の鐘とし玉へば忽ち聲止まりければ、薬師尊の御心に叶はざるにやと、又東光寺に送り返し奉りける由。
 文徳四乙未年八月下旬豊後國、直川宗清といえる人、癩病を祈りけるに、白片出て忽ち平癒しければ、有難き思ひをなし、神田村南昌庵主に頼み、彩色し奉りぬ。後光巌院帝の御宇、延文三戊戌年八月八日、大同元年丙戌より五百五十二年に当って開扉し奉りぬ。其復貞享丁卯年二月八日より三月八日迄、開帳有りと古記に出たり。延文三年より貞享四年迄三百二十八年に成るなり。大同元年より寛改元己酉年迄凡千三百年に成る也。



三十八 湊浦潮音寺

 如意山潮音寺観世菩薩は安元元乙未年、小松内大臣重盛の願望にて難波の浦より送り奉られし霊像也。是則ち重盛公世の盛衰を観して、同年六月三千両の小金を育て、玉ケ鳥に送られぬ。此内大臣は世挙げて本朝の聖賢と称せし人也。此観世音の一佛、此浦に上らせられし由来を尋ね奉るに、其頃此沖潮の鳴る事数々にして、金色の光りを放ち、其近邊に妙なる香気止む時なし。此浦の漁夫ども奇異の思ひをなし、同夜評定区々なり。爰に萬吾萬六兄弟の漁夫あり、出るにも入るにも、兄弟連れにて釣をたれ、網を卸ろして世を渡りけるが、此兄弟の者は生得律儀にして、島浦には稀なる者共なり。二人囲炉裏の前に有って、四方山の物語りの席に、弟の萬六が云ひけるは、斯く兄弟心を同ふして漁事をして世を渡りけれども、家乏しき事外にくらべる所なし。たまたま先祖を祭るといへども、漁事の價の残りを以て漸く香花を拵るのみなり。願くはいかにもして渡世を替へ、一生を送らんものをと云ひければ、兄の萬吾が云ひけるは、生ある魚類を殺生して世を渡る事を恐るは最も成るべし、されども父母の仕業を受け次ぎ、兄弟も其風味にて育ちしなれば、其業を改むるは不孝とや云はん、いざ潮の来りければ網せんとて、又兄弟打連れ立てぞ出でにけり。然るに此頃潮の鳴る音甚しく、金色の光り顯はれし事不思儀なり。何れにせよ、網を下し見ばやと、則ち下し見けるに魚一つもとまらず、此尊像を忝くも賤の網にかゝらせ玉ひければ、兄弟は驚き舟端にあげ奉り、禮拝尊崇して直に賤の草家に請し奉りければ、近浦の漁夫、遠近の親類、奇異の思ひを成して兄弟が家に群集して、彼の尊を拝しけり。近浦の者共兄弟に云ひけるは、早く小堂を建て、此尊像を安置すべしと。されども兄弟は家貧しく、朝暮の糧さへも絶へ間がちなる住居なれば、其のいとなみ叶ふべきにあらざれば、深く是れを歎き悲み、是非なく貝鱗の穢に交へ安置し奉りけるを、近浦打寄りて小堂を建立して、此尊像を移し奉りぬ。其後霊像示現し給ひけるは此穢を精地にかへすべきに依って、三日之内に炎上の変有るぺし、用心覚悟すべしとや。果して彼小堂も類焼あり、尊像は火煙の中より飛出で玉ひ、少しも損じさせ玉はず、楠の伐株に乗り玉ひつるこそ奇妙なり。又寛永四丙丑年蘭濱と云ふ沙門来朝す。此僧に随身せし恵教法師、西海に行脚の時此堂に夜泊して、此尊像を拝み寺號を尋けるに、守奉る僧もなく、元より観世堂と称したる計りなれば、其由を語りければ、恵教法師筆を取って、如意山潮音寺と、此尊像の因縁に依って、壁面に書付て立てぬ。恵教和尚の師蘭濱は大覚禪師と號して、鎌倉建長寺の開山なり。其後この庵寺號を改め、建長寺の末山と成らん事を望みけれども、平民の祈願にて送り奉りし尊像なれば成就しがたく、此事空しく止りぬ。重盛公此尊像の内に、金子百両宛を御厨子料として封じ込め置れし也。夫れり星霜隔りて、應永四甲戌年、洛陽に再興有りしに佛像師、金子を抜き取りしとかや。此者狂乱して洛中洛外を狂ひ廻り、金銀を遣ふ事土砂の如く、堂上に登りて、御供をつかみ喰ひ、経文を喰ひさくなど、其近邊にて制しかね、終に将軍義満公の上聞に達しければ、直に召捕られ獄に下されたり。此観世音は肥前國湊浦に下り給ひぬ。其百両の金子には、小松内大臣重盛公の法華経一部を書写して納奉られし、大願成就の尊像なり。今此霊像に歩みを運ぶ輩はいかなる願望たりとも叶はずと云ふ事なく、異現当来の光明、頭上に耀く、奇妙の霊にておはします。



三十九 ヒバカリの茶碗

 高麗人の焼物師、日本に来りしを、太閤秀吉公日本人の名をかたどり太郎冠者・小次郎冠者・藤平冠者と云ひ焼物師の祖として所々に置れ、其名を其所の地名とせり。高麗より作り持ち来りし焼物を、日本の火にかけしにより、其焼物の名を火計りと名付、又唐津ともいへり。



四十 平判官康頼の詠歌

 治承元年酉六月、俊寛僧都・丹波少将成経・平判官康頼・薩州配流の時、波戸崎にて都の方をふりかへりて康頼の詠める歌
  かくばかり我か身の程は忘れても
       猶こひしきは都なりけり
又薩州の配処にて
  薩摩潟沖の小島に我ありと、親には告けよ八重の潮風



四十一 岩野山王権現

 打上組岩野村産土神は山王権現の鎮座也。此村元は大久保村と云ふ。慶安二己丑年、播州明石より大久保加賀守忠秀、本高八萬三千石より唐津へ御入部、己酉年迄二十一年、嫡男出羽守忠朝御家督、延寶六年戊午年総州佐倉へ御所替へ有り。此大久保氏唐津御在城の時、山王権現の宮は無之哉と御尋と成候所、此岩野村に有、又村名も大久保村と申候得共、殿の御名字を禪り近頃替候よし及言上候所、不思儀に被思召、右宮の舊記御尋被成候得共、何つの頃勧請いたし候哉不詳。併し大久保村に殿の産神山王権現座す事、不思儀に思召、社を御造被成、尚追々御寄進も可有之所、御所替にて普請止む。其時の棟札今に存せり。



四十二 小川島鯨組

 小川島は唐津より七里戌亥に有る小島なり。往古は無人島にて、島中に池あり、竹林の中に大牛住みて人を寄せざるよし、其牛死して後池も埋み、追々人住み島となり、鯨組相続にて繁昌なり。享和年中民家百二十戸に及ぶ。寺澤公唐津城御受取りの頃、鯨組思召立玉へども漁師なき故、紀州熊野浦へ漁夫雇に遣されし御状、呼子浦へ所持の者あり。其後、兵庫頭・加賀守末々に成りて、其業を成す者諸方より来り、別て大村領松島組の大祖助次郎と云ふ者、指南致す。初め小舟八艘にて突き初めにて、其後舟も追々増しチロリと云ふ小網出来、無程今の大網と成り、十五人乗りの勢子船三十隻程、双海船四結びにて、大船は八艘、網は用心物共に二百反程と云ふ。八十九尋四方也。常に納屋中船とも、八百人の人入込み有り。鯨取り候時は、又三四百人も増し、以上組出し迄、正銀凡そ五百貫目位、仕込入用也。



四十三 西行法師腰掛石

 入野村にあり。筑前続風土記に、西行法師に筑前國、鏡の御崎より都に帰られんと、自讃の記にありと書く。
然れども筑前より入込の國々、諸所、西行法師の舊跡多し。西行の詠歌に
 松浦潟これより西に山もなし、月の入野やかきり成るらん



四十四 木の葉石

 針木浦の上に有り。西行此所に来り木の葉打敷石上に腰をかけ、遠望されたる所と云へり。則石の中に様々の木の葉の形あり、其石を割りとれば、石の中何処までも木の葉裏表までそれぞれ不思議なる石なり。



四十五 日高の塔

 入野村にあり日高大隅守の墓所、入野にて討死。



四十六 波多三河守墓

 三河守墓所入野村にあり。是れ残黨所々に住して村役となり、或は山伏と成るより、一族並に旗本の面々、大翁了徹の日影をうつせし石碑なり、本墓は御厨にあり。



四十七 星賀和泉守墓

 星賀を領したる人なり。石垣高さ一尺五寸、方六尺、碑はなし宗牧の地と云ふ所なり。



四十八 入野の眺望

 入野村は五島対馬の外、西國の端なり、平戸の島と隣れり。源の顯國朝臣、宇佐・椎香・諸々の所より高麗の境を見んとて、此の入野村まで来りて、かくはよめり。

 和田の原高麗路はるかに見渡せば、
      雲と波とはひとつなりけり  刑部卿頼輔

 秋風も入野の空も鐘の音も、
      哀れは西に限るなりけり   細川幽齋

 道遠く入野の末のつほ*、
      春のかたみに摘みて帰らん



四十九 中浦半太郎の墓

 中浦村に有り同村を領したる人なり。



五十 熊崎照の墓

 中浦村にあり、木場村を領したる人なり。大友宗麟に従ひ筑前國隈崎に居住す。宗麟切支丹を行ひけるを見限りて身退き、もと松浦黨故、岸嶽に来りて木場の城に住す。



五十一 順慶松

 筒井村にあり、筒井順慶此処の産れと云えり。俗名を丈之助と云ふ、才智藝能学ぶに窮めずと云ふことなく、其家に傳来の一軸有りけるを倩(ツラツラ)考ふるに、望みを起し、十四歳の時父に云ひけるは、我家まづしくとも、筒井山城守の後胤なり、先祖の武功は厚し、夫より後愚弱にして中頃家を興すものなく、今は土民耕作の境に落ち入たり、希くば暫しの暇を給らば、都に登り家名を興し、孝節を備へ奉りらんと、頻りに望みければ、両親此事を免ぜり。十八才にして此の筒井村を出て、其時植置たる松なりとぞ、廻り一丈に及べり。此人出世の後大和の國郡山の城主と成り、十八萬石を領せり、此事は慥か成る事と見聞せず。されども豊臣秀吉公の取立給ひし大名多く、石田・福島・加藤・堀尾・小西・蜂須賀等、其外数多りしが、順慶も筒井村の産なるや別に實否を糺すべし。順慶松と云ひ傳へたるも不思儀なり、但し筒井村を領したる人か。



五十二 鶴田太郎左衛門尉の墓所

 筒井村に鶴田太郎左衛門の墓所あり。松浦黨と雖も訳有って、波多家落去の後、太閤秀吉公より御取立、松浦残黨押へとして條後の城に置れけるなり。其家老の松尾左近太夫の墓も同所に有り、則ち其所を松野尾と云ふ。



五十三 土佐殿松

 筒井村に土佐殿松とてあり、大なる松道の側に立つ、如何なる人とも知れず、追て尋ぬべし。



五十四 佐用姫屋鋪跡と云ふ事

 佐用姫の屋敷跡とて、唐の川村の間にあり。佐用姫は九州無双の美姓にて、玉津島大明神の御託宣に依って神社と崇む。日本紀・八雲御抄等に佐用姫は篠原長者の娘とあり、考ふるに松浦部の中なれば、佐嘉領の境にある篠原を本説とすべし。笹原村の邊りに長者原と云ふ所有り、是笹原長者の屋敷跡と云ひ傳ふ。此近邊に名残の坂と云ふ所あり、狭手彦入唐の時、篠原長者の一門、狭手彦見送りの盃をせし所也。其古へは名残りの酒と云ひしとかや、慥かなる狭手彦の舊跡なり。唐の川は世俗の異説なるぺし。



五十五 鎮西八郎為朝の舊跡

 石碑は湊の部に出でたり

 鎮西八郎為朝志気村に居城し、九州二島を鎮し、此所に御都築関と云ふ古跡有り、是れは天智天皇筑紫の都の時の関所也。其後鎮西八郎為朝の居城の時も、此処に関を置きたり、下馬の大原・馬屋のもと・失竹の林など云ふ所あり、足れ皆為朝の舊跡也。



五十六 乱れ橋の鴬

 乱れ橋は古河村の上にあり、少の小橋なり。此所にて鴬をとりて、豊臣秀吉公に差上げしに、珍しき鳥にて能く囀けりしと、又毛色に三光の模様有りしなり。
 今も此所鴬多し、余所の鳥より掛け目一匁宛重しと云ふ。川西より大川原に越る道に、草つみ峠と云ふ所あり、難所なり、此道筋二十丁計り人家なし。



五十七 池の峠領地分けの事

 池の峠は伊萬里・波多領の境なり、昔し双方より出合の所、境の関を建つぺしと、双方に家臣を二人宛入れ替置き、鶏の聲を相図に出立せり。岸嶽の鶏霄に鳴く、是れに依って乗出せしに、伊萬里白野と云ふ所に至りければ、漸く松浦兵部太夫に出合たり。双方大笑ひにて峠の下迄戻り、互に盃を出し数盃を傾け、辨当の栗の樹の器を立て置きしに、其に根を生じぬ。今に其所を出合野と云ふ。栗の木多し。去れども實なし。其後兵庫頭落去以後領内と成り、共時齋藤源太・峠の尾崎に境を立て置かれし也。



五十八 推峯焼物

 椎峯山は、往古文禄慶長の頃、太閤秀吉公佐志山にて焼物を作らせ、其後稗田山にて焼き、又川原村にて焼き、元和年中椎の峯に来り、子孫代々相続しける也。毎年四月八日先祖居住の初日に当るを以て、高麗祭りと云ふ事有り、供物は糯・粳米を等分に和して、ヒき荒水篩(スヰノウ)にて篩い、厚さ三四分にて、能くむし、後小豆を煮てすりつぶし、物の上に付る、但し塩少しも不入、鐵庖丁を不用、竹べらにて鱗形に切り、味噌汁につけ、手一束にして此両品を供す。客人にも出す。是れを高麗餅と云ふや。



五十九 木場城

 永仁三年、九月探題北條兼時の目代として、松浦播磨守を呼出し、筑前國隈崎の城に居を置たり。其後代々熊崎の城主たりし。大友宗麟の時に当りて、熊崎駿河守此所を退き、松浦郡木場村に館を築き住居せり。其隈崎を退きし固意を尋るに、宗麟専ら邪蘇宗を信じて神社佛閣を破却し、我意を振う事傍若無人なり。駿河守偖思ひけるは、今此宗鱗に属せし事、天神地祇の御罰こそを長しけれ、如何にもして此隈崎を退かんと思案を廻らせし折から、宗麟隣國と戦ひ出来し、軍勢を催足しけるに、駿河守虚病にして出でざりければ、宗麟怒りて軍陣の首途出として、隈崎の城に押寄せんと其支度をなしける。駿河守は書翰を認めて罪なき由をいひやり、城を明けて岸獄に来れり。其後岸嶽の城より、木場・中浦の内を分けて居城を築かせ、旗下として差置きぬ。それより隈崎駿河守照連続して住居せり。其後、筑前隈崎の城跡再興して、長崎の家臣井上周防守居りたりしに、公儀の御触に依って、元和元年に破却す。
 城野尾域と云ふに、隈崎豊後守源信有り。家老は西川半之丞。



六十 いろは石

 大黒川村の内にあり、世俗、弘法大師の筆跡なりと云ひ傳ふ。石面に文字様のもの有り。



六十一 飛太郎岩

 黒川村にあり、往昔天狗の折々来る所と云ひ傳ふ、高き巌なり。



六十二 響の灘

 高鳥の沖より豊前州小倉の間を響の灘と云ふ。惣じて海上に灘多し、周防灘・備中の小島灘・播磨灘・遠江の天龍灘、皆其國其所の名ざして云ふに、此海ばかりは筑前灘とも肥前灘とも云はずして響の灘と云ふは、如何なる故ぞや。或人云ふ、筑前の鐘の御崎に因みて響の灘と云ふと。又或説に播磨灘と響の灘と云ふは、此海にあらず、玉葛の謡に「たよりとなればはや舟に、乗りおくれじと松浦潟、唐土船をしたひしに、こころぞかはる我はたゞうき島を漕ぎ離れても行く方や、何(いつ)くとまりと白波に、ひゞきの灘もすぎ.思ひにさはる方もなし」とあり、是れ其の證なりと云ふ、又或説に、神功皇后三韓を征伐し給ふ時、筑前の國船木山より、日本無双の楠出でたり、此楠一本にて軍船四十八艘を作りて、此の灘より三韓にをし寄せ給ふ。日本國中の諸神顯はれ給ひて、首途の閧の聲をあげ給ふ。其聲海上に響きて、新羅・百済迄も聞へしなり。此時に八百萬の神々、神集島に集り玉ひ、異國退治の法を修し給ひぬと云ふ。別て住吉大明神、荒御崎の御神、和田津海の大龍王、大船を守護し給ふ。鹿島大明神は楫を守り、住吉大明神は帆を守り、金剛龍神は風を起し、浪をひらき、荒御崎の御神は瀬々をひらき給へば御軍船前後穏かなる事泉水の如しとかや。
 高鳥の沖は唐津より北也。諸名所古記に出づ、神功皇后三韓征伐の時より出し名なり。是に説あり、新羅より御凱陣の時旗物印を于し給ひし所、劇しく翩飜しけるにより、帰朝の威を示し、灘も響くと武内宿禰宣ふより、引て閧の聲をあげしにより、皇后灘も響くと宣ふ、故事とも云へり、いづれ皇后の舊跡なり。

  浪風も遠く響きの灘をさけ、浮世の外に渡る舟人



六十三 衣干山

 神功皇后三韓より帰朝ましませし時、旗印等を于し給ふ所故に衣干山と名付けり。則も武内宿禰絶頭に登り給ひて見給ふに、折しも風はげしく、于したる物ひるがへれり、灘も響くなりと、帰朝の威を顯し玉ふ故、此見渡しを響きの灘とは云ふなり。此宿禰は筑後國高良大明神也。



六十四 唐房浦の由来

 成尋法師入唐したる時、母より名残を詠じたる文を送られ、其中に片見ともならんやと、袈裟のふくさを封じて
  忍べども此の別れ路を思ふには唐紅の涙こぼるゝ
  後白川院の御宇保元二丁丑年、俊成卿千載集を撰しに此歌を見て、皇帝あはれに思召し、集にさせ玉ひしなり。
 母の待女は入唐の噂さを聞き、悲しくも思はれしに其の沙汰に及ばずして放立けるにより、ふみを認め、人をして跡をしたはせ、此所にて成尋に逢ひければ、侍女の文を渡しぬ。入唐の折から、袈裟の房を送り、歌を詠みやられしに、其歌千載集に加入し玉ふ事、目出度舊跡なればとて、後にからふさの浦とは名付けぬ。今は唐房と訓して其故事をつたえたり。



六十五 梟師退治

 景行天皇十二壬午年、豊前國より船上りし給ひて、筑紫の西を巡行し玉ふ。時に人一人も見へざれば、西に人なきやと宣ひしに、肥前(肥後?)の國阿蘇大明神・肥前國田島大明神顯れ給ひて、此國になど人なからんやと答玉ふとかや。夫より又天皇西をさして行幸し給ふに、松浦の上、鰐か浦のこなた、白濱に出で玉ひき。然るに筑紫の熊襲と云ふ者、帝を害し奉らんと計り、追掛奉りければ、則ち皇子小碓の尊を遣はし給ひ防がしめ給ふ。尊女の形ちに似せ玉ひ窺ひ給ふ、熊襲の大将梟師と云ふ者、尊を見奉り、誠の女と油断せしを、尊つとよりて、さし殺し玉ふ。梟師驚きて、此國に我れに勝る強勇なし、然るに我れを謀って殺し玉ふは小碓の尊にてましますらめ。今より君を日本武尊と称し奉るべきと云ふて死す。相賀濱の事成るか未だ其所を知らず、去れども和鰐が浦のこなたと有れば其あたり成るぺし。



六十六 鰐が浦(湊浦)

 和珥が浦は今の湊濱なり。此所の海士の子、海邊に出でしに迷ひ子と成りければ、其母なる海士、濱邊に出て子の行衛を尋ねひれ伏て歎く、折ふし見知れぬ男来りて、何を悲しむやと間ふ。海士答へて云ふは、我夫に分れて男子ひとりを産み、其子成長して七つに成りぬ。其子此濱にて迷ひ子と成り行衛知れざるを歎く、あはれ知り玉はゞ教へ玉へと云ふ。男云ふは我が妻とならんや其子を尋ね出し得させんと。海士嬉敷誓ひを成しぬ、其夜彼の子を連れて海士に與ふ。此男それより日毎に漁に出で、夜毎に数々の魚をとりて其妻に売らしむ、或る時、其所の漁師ども釣りに出でければ、海中に怪しきもの浮み出でたり、是れを見るに一つの鰐死してさまざまの魚をとり、妻の襷をつなぎくわへ居たり。其後海士の夫来らず、此鰐仮りに化して夫婦と成りしものならんと。是れを埋みて其浦を鰐塚と云ひぬ、其浦と鰐ケ浦と名付けると也。
 本紀に曰、景行天皇闇夜に船を乗らせられたる時、火の見へけるにより、御船を其所に着かせ給ひ火の國と宣ひぬ、今の肥前肥後なり、又天皇何國ともしらぬ火と宣ふの古事を以て、しらぬひの國とも云ふなり。
 又神功皇后新羅を討んと思召し、肥前國松浦郡玉島川にて鮎を釣り玉ひ、御櫛をすかせられ双方に分け玉ひ、男の形ちに成り、群臣と征伐の事を議し玉ひ、和珥の浦より御船を出し給ふと舊記に見へたり。比和珥の浦は今の湊浦なり。其後、三韓より貢の船此所に着たりしにより、湊の津と唱へ来り、御船出し時風甚だあらかりしかば、海中の大魚浮み出て、御船を差挟み守りければ、波風も穏かに成って、幾程もなく新羅へ着岸し給ふ。新羅國大に恐れて、是れは日本の神公成るぺしと深く信じ、防ぐ事能はず捕はれ人と成り、白き旗を立て降参し、永く日本の奴と成りて貢を捧ぐ可しと申す。皇后國中に入らせられ、財寶図書物を収めとり、皇后のつき給ふ鋒を、新羅王の門に立て、後世の印とし給ふ。又一説に皇后弓のはづにて、新羅國の王は日本の犬なりと書き給ふと云ふ。



六十七 鎮西八郎為朝の碑

       志気村の部にあり

 湊浦祇園宮の社内にあり、抑々此鎮西八郎為朝は保元元庚子年、鳥羽院の御宇に鎌倉造立の砌り西國鎮守として下りし時、鎌田治郎と云ふ者を此所の押へとして置きぬ。夫より所々巡行して、彼杵に暫く住所を定めたり。
 常に狩りを深く楽みとしける。或る時、黒髪山の池に悪蛇荒みて、さまざまの害を成しければ、此山に登りて夜もすがら待居たるに、頃は天治元甲辰年八月十八日、霧雨降りて十方を分たず、池水溢きりて中より光れるもの出て来れば、為朝弓に矢をつかひ、正八幡大菩薩、一矢にて退治させ給へと、ひやうと放つ、其矢あやまたず手とたへしければ、霧雨も晴れ渡り、光れる物を明りとして尋ねければ、忽ち眉間に中り居たり。此の鎮西八郎と銘したる矢の根、伊萬里の民家に持ち傳へて、其家の什物として有り。其後に後白河院の御宇、保元元丙子年崇徳新院・御謀叛に、為義の進めに依って御味方に走せ参り、軍破れて後為義・忠政等誅せられ、為朝は伊豆の大島に流され、二條院の御宇、永萬元乙酉年三月鬼ケ島を押領す、此鬼ケ島は八丈の内とも、又別島とも云へり。子孫其所に残れり。黒髪山悪蛇退治の故を以て為朝の碑を立つ、湊浦は鎌田老衰して庵室を結び、此石碑を立て、為朝の菩提を吊ひし所也。為朝は伊豆の大鳥にて、高倉院の勅命に依って嘉應二年庚寅四月自害し果ぬ。



六十八 石碑御尋の事

 土井大炊頭利實・號寶迫直院、唐津御城主の時、社司鳥越某に命有り、其社内に八郎為朝の塔有るよし詳に可申よしに、社司申しけるは、為朝の塔と申傳へ供物仕候計りにて、何事も申傳へなき由申上候処、亦々配所より被仰付候は、為朝は肥前國田野根にて終られ候由、前に小池有りと云ふ事迄も、殿は御存知有る間、村老にも聞き合せ、委細可申上被仰付候得共、外に申傳へ無御座由、脇に池は御座候段申上候、無名の五倫の塔にて御座候と社司申上げる。田野根と云ふ地名不知。



六十九 屋形石

 屋形石と云ふ事、仁平三癸酉年、鎮西八郎為朝黒髪山の悪蛇退治の時、墓目の法を行はれし折から、其蕪矢、石に箆ふるに立ちしとかや、此時退治の吉左右とて、酒宴を設け、其失跡末世迄残りし故に、矢形石村と名付けたり。亦一説に、為朝の家臣に鎌田平治と云ふ者を、近郷の押へとして湊浦に置きぬ。其舘を立てける時、此処の石を取りしに、此石名石にて割り取りたる石、一夜の内に元の如く戻りしと云ふ、いづれを正説とも成し難し。然れども為朝の舊跡、或は相違なきや、又家に似たる大石此村の端しに有り、此説如何。



七十 土器崎

 往古神功皇后、三韓征伐の時、諸軍勢此所にて出陣の首途を祝し玉ひし所也。往古は猶をも絶景成りしとかや、此所海中より見れば、瓦をならべし如き磯石有りければ、瓦崎とも云えり。是より下、何れも岩に船繋ぎのめくり夥多あり。是れ皆、皇后三韓退治の時、御船をつながれし所なり。御酒宴の内に、神集島へ諸神集り玉ひて、数千本の旗を飜めかし、御味方の色を顯はし玉ひける。此神集島に於て、今に諸神大日本の祭りを成し玉ふとかや。此の所狼がかりの岩、七つ竃と號して大きなる岩穴七つ有り、其穴に船を乗入るなり。行抜け近きもあり、又深き事何程と云ふ事しれざるも有るなり。往古より、此所和田津海の都、龍城の跡と云ひ傳ふ。此岩穴の内にいろいろの模様有るよし、七つともに其穴並べり。其岩の模様、其絶景成る事言葉にも筆にも盡しがたし。神功皇后首途の御酒宴の折、于珠・満珠の寶玉を捧げられし所也。其後、神集島にて金剛神の龍王顯はれ、御軍議談に加はられし也。七つの岩窟に模様ある事、凡人の細工にあらず、是皆龍城のしるしなり。昼も燈なくしては闇夜の如くして明かならず。此所、彦火火出見尊に見せ奉らんと、浮嶽に龍燈を上げられしも、此所よりの事なり。
 斯る不思議成る所、本朝に其類すくなく、幾千萬年の世を経て、里山近く成りし事にや、又世俗、御酒宴の時、厳島辨才天・舞を奏し給ひしと云ふ、此所の龍女顯はれて舞楽をつとめしにや、心をつけて此所を見るに、龍城とも云ふ可きか。



七十一 神集島

 此島は唐津より二里ニ十五町半、北の方に有り、島の内百五十間四面の湊あり、至って船掛りよし。往昔、神功皇后三韓に赴かせ給ふ時、武内宿禰・大伴武将・大矢田宿禰・此三将を用ひしめ、此処にて日本國中諸神に当敵退治、船中安全の御祈祷有りけるに、三日三夜風騒がしく御船出がたし。其後風穏にして晴れ渡わける、然る時、此島の絶頭物騒がしき、評議問答の聲有り。其夜皇后御夢の内に、八百萬代の神顯はれ玉ひ、御相見有りけり。諸神三韓御征伐の首途を祝し奉る、厳島辨才天舞楽を奏し給ふと御覧じて、御夢は覚めたり。夫より峯に登り給ひ、御征伐の御講談ましましけり。又翌晩御二神の評議を御見聞あって、種々の御勝利の御手段を得候はせられ、又翌夜御夢の中には、八百萬の神岩ケ先にて御弓を張給ひ、甲冑を帯び給ひぬと御覧じて覚めければ、偖こそ渡海の時節来れりと、御船を出させ給ふなり。今に至る迄、其月其日にあたれる時は、此山の土何とやら物さはがしく、又諸神弓を張給ひし跡残りて、此島に弓張石と云ふ石あり、天下変あれば此石折れ落ると云ひ傳ふ、往古より砕けたる石其下に多し。神功皇后評議石と云ふ巌あり、今に至る迄此所に行き、共石に腰を掛るものは、其咎めありと云へり。是全く皇后の咎め給ふにあらず、其石を鋪き給ひて御評議ましませし故に、其石に威有るぺし。又住吉大明神、檍ケ原より出現ましまし、此島にて白楽天に出會し給ふと云ふ。毎年七月廿五日・十月二十七日両夜、不浄を改め一島通夜し来れり。其夜丑の時にいたり、極めて不思議あり、静かなる夜も俄かに物寂しく、社壇鳴渡りて暫くしてしづまりぬ。



七十二 値賀の浦一名仮屋の浦

 太宰府にて廣嗣公朝敵の汚名を蒙り給ひ、天平九年丁丑九月二十八日、此松浦郡値賀の浦まで落ちさせ玉ひ、暫く岩頭に休ませられ、夫より此海を渡り島をつたひ、唐土に渡らんと思召して、龍馬を海に乗り入らんとし玉ひけれども、御持病に御脳痛ましまして、頻りに痛ませられける。此浦の者ども、今の社の所に茅茸の仮屋を建て、休め奉りしより、此浦を仮屋浦とも云へり。又岩に休ませられし石の表、平らかにして方七尺也、是れを石畳といひ、其所を畳崎と云へり。其外、掛け硯、鼓の浦など、二三所有りけれども、後に名づけたる所なれば是をしらべず。御不例甚だ強ければ、所の者ども物音・響きを停め、静に勞はり参らせしなり。此故事にて致齋と號し、今に此日より物音を不為となり。漸く御悩平癒し玉ひければ、いつまで斯くて有るべきやと、又も龍馬を引寄せ玉ひければ、此浦の賤男ども留め参らすれども、駒に鞭当て給ふ。然れども其駒一歩も進まず、首をたれければ、其平首を撃ち落し、脇に挟み海に飛入り給ふ也。此故事にて、鏡大明神の祭礼に、木馬の首頭斗り持ちて御供に立つ也。其畳崎に龍馬の舎人、龍馬の胴を葬り、其所に自害す。今に此畳崎に舎人の墓、龍馬の墳とて、五輪の塔二つ有り。夫れより廣嗣公添木に乗り玉ひて、茅原が浦に着き給ふなり。委敷は鏡宮の記に出でたり。



七十三 チャンコ會

 馬場村妙音寺の裏山を云ふ、彼の所に十間四方計りに小い宮の小石有り、禹余糧と云ふ薬種のよし、砕ひて見れば椿の実の如くなり。又是を割て見れば、五六色の粉の様成る物出る、最も花色多し、赤は稀なり。若し取り得れば赤は極上の朱の如し。今は松茸多く生ずる。此所をチャンコ會と云ふ事は、太閤秀吉公、名護屋御在陣の時、朝鮮の國より焼物師を呼び寄せられ、土地見立てに、彼焼物師を連れ諸方巡見有りしに、彼所に至って朝鮮人大に悦ぶ。又大きに愁ひて後ち踊り戯れけり。役人問て曰く、如何なれば悦ぶや、又愁ふるや。朝鮮人答へて、我が國のチャンコ會と云ふ所に少も違はざる由を答ふ。又曰く我古郷に能く似たり、故に悦び、愁ふ。今チャンコ會と云ふ踊を致し候と答ふ。此両話如何。
後焼物釜は佐志山に移る、今小次郎冠者村と云ふ処には、竈の舊跡の今猶存せる也。往古仮名にて、コジウクハス村と書きたり。今も公議に上るものなどには仮名書き也。



七十四 唐津根元並唐津城根元

 寺澤志摩守廣忠、唐津の城を築れし根元を尋るに、文禄元壬辰年朝鮮征伐済み慶長三戌年凱陣也。其時岸嶽城主に波多三河守と云ふ人有り、文禄三甲午年朝鮮國より帰陣、直に常陸國に配流なり。是れに依って朝鮮陣後、早速唐津拝領。波多の領跡並に改めて天草迄、都合十二萬三千二十九石七升の御朱印、元は岸嶽の城拝領。然れども要害宜しからず、徳居田中村に当時仮城出来、波多家浪人此時多く百姓と成る。又役人は所々の支配頭と成る。三河守三年目に表向常州にて死去。戒名 前三州太守大翁了徹居士。

 一 天草四萬石、寺澤志摩守加増の訳は、慶長五庚子年濃州関ケ原石田治部少輔謀叛の刻、東照神君の御味方申し、其働き格別に依って加増拝領也。猶又平戸・大村・五島・壹州・四國伊予の内高原、以上五ヶ所、寺澤志摩守余力に被仰付、威勢益々増りぬ。又唐津城築き始りの事は、慶長七壬寅年より、同十三成年迄七年に成就せり、本丸は満島山と云ふ、満島地続きの所なり。今の洲口を地切りと云ふ、往古の松浦川は本丸の西を流れ、
 松浦川口より西は西の濱続き也。是に依って二の丸の産れは、鏡大明神の氏子にして、二の丸の外は、皆唐津大明神の氏子他。

 一 松浦川の源は、佐嘉領黒髪山より流れ落ち、夫より山本の麓の口、双水・久里に流れ出で、鏡の脇を流れしを、双水より久里の川土手、水除けの普請出来しより此かた、橋本二川筋違ひし也。波多川は井手野谷より一筋、畑河内谷より一筋、板木谷より一筋、三筋の川行き合野にて出合、夫れより此川を波多川と云ふ也。是波多に流れ出る故の名也。往古は河原橋より養母田の前、烏帽子石・鬼塚・和多田村・鎌倉村・唐人町、夫れより神田・山下・茶畑・二子の方に流れ、衣千山の麓・中山の方に、東は丸山の下、皆海続也。二子島も其時よりの名也。

 一 大村玉島川は七山川の裾なり、横田・砂子・赤水・北牟田・砂子迄は松浦川続き入江也。此場所残らさず寺澤氏の時、新田に成る、五樋も此時よりの事也。

 一 波多川一筋流れ出でしを、橋本の下土手堀切り、松浦川と一流に成りたり、其時寺澤氏、此川は二俣川の落ち合と云はれしに寄り、落ち合川と名付けたり。夫より鬼塚・松浦岩を通り、新堀・満島の前洲口に落るなり。
 波多川の裾流れ、唐人町に出る神田川も、浮熊を流れ出て、波多川と一筋に成るなり。

 一 和多田浮熊の大道普請出来、神田川に唐人町前に流れ出るなり。

 一 寺澤氏の領分の時、怡土郡二萬石、唐津領に成りし事。往古筑前博多町は公料なり。慶長九甲寅年黒田甲斐守公儀に願はれ、博多町と福岡領怡土郡と引替に成りしを、薩摩の出水郡寺澤氏の添え地と此の二萬石と打替への願済み是と引替へに成りし也。

 一 検地初めの事は元和二丙辰年、唐津領内竿十二萬三千石也。志摩守入部より二十八年、寛永二乙丑年隠居、次男兵庫頭家督、同十癸酉年四月十一日、寺澤志摩守逝去、入部より三十六年目也。前志州太守休甫宗可大居士。

 一 天草四萬石減せし事、寛永十四丁丑年、天草一揆、郷民共浪人を集め籠城して、切支丹宗門を行ひ、天草は丑の冬、有馬は翌年春陣なり。此時兵庫守忠高不首尾成る上使松平伊豆守豊前小倉に下向、彼の地にて上意の趣被申渡、其趣今度天草有馬兵乱の事、政法正しからざる故、郷民共怨をふくみ、変儀に及び候事、領主として油断之至り、言語同断に候、是れに依って所領残らず没収し、有馬の領主松倉長門守同罪に可被仰付之所、天草福岡の城堅固に持、郷民共大勢討取、天草中追払候段、神妙に思召し候。是に依って唐津領怡土郡共に八萬三千石、新地被宛行候、與力大名是又被召放候者也。此時御朱印引替へに成る(外巻には松倉豊後守とありいづれが本名か如何)



七十五 有馬天草両陣實記

 元亀天正の頃、南州の戎、切支丹と云ふ宗門、日域に渡来の王子に付従ふ。戎には伴天蓮・入満・耶蘇などゝ云ふ、戎の名を宗門の祖として、本朝に分散しけるに、東照神君の御代に厳敷停止の沙汰有り、根を尋ねて葉を枯せり。然るに寛永十四年丑年十月、島原の城主松倉長門守勝家の領内に、切支丹の一揆起る。其発端の者共には矢野松左衛門・千束善右衛門・大江源右衛門・森宗意軒・山下善右衛門・是等の者共は小西摂津守の浪人にて、高来郡島原の内深江と云ふ所に年暦を送りて在住し、近隣の者共に勧め込み、天草の上津浦と云ふ所に、伴天蓮一人在りけるを、天下の御禁法に依って、異國に追放し給ふ。此伴天蓮其所未鑑と號して一紙の書を残す、其手跡の内に、年吾の暦数にあたって、日域に善導一人出生して、習はざるに諸々を全ふし、云はざるに眞意をさとす事顯然なり、其時ディウスを尊崇する時節到来なりと書く。是を考ふるに、天草甚兵術が男子四郎こそ少しも違ず、是則ち大将の任備れりと一統せり。左志来左衛門と云ふ者ディウスの書像を所持して是をねんぜり。切支丹の一揆忽ち蜂起して、島原の城につけ入らんとしけるに依り、城内周章騒ぎ、松倉長門守在江戸の留守成る故、人数少くして隣國に加勢を頼みしに、鍋島・細川の両侯も在江戸なれば、鍋島信濃守の留守居諌早豊前、三千余騎にて出陣し、同國苅田の庄に陣を取る。細川越中守忠利の留守居志水伯耆守四千余騎にて同國川尻に陣を取る。
 鎮西の御目付豊後國府内の住牧野傳蔵・林丹波守へ注進す。扨改郷民共島原に押寄せしに、城内より松倉の鐵炮頭高橋弥治右衛門・高畠治郎左衛門・入江與右衛門大に働きて討死す。肥後國天草は肥後國唐津の城主寺澤兵庫頭忠高の領地なれば.富岡の城代として三宅藤兵衛を入れ置く、藤兵衛が吟味強く、天草の大庄屋渡邊小左衛門も、肥後の國宇土郡にて召し捕り、近邊を乱暴しければ、三宅藤兵衛防ぐと雖も手に及びがたく、唐津へ注進しければ、岡嶋次郎左衛門・同七郎左衛門・澤木七郎兵衛・原田伊予守此四人を大将として、千五百人にて出陣す。先三宅藤兵衛を大将として、林又右衛門・同小太郎・大野助左衛門・國枝清左衛門等なり。此内林又右衛門・小太郎・大野助左衛門・大に働て討死す。其外此本渡の合戦に寺澤方討死二十四人、岡島・原田・小笠原・澤木敗軍して本渡に引入る。又岡島七郎左衛門・柳本五郎左衛門両人は富岡の城中へ引退く。されども三宅藤兵衛・佃八郎兵衛・並河九郎兵衛・清木勘右衛門・佐々木小左衛門五人は必死に成って働きしたが、忽ち敵二十余人突伏せ、大勢を追ひ払ひ猛勇、目覚敷ぞ見へにけり。富岡の城に楯籠りし者共、岡島次郎左衛門・同七郎左衛門・原田伊予守・大竹嘉兵衛・稲田平左衛門・浅井卜庵・三宅藤兵衛・澤木七郎兵衛・島田十郎右衛門・関善左衛門・國枝清左衛門・柴田弥五右衛門・小笠原齋宮介等、数千人に渡り合ひ、此所にて合戦成りしが、切支丹の奴原大勢打取り、追崩し、堅固に城を持ちたる故、其儘一揆共驚で此城を責る事能はず。上使として板倉内膳正・石谷十蔵・尊諚を承りて下向す。寺澤・松倉悪政に依って鬱憤を散ぜんとの事成るぺしと、其趣申述べ、松倉の居城に着陣あり。豊後府内の御目付牧野傳蔵・松平神三郎・林丹波守・長崎の守護代馬場三郎右衛門、島原の城に着陣有り。寺澤兵庫頭・松倉長門守両人、共に所領の郷人共の一揆故、江戸表より御暇を給ひて在所へと急ぎける。鍋島信濃守は江戸参勤にて、嫡男紀伊守元茂・次男甲斐守直澄・一萬五千余騎にて同國島原へ出陣有り。久留米の城主有馬玄番允豊氏も在江戸故、子息兵部太夫忠里八千騎にて島原へ出陣有り。柳川の城主立花飛騨守茂政・是も在江戸故、嫡子右近大夫忠茂・五千余人を引卒し高来の城へ発向有り。肥後國細川越中守忠利父子共に在江戸故、家臣長岡佐渡守・有吉頼母佐、一萬余騎にて天草へ出陣有り。天草の領主寺澤兵庫頭忠高は、居城唐津へ帰城して在國の勢を催しけるに、追々天草へ出陣有りければ、残勢八百余騎を引率し、天草表へ出船す。同所軍奉行には、牧野傳蔵・松平勘三郎・林丹波守三人也。細川越中守忠利の嫡男、同肥後守光利生年十八才、在江戸成りしが御暇を願請け、夜を日に継で十二月六日天草へ出陣有りしが、此手は恙なしとて、川尻の津へ人数を引入れ、島原加勢を望まれけり。天草上使三人は、 有馬の浦へ押し渡り、板倉公持口に加れり。扨、高来郡有馬の浦原の城は、昔より名を得し古城、殊更要害堅固なればとて、二月朔日より十日の内に普請して、粮米萬事を調べ入れたり。此原の城と云ふは、二方は海を受けて漫々たり。尚更岸は屏風を立てたる如くなりければ、其険岨なる事、船をも寄すべき様もなく、二方は岸高く聳ちて、下は大浪なりければ、其厳重成る事云ふに及ばず。惣廻りは百町余も有るべし、籠城の人数惣合せて三萬六千余人也。原城の大将は天草四郎太夫判官時貞と號して、本丸に上着す。附随の者には芦塚忠左衛門・渡邊傳兵衛・赤星主膳・馬場休意・會津宗印・同右京允・毛利平左衛門・林七左衛門・松竹勘右衛門・三宅治郎右衛門・久田七郎右衛門・泰村休次・折田杢之丞・此十三人は籠城の老人衆とて、一統に崇用し、時貞軍慮の相手也。城中持口の大将には、山田右衛門佐・大浦四郎兵衛・随ふ者共二千余人、本丸の持口を堅めたり。二の丸の頭首には、千束善右衛門・上総助右衛門・同三平・戸島総右衛門、五千二百人を随へて堅めたり。二の丸の取り出でを岡崎刑部が受取って、五百人にて持堅め、三の丸は大江源右衛門・布津村吉蔵・堂崎対馬頭・有馬久右衛門、二千五百人を引率し、持口堅固に固めたり。同出丸には有馬掃部五百余人にて控へたり。大江口には大矢野三左衛門持口にて、櫛山・小濱・千々輪・口の津・上津浦村此五ケ村の者共、一千四百人にて堅む。江尻口には蓑村右兵衛・木場作右衛門安徳、木場の者共六百余人。田尻口には深江次右衛門五百余人にて請持ちぬ。大矢野松右余門・山下善左衛門・両人は健民二千余人を支配し、持口の危きを加勢のため、後陣に付置きぬ。軍奉行には有江の監物入道休意・芦塚忠兵衛尉・松島半之丞・布津村代右衛門下平玄札以上五人なり。諸事の評定には、村々の惣代を撰び出し、二十三人評定衆と名付けたり。使番には池田清左衛門・口の津左兵衛尉・千々輪作右衛門、番頭には四鬼丹後守義安・栖本右京之進之時、是れを古老中と名付く。鐵砲方惣大将には柳瀬茂右衛門・鹿子木右馬之介・時枝隼人正、旗頭には高田権八郎・楠浦孫兵衛、大手搦手の大将には、蜷川左京之進・毛利宗意軒、夫々役割して籠城す。扨十二月二十日原の城一番攻め、松倉長門守勝元を先手として、鍋島紀伊守元茂・同甲斐守直澄・立花左近将監忠重・有馬兵部大夫忠里・上使板倉・石谷、其外御目附何れも出陣なり。
 此時立花の手の討死には、立花三左衛門・十時吉兵衛・佐田清兵衛・渡邊治郎右衛門・綾部藤兵衛・車田三郎右衛門・岡田久右衛門・北野掃部是等を先として、者頭、諸役人二十八人、其外手負の侍六十九人、討死手負合せて三百八十余人。鍋島手の討死は足軽末々迄二百余人。上使付の兵士二十八人。極月二十九日御目代として、松平伊豆守信綱・戸田左衛門佐氏継、下向の由先触れ来る。寛永十五年寅正月朔日、惣責めの先手として、有馬兵部大夫続て松倉長門守・鍋島兄弟、原の城へ押寄らる。城中よりも一千ばかり押出して、弓鐵砲に打立られ、討死手負の分ちなく、一千余人の寄手共、一時の間に討たれぬれば、さんざんに敗北して、右往・左往に迯にけり。後陣の諸手入れ替へ、面も振らず責めけるに、一揆共は一人も退かす、こゝを先途と戦ふにぞ、松倉・鍋島方の討死、何百と云ふ数を知らず。板倉内膳下知して掛れ掛れと進まれしが、城中より鐵砲にて、忽ちあへなき最期なり。石谷十蔵・松平神三郎も手負て引止まる。此時の討死手負有馬忠重の人数には大番頭、者頭、諸士の討死九十余人。手 負の侍百七十五人、雑兵手負に至るまで一千百余人他。鍋島手の討死は、旗頭・者頭・侍分の者共三百八十三人。手負の侍四百余人。雑兵手負迄二千五百余人。松倉長門守家来には、討死の侍十七人。同手負四十九人。雑兵討死・手負迄三百二十七人。松倉左近手に討死二十二人。上使に付し兵士三十余人討死す。手負五十余人。其日の討死・手負迄三千九百二十八人とぞ記しけり。城中の手負・死人僅に九十四人なり。夫より松平伊豆守信綱、戸田左衛門佐氏継、寄手人数少しとて、肥後の太守・筑前の太守、此両國より軍勢差向けらるべきよし催促有り。松平伊豆守・戸田左衛門佐有馬を指して着船し、城の様子を見定めて、両國の軍勢を待ちけるに、細川肥後守光利二萬三千を引率し、正月三日の暁天に川尻を出船し、翌四日の暮れ頃に、肥前の國洲川浦に着船し、其夜は洲川に野陣して、かゞりを焚て夜を明し、夫より松倉長門守に替って、大手の先手へぞ向はれるける。寺澤兵庫頭も、天草別儀なきに依って、是も有馬へ出陣有り、筑前太守黒田右衛門佐忠之・人数も在江戸なれば、舎弟黒田甲斐守同重政、八千余人を引卒し有馬の浦に発向有り。島津人数も六千余騎、島津下野を大将として有馬の浦に押渡る。江戸にても有馬の籠城堅固なればとて、九州大名残らず御暇被下ければ、皆々居城へ帰りぬ。先細川越中守忠利・黒田右衛門佐忠元・鍋島信濃守勝重・有馬玄蕃允豊氏・立花飛弾守茂政・小笠原一黨・有馬左衛門佐・水野日向守、何れも御下加を蒙り、夜を日に継で有馬の浦に着陣有り。大手口・東口・東細川越中守忠利・其次立花飛澤守茂政・其次松倉長門守勝家・其次有馬玄蕃允豊氏・鍋島信濃守勝重・其次に小笠原一黨・其並に有馬左衛門佐・其次寺澤兵庫頭忠高、西の濱手に黒田左衛門佐忠元、持口向陣此の如し。水野日向守は遅参に依て、陣所の場所なければ、後陣の山手に取られたり。島津勢は肥後陣所の外れなり、城より北の方濱手に控へたり。御目代松平伊豆守信鋼を始め、上使の人々は.立花・松倉・両陣の奥、少し小高き所の山の手に、各陣を据え居る、惣寄手の人数十二萬五千余人なり。城中よりは、天草四郎太夫時貞、謀を軍中に示し、二千人を三手に分つ、千百人を芦塚忠兵衛・布津村代右衛門、此両人に随へさせ、黒田が手へ押向け、天草玄札には六百余人相添へて、寺澤の方へ押し向け、又千三百人を上総三平・千々輪五郎左衛門両人に随はせ、鍋島の手に向はしむ。此両人は手分して、上総三平五百余人を分て、火矢・焼草を取持せ、火付役に備へ、大せいろうに向はしめ、千々輪五郎左衛には八百人を付て、夜討の手立を計りければ、忽ち炎々焼え上り、二萬余人の一揆共、一度に閧の聲を上げゝれども、諸将少しも動せず、津々に押出して、爰を先途と戦ひければ、夜請の奴原百余人。忽ちに討取りぬ。鍋島方の兵には秀島四郎右衛門・石井九郎右衛門、此両人討死し、其外手負八十余人なり。天草玄札は六百余人を随へて、寺澤の陣へ押寄せ、仕寄せの竹共ひたひたと打破り、本陣に入らんとせしを、先手の英兵三宅藤兵衛聞き付、長刀おっとり向ひければ、随ふ者共追々に駆け出で、我劣らじと戦ひけるに、魁の藤兵衛三ヶ所手疵を負ひ、其組付の兵には浅山源左衛門・池田新左衛門・松下半之丞・谷崎八左衛門・此四人討死す。其外手負の士卒二十四人、夜討の一揆等三十五人即時に打取り三人を生捕て、島子の恥辱をすゝぎける。黒田忠元の持口には、芦塚忠兵衛・布津村代右衛門千百人を引率し、一度にどっと押寄せたり。魁黒田監物・鎗引提げて出る所を、切支丹の鐵砲にて頭を撃たれ死にける。側に在合ふ岡田佐左衛門、親を討せて置くべきかと、面も振らず、討死すと思ひ定めて突き掛る。是に続て小川縫殿介・菅勘兵衛・郡正太夫・新見太郎兵衛・杉山文太夫、是等を始め大勢が、一度に突出る百余人の一揆共、手も見せず討取り、其外生捕十七人、都合百二十三人也。忠元方討死の者共には、黒田監物・其子岡田佐左衛門、相伴ふ者共には新見太郎兵衛・杉山文太夫・明石権之丞(是は市正、家老なり)是等を始として名を得し兵ども八人討死し、手負は二十五人、雑兵共に五十余人。某夜打取る所の一揆共、寺澤・黒田・鍋島に首幌二百五十八人、生捕二十四人、一揆共是れに恐れ、其後夜討は止めたり。鍋島信濃守より御目代に、出丸の仕寄せを望みければ、所望叶ひ、二十七日午の刻計りに仕寄成就して、一揆共、打出乱戦時の用心に、甲冑の兵三百余騎.竹たば裏に隠し置き、諸手の軍勢是を見て、鍋島こそ諸手に抽で、先乗するぞとひしめけり。一揆共は、鍋島の出丸に仕寄せを付るを見て、其持口の者共、数千人、取寄って石・鐵砲を打掛る。勝重方よりも用意の事なれば、鐵砲透間なく打掛る。其手に進む一揆共、悉く打白める時に.鍋島の手の御目附榊原飛騨守の子息同名左衛門佐、生年十七才弓の者を引連れて、二の丸塀の手へ乗上り、指し詰め、引詰め、さんざんに射さすれば、矢先に進む一揆ども、少しひるむ所に、左衛門つと乗って、二の丸に馳け上り、原の城の一番乗り、榊原左衛門佐と高聲に名乗りければ、親飛弾守・息左衛門を討せじと、猶予なくどつと乗込み、後陣の鍋島勢、我も我もと乗込ける。城中の一兵等は、去冬より籠城に屈托し、殊に兵粮盡きぬれば、はかばか敷も見へざりけり。鍋島方乗込むと、すぐにほうろく、火矢を打ければ、大手の方より燃へ出し、城中の騒動に諸手の人数どっと押入り、大手より越中守忠利の軍勢、三の丸迄即時に乗附、鍋島勢二の丸に働きしに、一揆共爰を最期と働きければ、城戸口流石に破り難く、暫く時を多しける。細川勢後へ廻り、濱手の方より打破り、農人の雑兵等、悉く切り捨て、火花を散して責めければ、一揆共前後の寄手にどを失ひ、防ぎ戦ふ力もなく、本丸指て逃げ入りたり。細川手本丸を乗取んと、折かさなって働けども、必死と成って戦ひし一揆共、大石・大木・投かけ投かけ、手疵を負ふもの数しれず。去れども新手を入替入替、二十七日の酉の下刻迄、本丸半分、東の濱手共に乗り取って.九曜の旗を立てにけり。又立花左近忠茂の先手の勢十時弥之助、其組付の兵に根村源右衛門・寺田角右衛門、眞先にかけて本丸東の塀下にて、比類なき働なし、本丸東の濱手より塀を乗越え、立花左近手の一番乗りと呼りけるに、必死を極めし一揆共、本丸半分持ちかため、一向には落ちざりき。翌二十八日曙より、諸手一同に聲を上げ、黒田・寺澤の両勢本丸に乗り入り、黒田先魁の勇兵.黒田美作八方に薙ぎ廻る。寺澤の勇兵、三宅藤衛衛抜群の働きし、一揆等しどろに乱るゝ所に、細川の手より本丸に火矢を打込み、焼き立てしかば、折節大風烈敷一面に火と成る。此勢ひに諸手入り交り、働きければ憤死せしもの数を知らず。一揆の大将天草四郎太夫時貞を、細川の手に陣野佐左衛門が討取たり。一揆の奴輩悉く亡びければ、諸手一同勝鯨波をあげて、御代萬歳と祝ひける。扨討死手負を記しけるに、細川越中守に討死二百七十余人、手負士卒千八百六人。黒田右衛門佐に討死二百十三人、手負千六百五十八人、同舎弟甲斐守に討死三十人、手負百五十六人。鍋島信濃守に討死百六十人、手負六百八十三人。有馬玄蕃允に討死七十八人、手負百八十五人。立花飛弾守に討死百二十七人、手負三百七十九人。松倉長門守に討死二十五人、手負九十七人。小笠原右近太夫に討死二十五人、手負二百三人。同信濃守に討死十九人、手負百四十八人。松平肥後守に討死三十一人、手負百二十七人。水野日向守に討死百六人、手負三百八十三人。寺澤兵庫頭に討死二十三人、手負三百十五人。有馬左衛門佐に討死三十九人 手負三百八人。戸田左衛門佐に討死四人、手負三十余人。松平伊豆守に討死六人、手負百余人。惣討死の人数合一千百三十六人、手負の士卒六千九百五十余人、討死手負惣合八千八十六人。一揆の内に山田左衛門佐と云ふ者、寄手方へ内通顯はれ、一族悉く殺され、左衛門佐は四郎が尋る望み有りとて、手かせ足かせを入れ、士卒に下し置きぬ。此ものも生捕の中に、手かせ足かせともに出でたりしを、直に江戸に召連られ、ふしぎに命ちをのがれしとかや。御目代・上使を始め、軍勢各々引取り、其後太田備中守上意を承り、豊前國小倉に到着し、此所に於て、九州の諸侯残らず御感状有り。寺澤兵庫頭、松倉長門守両人に被仰渡趣、両所の一揆は、是れ國政の正しからざるに怨を起し、怒を発する者也。然る上は両人共、死刑に行ふべきの所.憐容の思召を以て、即ち松倉長門守事、所領没収の上美作の國へ流罪被仰付、森内記に預くべきものなり。松倉右近事、是又讃岐の國へ流罪申付、生駒壹岐守へ預くべきもの也。寺澤兵庫頭事、松倉長門守同罪に被仰付べきの所、天草富岡の城堅固に持ち、一揆共をなやませ候條、神妙に思召、流罪を御免許にて天草四萬石を没収し、新に八萬三千石宛行ふもの他。此趣を被仰渡、松倉・寺澤の死罪をなだめられ、其軽きに依って御仁政の御仕置、延喜天暦の聖代、今顯れりと、世挙げて尊崇し奉りぬ。

 松倉事外巻には切腹とも有之、流罪の後切腹か不詳。

一 寺澤兵庫頭乙丑年より正保三年丙戌迄、二十二年所務。正保四年丁亥十一月十八日逝去 孤嶺院殿白室宗不大居士

一 慶安元年戊子一月公領上使津田平左衛門・齋藤佐源太・御目付兼松五左衛門・本丸請取水谷伊勢守、惣曲輪受取り中川主膳正、以上五人。水谷氏は五萬三千石、備中松山の城主、寺澤忠高の姉聟なり。




七十六 波多三河守落去始終之事

 太閤豊臣秀吉公、名護屋御城御下向の節、筑前國博多に於て、九州の諸大名御出迎ひの御目見相勤けるに、波多三河守遅参候故、御尋有りければ、鍋島加賀守取り合せて、波多三河守は私旗下の者に候得ば、私御目見相勤候上は、子細の儀御座なきよし申上しに、其節は先づ其儘に召し置かれ、後れて三河守参着致し、早速に御前へ出でけれども、何の御意もあらざれば、手持不沙汰に退出し、其後名護屋御城に於て、浅野弾正少弼・石田治部少輔などに依り、首尾を繕ひけれども、終に獨礼の御目見なし。朝鮮帰陣の上、宜敷御沙汰有べきよし、仰渡され召し置れし也。是れ全く、秀吉公隣國の諸大名を改易の上、名護屋の御城を寺澤志摩守へ下し置れ、朝鮮國固め被仰付、没収の地悉く宛行はるべき思召也。此寺澤志摩守事は、童名忠次郎と云ひし時より、御側近く召し仕はれ其器量、執権も勤兼ねまじき者と思召しての事也。斯て三河守鎮には、一統旗下の者共に、朝鮮手配を命じ、既に先陣小西摂津守・加藤主計頭、是に続て船を出さんと、手勢を分ちて、旗下の有浦大和守、値賀伊勢守に差し加へ、当地案内のため、名護屋御陣に差し置、其身は二千余騎にて朝鮮へ出船す。松浦刑部法印・大村新八郎・五鳥若狭守、下松浦黨渡邊一番に順天山迄責め入り、此処彼処にて敵を多く討ち取り、味方も過半討死して、朝鮮の譽は十分にて、帰陣の後は御感状にも預るべきと、一統勇に進みて働きける。
 扨又名護屋の御城には、太閤秀吉公御在陣の御徒然に、様々の御慰み、別て御茶を好ませられ、古物珍器等、思々に献りぬ、曾呂利新左衛門と云ふもの、頓知成る者にて、浮世噺、狂歌など上手成れば、或時茶器に用ゆる器、其他異物等を求めて参るべきよし仰せを蒙り、所々見廻り才覚し、筑前國久留米に出でければ、軽口・物眞似上手の山三郎と云ふ者、難波より来りて、女房諸共、種々の戯れ事を興しけるを見て、名古屋に帰り、秀吉公の台聴に達しければ、御陣城に呼せられ名護屋の陣にて、一日御催しありける、在陣の大小名、其賤き小者に至る迄、廣野も狭しと見物を許させ給ひ、方百聞に惣桟鋪を掛け、僕の族は皆芝原に並居りて見物す。此時秀吉公、波多三河守が妻、近々しく路次の煩ひもなければ、呼寄せて見物させばやと宣い、直ちに御召の御使を下し給ふ。されども夫鎮出陣の留主にて候得ば、御免を蒙り度由を、御側衆迄申上げるに、秀吉公、婦人の身として出陣の留主などゝ断を申條、女の城を守る事あらんやと、押して御使参りければ、今は是非なく、名護屋の御陣にぞ出にける。此三河守妻は、龍造寺隆信の娘にて、容色類なき美女の聞へ有りければ、秀吉公かゝる遊興に事を寄せて、御諚なされ、度々の思召、既に一日山三郎が興したる藝によって、御機嫌斜ならず、其夜は御酒宴を催され、御廣問の御庭にて、山三郎に興じさせ玉ひ、山三郎夫婦の者、名護屋の町に差し置き候様、御沙汰あり、其後も御庁に折々召し出されし也。扨三河守妻は、御暇を願ひければ、御尋の趣き有るに依って、指し控え居候様、被仰付ければ、旗下の家臣ども、其外腰元はじめ女達迄其夜も名護屋の御城にて滞留す。翌朝に成りけれ共御尋の御沙汰なければ其由を伺ひ、又御暇を願ひければ、秀吉公仰出されけるは、三河事隠謀の聞へ是あるに依って、其事を責め問んが為めなり、一身の謀を以て、諸士を戦はしめ、其虚に乗って九國を呑んと巧むよし、其事を申披く迄、城中留置事分明也、申披きし上は居城に差し戻し遣すべしと、思ひも寄らざる雖題を蒙り、波多が妻女に申上る言葉もなく、止む所は夫鎮の身の上に成るべきと、御前をすべり思案に逼まり、自害して果つべきと、懐剣を出し、既に覚悟を窮めしかど、かゝる難渋の申訳立ずして、自害せしと疑はれては、死しての上夫鎮に如何様の疑もや掛らんと思ひ煩ける。御座の間の御次の間に召し出され、御尋の筋もあるべき様子に見へけるが、鎮が妻以前の懐剣其儘に懐中し居けるが、御次の敷居に落しければ、秀吉公見咎め玉ひ、三河が妻、今懐中より落したる品不審也、是れへ持参せよと宣ひしかば、是非なく前へ出しける。秀吉公は御諚して、女の懐剣をたしむは、其席其所に寄るべし、太閤が前とも憚らず、懐剣を持ちし事、甚だ不慮也、尋問の事も重て沙汰に及ぶべし、先は居城に立帰り、三河帰陣着岸迄、慎居候様、御憤り大方ならず、始終難渋の元と成りぬ。
 斯くて文禄三年甲午出征の人数、追々帰帆し萬歳を唱ふ、斯る内に憐むべし波多三河守鎮は、順天山迄責め寄せ、其働き抜群にして、敵も多く討取り、味方も過半討死し、手柄は申分なしと雖も、兎角秀吉公憎み給ひ、黒田甲斐守を召し出され、被仰波候趣は、波多三河守隠謀の聞えありと雖も、其事糺すに及ばず、彼れが罪科挙げて算へ難し、殊更鍋島加賀守旗下として大名の備へを出し、諸侯に肩を並べる條、急度軍法にも行ひ申べきの所、是れ又其沙汰に及ばず、名護屋に船を繋がすべからず、領地一圓没収し、三州家康に預く可きよし、上意有りければ、黒田承って海に出迎ひ、則ち上意の趣申渡し、徳川家へ御預けに成り、其後常州筑波山の麓に配流被仰付、無念ながら供侍には横田右衛門佐、其外下部二人、主従四人にて常州へぞ趣きける。
 扨又岸嶽の城にては、岩屋因幡守、鶴田越前守、黒川の城主黒川左源太夫を始め、一族旗下家臣には佐里村城主江里長門、法行の城主久我玄蕃允、稗田の城主中村安藝守、重橋の城主川添監物等を始めとして、各々登城し評議区々なり、然る所旗下の中より隈崎素人、進み出で、抑々当家は皇孫にして永続し、地下に至り、箕田武蔵守仕、六孫王経基の副将にして、純素九州に乱入せし時、討手に向ひ、多田満仲と謀を専らにして、黒崎に追戻し、是を武功の初めとして、保元・平治・寿永の源平戦、足利将軍の数代より是迄家名を汚さず、今又朝鮮國の働き、諸侯の目を驚かせり、然るに太閤秀吉公匹夫より出て、官禄心の儘にて、大日本を切り静め、朝鮮國迄随へ、其勢ひ能きが儘に、罪なき諸侯を没収し、我が意を以て人を罪し給ふ事也、其思ふに、今名護屋の御陣に切り入り、八方に乱入し、潔き能く討死せん事、末代迄の名譽なり、各々同心たらんには城地を明け渡さぬ内、夜討の用意すべきなりとて、血眼に成りて申ける、はやり雄の若侍共、主君の恨を散すべきの寸志なり、旗下家臣の面々、浪々の身と成りて、何の面目にながらへんや、いさぎ能く討死して主君の家名を残し、各々後代に名を傳へんと、心を同ふして評議一決し 既に退出せんとせし所に、田代日向守暫しと差し止め、各々鬱憤はさる事ながら、今名護屋御陣に押寄せ、一統に討死せば、敵も大勢討取るべし、去りながら常州にまします鎮君、させる罪もあらざれは赦免も遠かるまじ、今名護屋に押寄せ乱入せば、其崇りは忽ち成るべし、然る時は忠義却て不忠となり、末々に至る迄妻子を哺む手立もなく、猶又謀計の詮儀を盡すべし御前様並御嫡子孫三郎様を、佐嘉表へ送り奉り、一先城を明け渡し、知るべ知るべに引退き、忍び忍びに會合して、謀計を廻らし、配所の主君を守り奉り、一勢に旗を上げ、其時こそ討死して名を後代に残すべしと、過半決しけれども、中にも井手飛弾守、向三郎・畑津内記を始めとして、旗下家の子二つに別れ、井手飛輝守申けるは、其評定も去る事ながら、迚ても今趣意を通ふさずば、期して都に責め登らん事思ひも寄らず、さすれば評議一決すとも其謀を用ひねば何の詮かあらんや、某し存る所は御母子佐嘉表へ送りまいらせ、名護屋の御陣へ忍び入り、一時に放火して焼き払ひ、火焔の中にて討死すべし。さすれば上一人の恨にあらず、讒者の者迄共に怨みを報ふ也と、各々衆評決せねば、黒川左源太夫・鶴田因幡守云ひけるは、面々の存寄を争ふては、評定に日を送るべし、迚ても今一統に討死すとも、旗を揚んとこそ、爰に忍び居るとも其主たる人なくては成就しがたし、一族旗下の中より、誰か忍びて常州に趣き、鎮公を守護し来りて、下松浦黨を頼みて何方へぞ隠し忍び、一族旗下家臣の面々、暫く土民に落ち入りて見せ、孫三郎君を守り立て、一歩の足元より百里の本領に立ち戻り、波多家を再興せんと、如何に誰ぞ彼の地に赴かんとする人やあると其席を見下げるに、遙に末座より飯田彦四郎進み出て、某彼地へ赴かんと云ひければ、古里長門飯田老人にては叶ふまじ、某も趣かんと、二人御迎ひの役に定り、諸士一統に領承す、是に依って三河守妻室、嫡子孫三郎を佐嘉表へ送り、警固として八並武蔵守・渡邊五郎八両人附添、佐嘉城下へぞ入りにける。
 此事名護屋の御陣へ聞へ、秀吉公いからせ給ひ、三河事既に罪科相窮り、流罪たりと雖も、其跡未だ沙汰せざるに、猥りに城を離散する事、三河近親の者共始め、言語同断のくせ者共也。近々城地裁許迄は、作法克く相守り居り、若我意を働く者有るに於ては、召捕り罪科に行ふべき由、木下宮内少輔承り、鶴田越前守・黒川左源太夫に、上意の趣き申渡しければ、一統御請申上げて退出し、其趣旗下の家臣迄申渡しければ、旗下の面々、迚も此城永続ならねば、一時に火を掛け離散すべき由を談合せしに、太閤秀吉公厳命に依って、旗下家臣等、勝手次第何方へぞ立退き、渡世可致旨のよし仰渡され、城は寺澤志摩守へ御預けにより、早速請取りの為、城代今井縫殿介、並川小十郎の両人に、者頭一人、騎馬廻り十崎、足軽百人を差添へて、城中へ入れ置きける。
 夫より端下家臣の者共、忍々に常州へ通信して、主君三河守を守護し、旗を揚ぐべきと、日在の祈祷所建福寺を會合所として、折々集會し、区々評議して手筈を定め、三河守迎ひとして江里長門・飯田彦四郎、薬売と成り、立目可朴と云ふ医者の家に傳へたる丸薬を調合し、道々売行きけり。
 二人は日を重ねて漸く姫路の城下に付きけるが、頻りに雨降りけるにより、町家の軒下に停み暫く見合居たりしに、一僕連れたる侍其前を通りけるが、下僕が蹴り掛けたるにや、手頃の石一つ水溜に来りて、泥を打散し、侍の袴に掛りける。此侍立止まり古里長門を白眼み、巳れ何國の者なるや、侍の袴に泥水を蹴掛け、一言の詫をも云はず、知らぬ顔にて立つ体奇怪なり。討捨呉れんと袴の裾をば取って仕掛ければ、長門は下につくばひ、毛頭存ぜざる私儀にて候得共、私過ち仕候様お目に止り候得ば、何分にも御免を蒙り度しと、謝りを云ひけるに、此侍一向に聞入れず、己が泥足にて蹴り掛け、此方より咎められ、今更御免下されなどゝ、人を侮りたる申條、了簡も相成り不申ときめつくれば、飯田彦四郎是は侍の御言葉とも覚へず、私同行の者、自分が身に麁相を不成と雖も、所詮面倒と存て余人の科を引受て断りを云へど、御聞入是なし、御手討なさるの思召是非に及ばず、同道の不肖に候儘、私儀御手討に罷り成るべし、されども闇々と打れ候事、本意なく存るの間、御相手に罷成候はんと、差こはつたる長脇差しを、そりうつて仕掛ければ、長門は彦四郎を押し止め、先暫く待たれよ、御覧の通り乱心物に候故、何分御免下さるべしと、ひたすら断りを云ひければ、某を乱心物にはせしぞ、是非とも御相手にならんと、覚悟有るべしと立寄るを、長門は漸くなだめ、御供の衆も御聞の通、私一人の身にせまりたり、宜敷旦那に御取成し下さるべしと、さまざま詑びければ、此侍も彦四郎に辟易して、重て侍に斯様の不埒致すまじく、此節は差し免すと云ひ捨て通りければ、彦四郎は歯がみをなし、憎き今の青侍、余りに長門殿の云ひがひなき故に、側より歯がゆく存じ、某打据てくれんずと、憤りたりと云ひければ、長門聞て左に思はるゝは最もな り、去りながら彼等如きの者、何ぞ相手に取るにたらん、若双方云ひつのり、引かれぬ場合に成るときは、身命もはたすべき、其元と某共か旅行は、鎮公御迎ひとして、一族旗下の多人数の内より望み出しなれば、途中にて過ちある時は、一統の手筈も違ひ、配所を忍び出る事も覚束なし、若し此迎ひを仕損じなば、生て再び國許へ何の面目に帰るべきか、切腹して犬死せば、両人共にかばねの上の恥辱なりと、無念をこらへて詑びたる心底、如何あらんと思ひつるぞ、胆も臓腑も一時に絞る計りに思ひし也。唯今の侍も、貴所の勇気にひしがれて、早々迯げしは、三人ながらの仕合と、打笑ひければ、彦四郎も堪忍は智の司と今こそ思ひ合せたり、貴所に似合ぬ卑怯なりと、心の内に下すみし事も、却て誤りにて、某は唯一旦の勇気にて、是非の辨へ更になし、短智韮才恥ぢ入りぬと咄しける、斯くて雨も漸く降り止めば、又立ち出て配所へと心せかして急ぎ行く。程へて常州に着きければ、讒かの茅屋に主従四人詑住居、見るにいぶせき有様にて、三河守は書物をながめ、右衛門佐は傍に附き居たり、両人門より入りければ、右衛門佐立ち出で、やがて取次で三河守へ告げ1れば、其悦び大方ならず、両人を呼入れ、遠路の所へ定めて忍び来るべし、唯古郷の事懐かしく、又孫三郎を始めとして、一族郎黨に至る迄、如何して居るやらんと、明暮れ忘るゝことなく、殊更船中より直に此地に来りし故、何事も心に存せずと細かに尋ね問はれける。長門・彦四郎申けるは、我等両人参じ候は、君を始め供奉して立帰り、何方へぞ忍ばせ奉り、時節を見合ひ旗を揚げ、波多家再興せんものと、両人御迎ひの為め参るなり、然れども此儘に配所を落ち玉ひなば、秀吉公の疑ひも有るぺければ、尋ねらるゝは必定なり、如何して此難を遁るべきやと評定決せざりしに、長門云ひけるは、一先都に飛脚を立て、波多三河守事病気の所、養生手を盡すと雖も、其印しなく死去致せし由を訴へて、常州筑波山の麓に石碑を建て置、供し九州に下るべしと、其用意をいとなみ、慶長二年四月其趣を伏見の御城に訴へしかば、常陸の國に何の御調の御沙汰も是なく、御聞届の儘なりければ、忍んで帰國の用意をし、主従六人霜月上旬、常州を立ち出で、折しも烈敷雷風に菅笠一つを傾けて、凌ぎがたなき其有様、附随ふ者共迄、心をいため、薬を捧げ.或は酒店に立寄り暖酒など調へなどして、其日其日の寒苦をさけ、或は長途にきびすを破り、艱難辛苦計りなき、松浦黨の長者にて、列を並ぶる人もなかりしに.斯く此世になき身と成りて、臘月中旬古郷の松浦へ、着きければ、居城は寺澤の預りより、間もなく拝領となり、一族旗下も散々に、住居も未だ定めねば、忍び隠る所もなし、されども一族の中に鶴田太郎左衛門尉と云ふ者あり、波多家累代といへり、格別の子細ありて松浦残黨押しの為め、條後の城に入れ置れければ、先此所に忍びしに、是れも秀吉公の厳命にて残黨押の役なれば、太郎左衛門も遠慮に思ひ、某が舘に永く忍びては、却て御為に成りがたし、某が寸志も、心をかれて自由ならず、是れ全く某が歓楽の私慾にてはあらず、波多家再興の便にもと、面白からぬ厳命を蒙り、此所に住せしなり、大浦播磨が隠宅こそ、屈竟の隠所なり、是へ忍びませと、直ちに播磨が方に使を走せしに、播磨大に悦び、人の出入を差し留て、此隠宅に忍居られし所、此所も寺澤より吟味強し、松浦残黨の者ども、一々改め、銘々身分の渡世、委敷書付可差出し、若し隠れ忍び、隠謀を企るに於ては、其者は云ふに不及、一類縁者に至るまで、不残罪科に行ふべしと、五奉行より御沙汰に候條、其心得にて一々改め、他國へ離散致す者共、不残可申出との、三人祖の吟味役、諸方に隠行しけるにより、隠れ忍ばん様もなく、夫れより御厨に渡りて、御厨四郎治郎にぞ忍び居る。
 扨佐嘉にては、御内室始め孫三郎にも殿常州より落ちし事、風の便にも知らざれば、遠きあづまの空に、如何してをはすらんと、日々案じ暮らしけるが、いつとなし孫三郎病に伏し、夢となく現となく、居城へ戻りて父君に逢ひ奉らんと計り、外に何事も云はずして、終に事きれ死しければ、母儀のなげきやる方なし、自ら故に夫君三河殿も、秀吉公の非道に落され、遠國に獨りまします、栄華の夢も一時にほろぴ、寒暑の凌ぎもいかばかり不自由にをわすらんと、嘆きに嘆きいや増し、嫡子孫三郎も死しければ、何を頼にながらへんやと、積る事共書残し、三十二才の暁をまたず、自害してぞ果てにけり。此内室は龍造寺の娘にて、操正しく憐み深く、殊更容色類なき美女也、一族旗下は云ふに及ばず、開く人あわれを催ふし、袖をしぼらぬものはなかりけり。法名は常室妙安大姉、則ち佐嘉城下に葬る。一宇を建て妙安寺と號す。其所を妙安寺町といへり。
 斯て三河守鎮は、常州筑波山の麓より、忍び帰り所々に隠れ居りけるが、一族旗下も散り散りに、内室も嫡子も、はや墓無く成りぬれば、何の頼もあらざれども、一族旗下の義心を思ひ、臣下の忠を捨て難く、月日を送り居けるに、波多三河守常州を忍び出て、此地に帰り来るよし、鶴田太郎左衛門に吟味を遂げ可申出様、寺澤より申付候得共、御大事に候とて、御厨が館に杵島権太郎より告げ来ければ、三河守も斯迄武運につきぬれば、永へて何かせん腹切って死すべきなり、人に知らさず我が無き柄を隠すべしと、覚悟を極めけるにより、此席に有りあふ者ども、是れは存じ掛けなき御諚なり、御一族を始めとし、旗下末々に至る迄、旗を翩飜とひるがへし、何れ城にても責め落し、一銃に籠城して、運つきなばいさぎ能く討死し、波多家の武勇を残すべしと、寄々會合して誓ひ置き候得ば、先黒髪山に楯て籠り、敵の色を顯はすべし。来る十日は伊萬里の大法寺に會合せんと、廻文を出せしと申上ぐれば、三河守は居直りて、不甲斐なき我れを守り立て、再び家名を耀かさんと死を一統に極めし事、忠義の程頼母敷、斯迄一決せし事いかでか疎略に思ふべき、されば討手を引受けて、敵味方の目を驚かし、骸骨は戦場に晒すとも、悪霊と成って目指す大敵を亡し、讒者の奴輩の根をたって葉を枯さんと、自ら廻文を認めて、一族旗下末々迄、大法寺へぞ集めける。三河守も忍んで彼の地に趣きけるが、途中にて突然と気分悪敷、一歩も進めねば、如何せんと附々の者あきれ果てて居ける所に、三河守心付、伊萬里には我れ居城に在し時、側近く召仕ひし女あり、其心根貞節にして大丈夫の士にも劣らぬ気性なり、元は此所の山伏の子たりし故、家に戻りて坊主を養子にして是に嫁せり、稚き頃より城中に呼び不便を加へ置しにより、其恩情は忘れまじ、此坊に立ち寄って服薬し、暫く病を養ふべしと、金剛坊に立寄りしに、此女は夫に早くをくれて、四才なる悴一人有りけるを養育し、只二人住みけるが、三河守の零落を深く悲み、哀れ若殿を守り立て、波多家再興せん物をと謀る者はなきかと、女ながらも口惜く、如何にかして我大恩を露計りもや報じ奉らんと、思ふ心の切なれば、さまざま病苦を労はりて、厚く介抱しけれ共、次第に気分重く成り、會合もならざれば、又御厨屋へぞ帰りける。
 此の女の由緒を尋るに、波多三河守或時黒髪山詣の時、伊萬里近邊を通りけるに、道の傍に少しの森あり、其陰に嬰児の泣聲聞えければ、三河守怪み見せしむるに、小袖に包む錦の袋に入れたる守刀を添へて、薮神の拝殿に置かれたり、其近を尋ね見るに、外に人気も有らざれば、得と見届、其由三河守に告げければ、直に抱きとらせ、伊萬里の山伏に預け置き、追々扶持米等渡し置き、八才に成りしとき、岸嶽の城中に呼寄せ、仮りに山伏を親として成長しける。心たけく艶に優しく操正しく、十三歳に成りける時より、若房を勤めて才智藝能も並ぶ者なし、奥方の気に入り側を離る事なし、然れども正しく、奥方の心に落ちず、何方へぞ縁を求めて嫁せしめんと思はれけれど、相應の事もあらざれば其儘に置れしに、三河守不意に配流と成りて、常州に赴かれ、居城は忽ち離散し、親族旗下末々迄、浪々の身と成りければ、奥方嫡子も佐嘉表へ引き取り、若房も力なく金剛房に戻りける。歎きの先の幸なる哉、金剛房に子なき故、養子を求めて是れと嫁せしに、一子を設けて養子の坊は死しければ、此子に坊跡を授けて暮らし居けるが、大恩の主君なれば此の有様を歎きて、女にこそ生れけれ、心は勇士にも劣らじ、再び配所より催ふして、主君を守り立んと謀る者あらば、一番に走せ行かんと、斯く女が君を慕ふて大恩を報せんものをと、長刀を磨き立て、勇士も及ばぬ心のけなげさも、不運の上は是非もなし。此女、實は西肥前の領主西郷左衛門太夫が妾腹の娘にて、懐胎四ケ月にあたれる時、西郷は墓無くも龍造寺隆信の為に討死し、西郷領一圓龍造寺の所領となり、居所もあらざれば、懐胎の妾忽ち流浪の身と成り、いかに運は盡るとも、出生の後此姫を下民の家には育てまじ、一度は世に出さんと、三河守が通行をば見立て、道筋に捨て置たり。此時三河守思ひけるは、斯様なる子を可捨者、此邊隣には有るまじ、全く西郷が子成るぺしと心付きしかども、知らぬ顔にて山伏に預けし也。
 斯で三河守は御厨に引返し、一族旗下打寄って、種々養生を加ふと雖も、次第に病気も重りて、終に命数盡きければ、松浦一黨力を落し、忍々に寄り集り、葬式とても世に憚り、哀れの中の哀れにて、ひそひそと取り賄ひ、下松浦の志佐にぞ葬り、墓印しを残しけり。されども、舊領の諸山・諸寺にて忍び忍びに法事を勤め、法名前三州太守大翁了徹居士と號し、因緑深き寺にては、末世に位牌を守護し、年回年回を弔ひける。別て清涼山浄泰寺は、永録元年辰の春足利将軍義輝公の代に、波多三河守直、公役上京の砌叡山に詣りしに、横川の邊にて今の本尊阿弥陀佛を拝し、頻りに松浦へ来臨し給はん事を願得て帰城し、飼所の内神田村山口と云へる所に、山谷の水清浄の地有るを見立て、一宇を建て清涼寺と號し、寺料の田地を寄附せし精舎なれば又因縁他山に異なれり。
 其外代々帰依の社寺も多しと雖も、斯る不運に成りぬれば、一族旗下を初めとし、家の子郎黨残りなく散々に成り、或は山の茅家に弱々と煙を立て、或ひは住捨てし庵に入り、追々に死しければ、謀計も今は空しく消へ、城は崩れて山野と成り、松柏は樵りて薪となり、神社佛閣素より一場の夢と成りて、松浦の黨頭某と其名のみ計りぞ残りけり。
巻二

一 朝鮮征伐名護屋御陣所 松浦古事記参照

二 同軍勢着到      同 前

三 名護屋御留守在陣衆  同 前

四 同御番割       同 前

五 鬼ケ城之事      同 前

六 筑紫北面之士知行高  同 前

七 鬼ケ城間数之事


 鬼ケ城本丸は西は高山より平地迄、東西三十間、南北十一間計り、南西の方三尺計り土手残り塀の跡と見ゆ、東は本城と二の丸との間に続き跡あり、少しひくして東西三十間、南北五十五間、又其東北の方二の丸あり、上のひくき所より少し高し、上の廣さ東西二十五間、南北十間計り有り平地也、二の丸今は野草生ひ茂り築石瓦等も所々に見ゆ、所々にから堀残れり、嶮岨に前後を見卸し誠に要害の地也、居城は大村野に引地の城とて、山道鬼ケ城よりひくし、無怨寺社より二三町村上成る処也、引地の山麓に草野氏の居城あり、村民は御館と云ふ。其舊城を見るに、北の方谷川・堀ありて高石垣也、南北六十間余、東西二十五間余、平地也、今畑と成り、石垣二間計り下西の方引並び、南北六十間余、東西二十間余、同跡有り、北の方谷川流出、石垣高さ二間計り、下引添南の方へ流れ出ぬ、北山を城平と云ふ、引地山頂上南北三十八間計り、東西十間計り、本城と二の丸との間又続きたる跡あり、少し低くして長し、東西二十五間計り、南北七八間東西に当り続き、二の丸あり少し高し、廣さ東西十二間、南北二十五間計りあり、上は平地、本丸は今松山と畑に成り、岸崩れ、畑などより自然焼物・太刀類堀り出し、村民恐れを成して山探く埋み、或は寺へ上るも有るよし。又域より南北の方、谷間より登る道あり、探切と云ふ、夫より東の谷城の裏山蔭、東北の方へ谷川流れ、是を城の谷と云ふ、田畑山共に字村の民申傳ふ也、前は大川東西に流れ、後ろ山・東大谷・嶮岨也、西は村内家臣屋敷跡廣く地続き、今も民宅多くして各々区別を成せり、廣宅多し、無怨寺社の前、村の人口、大手の門の有りし処を大門と云ふ、二の門跡かまへ口と云ふ、凡そ此城其分内廣からずと雖も、山の上険によりて築きし城なれば、要害堅固の地なりとかや、引地より遙か低く、東西五十間余、南北三十五間計り平地にして、今畑に成る、松尾某の築きし草野脇城也、松尾城は康永年中より草野中務大輔鎮永入道宗揚二重ケ嶽に住す、其麓にも端城の跡あり、是れ本城の取出てなるべし、鎮永は原田了栄が三男なり、草野長門守永久養子として草野の家を継がしむ、又鎮永二男信種、原田親種死後に了栄是れを養子として親種が子とする、故に實は了栄が孫也、信種元服の時に龍造寺隆信一字を免じて信種と號す、草野鎮永は名を云ふ勇者にて、所々合戦勝利を得勢ひ増長し、其頃京都には豊臣秀吉公諸國を平げ、天正十五年の春九州の敵を討んとて下向し給ひ、大友義暁と立花・高橋・筑紫等は秀吉公へ兼て使者を立て降参し、薩州先陣を勤む、秋月種眞・原田信種・草野鎮永は無二の薩摩の方なりければ、豊前の小倉に出向ひ、上方勢を押へんとて、先軍勢を伺ひ見せん為め、信種より波多郷丹後守種堅、笠大炊助貞長を差遣しぬ、両人は物馴れたる者にて秀吉公に敵対叶ひ間敷事を悟りて、宮部善禪坊・浅野弾正長政を以て、信種降参の使のよし申上ければ、則秀吉公悦び給ひ、両使を御前へ召し、御腰物下され、薩州先手に加るべしと被仰付、両人は急ぎ帰り此由申せども、信種あへて承引無し、草野は元より近郷合戦に勝利を得、己れが武威に誇り、秀吉とて何程のことあらんやとて、小倉の場をぬかし、終には原田下野守信種・草野中務大輔鎮永は領地悉く被召上、則信種は肥後の國主に預け、鎮永は筑後城主へ被預け置、此時草野原田家断絶す。其行末を尋るに筑後の國へ子孫なし、唐津へ有り候由、古書に云ひ傳ふ。
 又先祖墓所等を尋るに、寺澤公の時、慶長の頃、大川普請、土手石垣築等に、城跡の石或は石塔、皆大川土手に埋りし由申傳へ、たまたま山畑岸崩れより、年暦へて石塔出るもあり、委く相知れ難し。後年の人是を憐んで弔ふべし、玉島山千福寺境内に塔あり、是れは古し、今功岳寺にあらあら記置有り云々。



八 吉井嶽古戦場

 吉井岳は吉井村に有り、此郡土は吉井左京亮陸光居城也と云ひ傳ふ。元亀二年正月肥前の國草野中務大輔鎮永、吉井左京と領地の堺を論じて、争論に及ばんとする事度々也、此の草野鎮永は原田了栄が三男なりしが、草野長門守永久養子にして家を継がしむ、吉井も原田の旗下なれば、丁栄より深江豊前を以て和睦を進むれども、深江が吉井を引くにこそとて草野方不聞入、既に二千余人の兵、岸岳の城より送り出し、肥前と筑前の境、鹿賀嶺を越えて吉井深江両人の城下を焼討し、深江方小勢なれば小金丸・波多江等に加勢を乞ふ、両人止む事を得ずして由頃重留に触れて同道し、同十五日の暮れ方、吉井濱に張出し事の様子を聞くに、今日の回合に草野方利なくして、鹿家をさして引退き、吉井濱深江が勝軍して、己が居城に帰りける。小金丸以下明けなば引入らんと、其夜は野陣を張って有りける処に、寅の刻計りに草野鎮永押し寄せ閧を作る、小金丸等の郡士備へて押出して見るに、草野勢四五百人唯一所に控へたり、扨は今日の回合に吉井・深江いさゝか利有りしかば、草野が一陣は引入り其残黨寄せたりと心得、只一揉みにもみ崩さんとす、草野方の軍将是れを謀り、逞兵を選って六百人物影に伏せ置き、残勢指顯して見せければ、敵は小勢と見侮りて、進み掛らんとする処を伏兵一度に起りて、横合に掛て勝負を決せんとの謀也、小金丸・波多江等は是れを夢にも知らず、除々に深入して戦ふ処に、草野が伏勢、青木大村の兵一度に起りて、小金丸・波多江・重留等が後より閧を作りて攻め戦ふ。小金丸案に相違して引返さんとしけるを、敵は前後の弓手鎗先を揃へて突き掛る、右手海なれば洩れて出づべき様もなし、中々わるぴれて敵に笑はるるなと、向ふ敵に引組で指し違へて重留六郎、波多江上総鎮、同治郎・岩熊河内・吉田又五郎・徳丸勘左衛門・鬼木治郎八を始めとして、三十八人枕を並べて戦死す。去る程に、深江豊前、吉井左京が館に鐵砲音、閧の聲手に取る様に聞えければ、各々一騎がけに馳せ来り、命を塵芥に比して戦ふ、草野大村以下二度目の戦ひに討ち負けて、人数若干討せ鹿家を打越えて草野郷に引入らんとしけるを、追掛けて首百計り討ち取る、鹿家岸に切り掛けて、深江岳の城に引取りける原田も、是を聞き双方を鎮めんとして高祖より打出でけれども、軍散したると聞き其儘加布里の江に滞留し、重留・波多江、以下吉井濱に討死したる士共の死骸を引取り、在所在所に送り、草野・吉井を和睦なさしめしとぞ。同二月十一日大友宗麟の下知に依って、安東某好士岳の城に来り、臼杵新助と相談して、草野・吉井・深江を勧めて和睦せしむ、和睦調ひ原田も高祖へ帰城し、小金丸民部大輔も小金丸小山の城に入りにけり。



九 松浦軍記曰 龍造寺草野和睦之事

 天正元年十一月初、龍造寺隆信松浦郡為征伐佐嘉表出馬あり、神代刑部大輔長良初めて拝謁し、謀臣神代封馬守・三瀬大蔵・並逢瀬杜岳を揃へ加勢に出し、先づ吉志蜂城主波多三河守鎮、草野宗揚鎮永に相通じたるを攻めければ、波多あへて異俵なきを辯じ龍造寺にぞくして、八並武蔵守・福井山城守を遣し、同國獅子ケ城へ攻め掛る、城主鶴田越前守元より草野に心を通じければ、数日を越へて防ぎ戦ふに、鍋島信利先登して進み、自険を取って戦ふに依って防ぎ兼、鶴田弟兵部少輔佐嘉勢に参りて下城を乞ふ。やがて波多・鶴田・草野の先陣を勤めける。
 龍造寺河内守馬渡主殿を獅子城の加番に据置きける。斯て唐津に掛りければ、草野鏡の出城より打って出で防ぎ戦ふ、搦手には草野の本城、後山の登峠に押し掛りける、十二月中旬にて大雪強く、峠の半にて進み兼て止りけり。然るに草野が三男青木備前守永利を始めとして、老臣加茂・平原・諸熊等の臣、登峠出丸にさゝへて防戦す。依って佐嘉勢大半此処にて討死す。久納半兵衛を青木備前守自ら鎗を取って突き伏せける。鍋島信利をも討ちける、大手の一陣は鶴田兵部少輔・八並武蔵守・神代対馬守・三瀬大蔵・千葉・田尻等也。二陣は鍋島信生也、三陣は龍造寺旗本同兵庫頭・同左衛門太夫勝、心一つにして責め掛る、草野鎮永は侮り難き勇士也、高祖の城主原田上野介・廣門隆永は草野が子なれば、後詰やせん、左ありては由々敷大事なりとて、手勢を分けて遣す、吉井城は草野出城なれば、吉井七郎左衛門尉永春を籠め置しに依って、佐嘉勢是れを囲んで、高祖より後詰めも叶ひがたく、其年の六月末迄、龍造寺も唐津に在陣して、諸手の下知を加へける。然るに下松浦平戸の城主肥前守も龍造寺に心を通じけるに付、草野鏡の城も防ぎがたく、本城草野へ引取りしが、続いて惣勢責めかゝり、射れども切れ共 事ともせず、一の城迄攻め詰たり、是より始終此処にては心元なし、裏の手を切り披け、筑前二重が城にて勝を決せんとて、老臣共の心を合せ、夜に紛れ裏手を切り披け、二重が岳に落行けり、夫れより高祖・原田の老臣龍造寺の陣に来り、草野と和平乞ひけるに、隆信不斜悦び、則鍋島信俊の次男三平を草野が養子に定めて、夫れより島原有馬に攻め掛りける、其節よりして草野・原田両家の将、有馬先陣とぞ聞へけり。
 諺に曰く、天正元年十二月晦日に下松浦・高祖双方より後詰めしたるにより、佐嘉勢つかれ、既に危かりしに依って、其夜大将士卒迄、自分鰤を鉋丁して思ひ切って暇乞をしたりけり。翌元旦松浦が心を通じける故危きをのがれたり、鍋島家には大晦日に自分鰤を鉋丁するは此吉例也。



十 筑後草野氏由来

 人皇三十九代天智天皇の御宇(白雉年中より十ヶ年なり) 筑後州御井郡草野の領主草野太郎常門は智仁の勇者也。観音の像を彫刻なし観與寺を建つ、時に勅使右大辨種政卿参向有り、此記事観與寺縁起に委敷あり、依って略す。其後戦國打続き諸家共盛衰あり、此常門より五百二十年の後胤、草野太郎永年は壽永年中、源平大合戦之時、九州之諸士共は平家方に参る、永年は源氏に附く、故に頼朝公より大禄を賜ふ。同州筑後に城廓を築いて住す、無男子故に肥前松浦郡草野石見守を為養子聟、號草野筑後守雅覚と、委敷は鏡大明神御系図、八枚目に出づ。両國に同名有る事不思議なり、嫡子勘解由・次男雅量に筑後御原の本城を譲ること、別系に出づ、故に略之、次男貞家肥前上松浦郡藤原の或家、則ち草野氏を継ぎ権守貞家と號す、是れより大名となる。鬼ケ城に住す、神職は一族多治見・青木氏其子帯刀相貞、其子四郎入道圓雅、元弘建武の乱に宮方に属す。元弘二年壬申八月二十九日依軍功賜倫旨、其子四郎武永、其子四郎永治、其養子石見守廣村(實は大宮司多治見廣忠の男)明徳三年壬申三月家督、其子左京大夫茂成、其子大膳太夫茂勝、其子伊予守茂信(天承三年癸未八月)家督、其子土佐守廣高、其子長門守永久(天文二十一年壬子八月二十一日、)逝去、南山之為城主、法名 勝運院殿前長州太守功岳浄勲大居士

一 筑前風土記に曰く草野中務大輔藤原鎮永、二重嶽之為城主、筑松尾城、今之引地城是なり、此鎮永は原田劉雲了栄之三男にて、永久之養子也。

一 松浦軍記に曰、波多氏・鶴田氏は元一族にして、草野氏之幕下也、波多鎮吉は草野永久之甥也。

一 草野中務大輔藤原鎮永元和三丁巳年二月二十日逝去法名 融光院殿前中務大輔梅岩宗揚大居士
 原田氏無嗣子、故に鎮永次男原田氏之為養子

一 谷口村に臨済宗・興聖寺。岡口村に曹洞宗・畳石山天澤寺。玉島村に曹洞宗・千福寺あり。此三ケ寺は草野氏の建立なり。今は名而巳にして寺跡もなし。

一 南山村同宗寶泉山功岳寺今猶顯然たり、永久之三回忌天文二十三甲寅年父永久為菩提、鎮永建立也。
 当寺十五世高州和尚、玉島山に在るを転じて塔を功岳寺の堂前に移し、新に台石を作りて記す。銘に泰心休安大姉と記し、下の台石に泰心安立石塔壹碁為頓證菩提也、慶長十四年己酉八月記載とあり、寺に草野の家系と鎮永の塔あり。

一 今も草野郷に家臣の末孫有り、多助祭を為す。

一 原田氏之子孫會津家中に在り同流澤木氏之子孫筑前家中に在り。

十一 草野氏系図 第二巻参照

十二 小杵山(池原村之内)

 建武三年の春、足利尊氏卿筑紫へ御開きありて、筑前國多々良濱に於て菊地掃部之助武俊と戦ひ、武俊打負け、菊地方肥前阿蘇の大官司八郎惟直も深手を負ひ、肥前國小杵山まで落ち延ぴたりしに、足利の家臣仁木四郎治郎義長、追来って此山にて戦ひ、不叶して惟直自害す。遺言によりて死骸を天川村天山に葬る、家来共に三人之墓今に有り。
 惟直自害の時、三歳の児を相具したりしに、乳母遺言を堅く守りて知らぬ山路を踏み迷ひ、白木村山中に岩穴有りしに隠れ、児を養育したりしにより、児の岩と今に申傳ふ、其後、方々と艱難して草野郷南山村へ落ち行き寄方なし、終に其処の社人南右京之進と云ふ者の妻となる、児は我が子として子孫相続す。



十三 胸打山(池原村之内)

 鏡宮司草野中務大輔鎮永の家臣、岩村右衛門尉正信百石を賜り、池原村に住す。然るに天正の頃、肥前の太守龍造寺隆信、草野を征伐し帰陣の時、岩村此の山に隠れ、手練の鐵砲にて主敵の龍造寺を討って亡君の仇を報ぜんと仕掛け居たり、隆信の陣代として三浦陽谷入道、馬上にて此山の麓を通りしを、岩村得たりと鐵砲を放す、陽谷入道が胸元を打通し入道落馬しければ、緒勢大に驚き其敵を尋ねると雖も、案内知りたる故其場を無事に逃げ延びたり。陽谷が死骸を其前に葬り、是よりして此処を陽谷の尾と云ふ、又は胸打山共云ふ。往昔は岸市山と申せし由、其後、陽谷が弟三浦次郎左衛門と云ふ者、兄の敵岩村を討んと、松浦一見と偽り、岩村が館に来り、四五日滞留して風雅など吟じければ、正信も好む処の道故に悦び互ひに無二の入魂となり、治郎右衛門が帰路を惜んで山影と云ふ処迄送り出でければ、互に又こそ尋ね来るべしと、東西へ立ち別れし処に、治郎左衛門は岩村が油断を見すまし、兄の敵覚へたるかと切り付けたり、岩村は思ひ寄らざること故、すばやく刀半ば抜きながら、二つに成って死したり。其時岩村が供に連れたる普代の下男次郎三郎、鎗の鞘をはづして主人の敵逃さじと、次郎左衛門があばらかけて突き通す、三浦白眼みて、己れ下郎めと鎗をたぐりて次郎三郎を一刀に討ち捨て、其身も共に落命す。依て此処に三つの塔有りけり。岩村右衛門尉が子孫、其屋敷に居住す、今に同人の太刀持傳へ来れるよし。



十四 鹿家古戦場

 天正十二年三月十三日肥前國波多三河守親、筑前高祖の城主、原田下野守信種と此処にて不慮の合戦す。其起りを尋るに、原田弾正少弼入道了栄病死の後、猶孫下野守信種、肥前の草野中務大輔鎮永と諸事を談じければ、原田の家中、士共の賞罰はさながら草野が計ひの様に成行きけり。彼の草野と云ふも、故了栄が持ちたる子の家にて、信種が實父の方なれば、原田が家の事には預るまじきにはあらねども、既に旗下也、信種少年と云ふにもあらず、其上一放家老ども才力ある老土数多有りければ、草野が原田家を分正すること、旁々然るべからずとて誇り逢ひけるが、斯く口々に云はれては、後は信種も中務の口入は家中の紛乱の基にや成りなんと危み思へども、さすが色にも出さず、心に籠めて月日を送る内、果して草野と原田が一族家老ども、諸事に付いて快からぬ事共有けるを、他國の沙汰には、信種弓矢の道を不得に依って、草野中務後見するを原田が舊臣共嫌ひ、草野を討んと謀ると云ける、波多三河守是を聞き、両家を思ひ侮り、草野と原田が所領上松浦の境に至って、山川を押領せんとする事両度也。原田信種を始めとして、家中の者共憤り思ひける処に、波多三河守方より、三月上巳の祝儀の使者として、波多掃部之助と云ふ者、高祖に来る、饗應ありて酒数献に及び、信種が士、笠勘助と云ふ者と軍物語りをして、聊か口論に及ぶ、勘助が兄・笠大炊之助と云ふ者、弟に荷担し掃部之助に散々に悪口して恥を與ふ、掃部之助こらえ兼、笠兄弟と組んで指し違へんとひしめくを、深江豊前守・有田因幡守・鬼木清甫等、老功の者どもなだめてぞ帰しける。掃部之助は三河守が従弟なり、余の郎徒さへあらんに、増て一族の掃部之助が事なれば、親大に怒り、高祖の士一々に撫切にして、掃部之助が恥をすゝがんとて、大村に加勢を乞ふ、三千人の勢を随へて鹿家を焼き払ふ。男女共二百計りの首を切る、原田下野守信種は、三千余人にて同十二曰早且に高祖を出陣し、深江の宿に着きければ、先手の勢は進んで吉井濱に陣を張る、同十三曰原田信種深江を立ちければ、先手の原田中将大輔・有田因幡守・富田大膳亮・笠・荻田・小金丸民部大輔、一千五百余人、吉井濱を打立ち、鹿家嶺を打越えて、波多が先手の波多掃部之助・池田・徳末・有浦等も一手にて相戦ふたり。未だ雌雄を決せざる時、原田信種旗本勢千五百人を率し、高山影より廻りて、敵の後より閧を揚げ、喚き叫んで掛りけり。すはや後より敵こそ打出たれ、案内者に取り籠められては叶ぶまじ、濱崎に引いて廣き処にて戦へと云ふ、ほどこそあれ、一千余人の勢駈込み駈込み、起ちつ転びつ逃げ散りけり。波多掃部之助は踏み止りて、きたなき殿原何処にか引くべき、返せ返せと呼はりけれど、引返す味方一騎もなし、掃部之助爰にて人交もせず討死して、先日高祖にての恥を雪んと、郎徒二十余人、左右に立って競ひ掛り給ふ、敵をあたるを幸ひに火花を散して切り廻りける程に、原田が大勢其勢ひに辟易して敢て近付かず、笠大炊肋是を見て、いでいで掃部助が首取って味方の勇を進めんと、傍若無人に云ひ散し、只一騎かけ出ければ、其弟勘助・石井内膳・富田四郎兵衛・中園左馬之助・長監物・西三郎左衛門・波多江丹後守・朱雀小治郎と、末與一兵街・太田孫治郎。浦志孫左衛門・萩原長門守・吉富兵庫頭を始めとして、五十七騎続いて掃部之助が二十余人を取り籠め討んとす。掃部之助が乗りたる馬の平首、二太刀斬られて尻居にどふと退りければ、飛び下り徒に成りて戦ひけり。郎等共も不残討死し、其身も痛手数ヶ所負ひければ、自害せんとする処を、笠大炊助が若黨走り掛り、引組んで二刀さし、大炊助に首を取らせける。波多は七山に向ひたる勢を呼び返し、待調べけるに二日延引しければ、池田・徳末・以下敗軍の士卒、本陣に崩れかゝる、一陣敗れて残黨全からず、波多が旗本騒ぎ立って下知をも聞入れず、麾下にも廻らず備を立てかねたる処に、原田信種先陣後陣一手に成り、三千余人太鼓を打て競り掛る、信種は黒糸威の鎧を着、黒き馬に乗って、大身の鎗の柄一丈計りに見えたるを追取、眞先に進みけれぱ、三千余人死を一挙の内に軽んじて喚いて掛りたりけり。波多も形の如く備を立直し、掛け合せて戦へども、先手の勢は即時に追立られ、右往左往に成って物の用に立たず、旗本の勢も臆病心付いて見へにける。かゝる処に原田が家臣深江豊前守良治、五百余人にて深江嶽の城より打出、船にて海上より攻合ける、吉井左京亮は橘岸より横合に掛るを見て、波多が勢一度にどっと崩れて、北をさして引き退く、三河守は何地へか引くべきとて、只一騎止って、進み掛る敵を五騎迄突て落し、大将に組んで差違んと、信種が馬印を目掛けて、尚も駈んとしけるを、池田左馬允・大川野玄蕃允・岡九郎兵衛など云ふ波多が頼み切たる勇士十六人引返して、こは如何なる事に候哉と、馬の口を取って南の方へ引き向け、跡にさがって追来る敵を面々に防ぎ戦ふたり。三河守は是非共討死せんと、馬の鼻を引返し駈けんとしける処に、池田左馬允・手綱にすがりて行くを、三河守刀を抜てむねを以て池田が冑の鉢を二打三打うちけれども、冑よければ砕けず、其時大勢走り寄って制しければ、力無く止りて濱崎さして引退く、是迄も高祖勢追来りければ、池田左馬允・大川野玄蕃・岡八郎等十八人討死す。其隙に三河守は唐津迄引取りけり。信種は討取る首四百余、淵の上に梟し並べ、夫より草野押への勢に掛り合せける。草野方是に力を得、城戸を開いて打出たり、波多勢内外の敵に取り籠められ、叶はじとや思ひけん、皆散々に落ち行ければ、信種しばし草野に滞留す、抑々波多原田旗下の領地に付いて合戦度々なり頃年は両家和睦して境目無事なりしに、今年不慮の合戦出来して、双方の死人七百余人、手負は数多数を知らず。是両家衰微の基たるべしと、諸人云ひあへりしが、五年を経て波多・原田・果して関白秀吉公の為に領地を没収せられ、子孫永く陪臣となりにける。



十五 神功皇后之事   松浦古事紀鏡宮参照



十六 鏡大明神二の宮之事 同 前



十七 鏡宮下臣之事

 鏡大明神の臣下五人、常吉・成清は祭の時、水の主火の主とて宮の両殿に掛かる。常吉は旗家老にして横田村の坂田の元祖、成清は國家老にして鏡村新藤次右衛門の元祖、兼末は大村大和の元祖、有清は半田村八右衛門の元祖、徳兼は久里村次郎左衛門の元祖なり。



十八 満島之事

 此濱昔は城山に続いて、松浦川は今二の御門の当りに流出けれるなり。今の洲口になりて山の合ひ切れたるに依って、地切(チキレ)と云ふなり。今満島(ミツシマ)と申す。昔天正の頃、豊臣秀吉公朝鮮征伐のため、此國に御下向ありて、名護屋の津に城廓を築かれ、日本の諸軍勢名護屋・呼子邊の野原に、七年の間御陣をすへられ、朝鮮國を従へ給ひて御帰陣の節、寺澤志摩守此松浦郡を拝領被成し他。其時御城を築きなされし也。山の名を満鳥山と云ふ、文字はマントウ山と書く也。此島の廻りに居ける浦人共を此洲崎になをし給へり。此島に佛神七社をはしける、其中天神は今の大石の丸山に移し玉ふ。それより天神山と云ひ初めたり。松浦不動・草野不動此二体をば聖持院別当、持佛堂に移し給へり。扨又八幡・熊野権現・英彦山権現・津守の観音、右の四社を今の地切に移し給ふ。此七社御城の守護神なり。それより此浦人他に出て何國よりと問へば、云ひつけたるまゝに満島(ミツシマ)よりと答へしなり。他所より神詣する人も、満島八幡へ参る、権現へなど云ひ付けたるに依てにごらず、満島を水島と云ふ事も云ひなして七社のいわれ是れなり。



十九 諏訪大神之事 松浦古事記参照



二十 濱崎を賤之里と云ふ事

 濱崎村を賤の里と云ふは、昔和泉國堺の商人、長崎へ下るに、日和なくして此浦に船を寄せ、順風を待ちけるが、此浦に容貌世に勝れたる「シヅ」と云ふ女あり。彼の男近き邊りの人を頼み、小夜更け人寝静まりて行き逢ひにける。程なく鶏の鳴きければ、歌に
  忍び来てまたきに鶏は鳴きにけり、今宵に百夜つぐよしもがな。女の返歌に
 一夜だに食はねば腹のひだるきに、百夜くはねばかつゑ死ぬべき、と読みければ、男興さめ、恋もさめて出で帰り、磯邊の船に乗り、長崎に行く乗合の人々に語りて笑ひけり。又上りに、姫島の沖より扇を差し、彼れなん賤ケ女と下げずみたり。卑しきを賤と云ふは之れよりの事也。



二十一 籠太鼓之事

 草野の庄の大村の田原の中に一樹のしるし有り、是れ即ち関の清次の屋敷跡なり。謡曲籠太鼓の物語として今に名残を留たるは此の関の清次の事なりとぞ。関は僅の侍なり、不慮の口論を仕出し、相手を多く殺しける。松浦殿聞し召し、彼清次を縛しめやがて籠舎と聞へしが、清次は大力者なりければ或夜籠を破りて落ち去せけり、松浦殿仰けるは、関が妻を捕へて、清次が有所を問ひなば知らざる事あらじと、詮議なり女房を縛めて拷問を以て尋ねけれども、をづべき気色もなく、女房の云ひけるは、女は五障の罪深しと申せば、此苦みにて罪を晴し候事嬉しやとて少しも驚かず、愚かなる事問ふ人かな、仮令死したりとも、二世をかけし我夫を返させて失ふべきか、身代りてこそ二世の甲斐も有るぺけれ。我が夫に破られて落しける籠のなさけ嬉しけれと、籠に掛けたる太鼓を打て、勇をなして喜びける、君御覧じて、物もやさしき女の心や、清次を援くるぞ、有所を語れ、本領を取らするぞと仰せければ、君のたばかりことや言はせて、夫を矢はんとの思ひにやあらん、其行衛を知らざるものをと涙を流しければ、君御覧じて、弓矢八幡も御知見あられし思ひなり、筑前の宰府に知る人のおはすれば、若し此所にもやと云ふ、頓て使を立て呼戻し、本領の上に加増を給はり、二度仕へ奉りし也、女房の情深かりしにより、籠太鼓と云ふ謡一番につくりて、今の世までも名は残れり。



二十二 松浦古歌十首 松浦古史科第四章参照



二十三 唐人町と云ふ事

 唐人町は高麗御帰陣の節唐人共を召し連れられ、此所に置き給ふに依て名付く、是れ焼物師の先祖なり。依之晒布差上申候。



二十四 茶碗土取始め之事

 牟形村御茶碗土寺澤志摩守公御時代にては無之候、大久保加賀守様御代に掘出し、夫れより願上、初めて此土高麗の土に少しも不異日本無双の土也。併し厚く焼き候ては重く有之由、日本の銘器なり。



二十五 鏡山と云ふ事

 鏡山と云初る事神功皇后此山に登り姿見の御鏡を御覧被成候て旅のやつれか影はつかしやと御捨被成候由夫れより名附ると云へり。



二十六 里名之事

 一 松浦之里は鏡村之事。一 賤之里は濱崎之事。一 川上之里は平原之事。 一 唐津と云ひ初る事、古へ唐の船出入之津故、名附けるとなり。


二十七 宝加津羅

 玉加津羅舊跡鏡山の邊りにあり、松浦物狂ひと云ふ謡に作り有之なり。


二十八 遠干潟と云ふ事
 古は久里村・鏡村・梶原村・有喜村迄之所入海にして、志州公御普請にて田原となる。此所をさして遠干潟と云ふなり。亦は松浦潟とも云ふ由なり。


二十九 名古屋六坊之事

 安楽寺。本勝寺。正圓寺。傳明寺。行因寺。安浮寺。但皆眞宗なり。右六ケ寺、名古屋御在陣の節御定被成候、御帰陣之以後、唐津御城下へ引取被成候由なり。


三十 高徳寺之事 松浦古事記参照

 釜山海高徳寺は朝鮮釜山浦へ諸大名の御供仕引導相勤る依之釜山海高徳寺の寺號被下候御朱印之寺なり。
 但御朱印は秀吉公御一代成るや不詳。


三十一 御朱印寺社並石高之事 松浦古事記参照


   三十二 唐津領 名産村々
 一 岩屋松茸
 一 山本大根
 一 黒岩茶
 一 珠島川鮎
 一 星領蕨
 一 今村鮒
 一 石志牛蒡
 一 廣瀬葛粉
 一 平原米
 一 湊 麦
 一 志気栗
 一 松浦川鯉
 一 推峯茶礎
 一 大村川白魚
 一 名古屋海鹿
 一 七山竹
 一 仮屋生海鼠
 一 馬渡島馬
 一 佐里木綿
 一 厳木麻
 一 伊岐佐猪
 一 鹿賀蕎麦
 一 赤木大豆
 一 湊 鯛
 一 五ケ山カヤノ木
 一 大村紙
 一 畑津鰯
 一 岩屋松
 一 大川野鰌
 一 和多田胡瓜
 一 徳須恵大葱


三十三 御茶屋之数

 一 黒川村一軒
 一 吉井村一軒
 一 鏡村一軒
 一 厳木村一軒
 一 徳須恵村一軒
 一 杉野浦一軒
 一 大川野村二軒
 一 名古屋村二軒
 一 呼子村二軒
 一 和多田村一軒
 一 濱崎村一軒


三十四 御境目関所

 一 筑前口福井 一ヶ所
 一 佐嘉口中ノ島 一ヶ所
 一 佐嘉口川原 一ヶ所
 一 佐嘉口府招 一ヶ所
右四ヶ所、郷組両人宛番相勤来候処其村にて役高二百石、掃除食焼高にて御引被成候、土井周防守緩御代、御定番人三人御居置被成候、高五十石御引被成侯。


三十五 古城津守番人頭

 一 古城番名古屋村 一ヶ所
 一 津守番呼子村 一ヶ所
 一 牧島守馬渡島 一ヶ所
 一 古城番岸山 一ヶ所
 一 古城番岩屋 一ヶ所
 右之所侍衆にて御出張被成候。


三十六 遠見番所

 一 鹿家口其所へ 一ヶ所
 一 神集鳥御扶持人 一ヶ所
 一 馬渡鳥御扶持人 一ヶ所
 一 田島御扶持人 一ヶ所
 一 納所其所へ一ヶ所
 一 串其所へ一ヶ所
 一 黒塩其所へ一ヶ所
 一 杉の浦其所へ一ヶ所
 一 星賀浦其所へ一ヶ所
 右者御領分より扶持給所高にて割合出候由也。


三十七 高札場

 一 深江馬備一ヶ所
 一 濱崎一ヶ所
 一 鏡一ヶ所
 一 厳木村一ヶ所
 一 馬場村一ヶ所
 一 星賀村一ヶ所
 一 大川野村一ヶ所
 一 杉の浦一ケ所
 一 満島一ヶ所
 一 黒川浦一ヶ所
 一 徳須恵村一ヶ所
 一 名古屋村一ヶ所
 一 呼子村一ヶ所
 一 神集島村一ヶ所
 一 府招一ヶ所
 合十六ヶ所 内一ヶ所は土井大炊頭様御代除之。


三十八 往還筋峠

 一 橘峠 鹿家吉井の間
 一 中山峠 佐志唐津の間
 一 駒鳴峠 稗田駒鳴の間
 一 大屋峠 水留村と行合村聞
 一 池の峠 府招と佐賀領の間
 合五ヶ所


三十九 往還筋大橋

 一 板橋 魚屋町
 一 土橋 養母田村
 一 土橋 徳須恵村
 一 土橋 吉井村
 一 土橋 佐志村
 一 土橋 唐房村
 一 板橋 水主町船頭町
 一 土橋 徳須恵と竹有の間
 一 土橋 k木村と厳木の間
 合九ヶ所


四十 嶽と唱へ候高山

 一 田代嶽 但一名は八幡嶽大河組田代に有り此山六分は佐賀領に掛る。
 一 前嶽 川原村
 一 雨山嶽 川原村。
 一 佐礼嶽 伊岐佐村
 一 吉井嶽 吉井村 筑紫富士又は浮岳とも云へる。
 一 雲吸嶽 湊村
 一 岸嶽 岸山村と稗田村の間
 一 目嶽 徳須恵村
 一 鎌倉嶽 竹有村
 一 大野嶽 畑河内村
 一 飯盛嶽 畑津村
 一 御嶽 井野尾村
 一 牟田嶽 牟田村 佐賀領に四分掛かる
  右之外高山有之候得共略之。



四十一 寺澤志摩守様御代郷中へ被仰出候
     御條目並大久保様御代同断之事

  〇覚
 一 村々組合御定に付惣庄屋相定候。萬事惣庄屋申渡候儀相背間敷候。何時によらず申付候御用之俵、如何様成る事に候共、先相調可申候、若依怙贔屓仕候も、其以後理非に穿鑿仕様子可申聞事。

 一 惣庄屋役儀の事、今迄の外に、其村々に高百石令用捨候、一ケ月三度宛、組合之村々より廻り.其村々庄屋へ萬事油断不仕様に可申渡候、若小百姓一人にても断無之者候も、惣庄屋並其村々之庄屋、曲事に可申付事。

 一 株田起候儀、時分延引候も、惣庄屋より其村々庄屋に急度催促仕、料作根付置、仕附草水致油断、御年貢未進仕候も、曲事に可申付、並脇庄屋何事に不依申淡儀候も、惣庄屋へ可相尋候、附り公儀御用之儀は不及申事。

 一 御免定之儀、下札出候も、其旨小百姓共にも不残可申開候、成下平均其年之立毛に應じ、善悪甲乙無之様、其村々庄屋百姓申寄合平均可申候。若互に申分有之候も、組中の惣庄屋に申聞可相済事。

 一 立毛善悪相應に平均申上迄は、百姓大小不依、若未進仕候も為其村中皆済可仕候、此儀兼てより組中へ惣庄屋村々之庄屋可申聞、不正に於ては曲事可申付事。

 一 御年貢納所在候儀、組中之百姓若見合たりと申者も、其村々之庄屋に申聞、其上にて惣庄屋に可申聞候、見隠候も可為曲事。

 一 御普請所大分之処は、他の組より越夫可申付候、組中之村として罷成儀に候も、常々繕ひ可申候、若捨置及大破に候も可為曲事。

 一 酒肴菓子に至迄、村々にて売申間敷候、並諸商人
 多葉粉(タバコ)売・レンシャク掛・一人も村中へ入れ申間敷候若入れ候も組合中より見附次第、惣庄屋へ相届可及其沙汰事。

 一 神事祭り、他村より客人一切呼申間敷候、最費成事も令停止事。

 一 百姓之縁組之儀、其村々の庄屋に相尋、誓約可仕候、祝言之砌宜く祝儀可仕と存候も、鈴一対、魚類肴少々、野菜此外遣候も、其村庄屋、惣庄屋可為越度事。

 一 女童子迄、着類之事、絹物一切着せ申間敷之事。若着せ候も、其村庄屋、組中の庄屋可為曲事。

右之條々少も於相背、曲事に可申付候。其外其時分に申付候御法度之儀、諸事可守其旨趣候也、依って如件。

 寛永十三丙子年八月二日  熊澤三郎右衛門判
  大川野村庄屋十五右衛門殿 但此十五右衛門は惣庄屋也

 ○庄屋給高御書出左之通

 一高何石何斗
 右為庄屋給、居屋敷作料之内を以遣候也
  慶長十三戊甲年正月三日   志摩守丸印

    何村庄屋誰
 右之通横紙に御書出し被成候、村々庄屋、古代より相続之者は処持仕居申候。

 一 以前正月二日年始之御礼申上候処、翌三日御用之儀有之候間、御廣間に罷出候様に被仰付、依之翌年より町人と前後に成るなり。

 一 御参勤、又は御下り被遊候節は、八軒町にて御目見被仰付候処、渡口より御船に被召候間、御郡中、庄屋共被仰渡候儀有之候間、満島へ罷出候様被仰付、依之不残満島へ罷出候処、其支配村高に一厘掛り、其年の毛付を以て被下候間、扶持米に可仕旨被仰付候、御船中故、御書付無之、其後御上下共に満鳥にて御目見申上候。

 一 以前、庄屋御取立被遊候時分、波多殿浪人亦其所にて由緒納上、宣敷者に被仰付、然者諸用不勝手の訳申上候処、庄屋高百石迄者作仕候様被仰付候、依之、右役高御用捨被仰付候、然共不身上にて作仕候儀、難成訳申上る、依って組合之村々より、一年に百人宛合力可請候、並支配之村夫は、一年に三度雇合力可仕旨、堅く被仰付候得共、大久保加賀守様御入部被遊、五十人に減申候

 一 以前は役儀御免被仰付候共、居屋敷、田地の儀は無相違罷在候、就レ夫惣庄屋居宅之儀は自分修複也、座敷・煮焚間・垣根・湯殿・雪隠・組合より行之、役儀御免之時分、座敷・煮焚の間は解き、組合に渡候也。組継状は、自分に家来を置、惣庄屋より勤候て、役料米取候由也。組合より状持せ候得ば、役料取不申候。然れ共、段々組継相増候て、自分持せ候て不勝手に相成候に付、組村に出候由及承知候也。

 一 村々により、庄屋給御書付持不申庄屋有之候。右書付御渡被下節、願不参又は庄屋無き処也。

 一 元和之頃、御検地被遊候旨にて、御領分一同、惣庄屋、組合之庄屋にて取り極め候也、其以前は侍衆地方にて直に御取り被成候て、長司と申、御領分に七人有之候由なり。

  ○百姓に御直に被仰渡候趣
 寺澤志州公御検地以後、御領分度々御巡見被遊侯て、庄屋百姓共に被仰渡候。

 一 田地水賦の儀、末世に至り無相違様可仕事。

 一 井磧、其外用水溝、末々共に違変不仕、大切に可仕事。

 一 株田た趣候節、境畔・刈株・一本通立置、互に物云無之様可仕事。

 一 畔前之定之通、拵可申事。

 一 当年地主入れ替候も、田麦は作者無相違、先主にて請取候、畑麦は当主より可請取候。乍去先主請取候も、半物成上納可仕事。

一 作主替り候時は、開置候切畠、其外仕立置候品々、田地に付可申事、乍去訳有之候て、其田地作り不申候内より、持来り候はば無用之事。

一 百姓共、銘々持地念を入れ作り可申候、若悪敷作り無精に於ては、急度被仰付候事、附り仁儀曾て無用之事、耕作出精之上、自分之心能く家を守り、國主に対し忠孝第一に可存候。

一 惣庄屋御用にて罷出候時分は、仕夫一人宛、支配之村より可召連候、但又百姓共無異儀可相勤候事、附り領分中へ若如何様にて馬に乗候節、手傳馬之通りにて出し可申事。

一 脇庄屋勤方之儀惣庄屋より差図可仕候、惣庄屋勤 方邪行候も、組合之庄屋より為申聞互に悪事無之様可申留事。

 ○庄屋御取立衣服之事

一 衣服は絹紬迄心次第着用

一 鉈脇差心得次第之事

一 袴着用、然共御家中へ罷出候節白衣にて罷出候由之事

一 馬勝手次第、若御使被下候節は、惣庄屋へは御徒衆。脇庄屋へは御足軽衆。百姓共へは御中間。

一 御廣間へ被召出候節は、惣庄屋は御廣間に一面着座一通り、脇庄屋板敷椽側に入込、焼物師・鯨突・鎗柄師・末座に居らせ申候由。

 ○百姓家居根山之専

一 百姓家、居根山は大久保加賀守様御代、被下置立申候、伐り候時分は御切手にて何時にても自由に伐取り候処、土井大炊介様より御切手にて願の上伐り取候様被仰付候。

 ○樹木伐之事

一 大久保出羽守様御代より、百姓樹木類初秋水奉行相改、帳面に付置、御用次第菱上申候。然る処樹木無之村も有之、多分有之もあり、不同有之候に付、米にて差上可申旨、夫より上納米仕来申候、大小村々に米四斗宛と相極まり申候。

 ○名頭之事

一 名頭と申は寺澤志摩守御領之時分、百姓中へ被仰付儀有之、不残罷出候儀、難儀に被思召、向後村々に百姓代名頭立置、不残寄合に及び不申候由被仰付、依之村々に應じ名頭立来候、今之名頭なり。

 ○夫米之事

一 夫米は、其村高に一分五厘掛りにて差土候儀、地方御取被成候、侍衆其知行所之百姓、勤番、被召及難儀候に付、御雇米差上可申候旨申合、其後一歩五厘上納仕来申候、然共諸國共、夫米之儀有之候由。

 ○御代々御城主様御入部之節、郷中より差上物之事

一 一組より鳥目一貫文宛差上候て、大庄屋並小庄屋御目見被仰付来候。

一 焼物師、御茶碗差上申候。

一 鎗柄師、鎗柄差上申候て御目見被仰付候。

 ○庄屋相続之事

一 御領分惣庄屋、脇庄屋、寺澤志摩守様御取立被成候以来、兵庫頭様御代迄、一人も替り不申候。若役儀不叶時分は、御願申上替申候得共、居屋敷、田地無別條被下候。

一 大久保加賀守様御代、庄屋の内に重罪の者御座候て、御追放被仰付候、其跡新庄屋へ被下候、舊例之様に罷成入替被成候。

 ○郷足軽御取立之事

一 波多家浪人、佐賀浪人之者迄被召出、初て大川野組三十人、御取立給田として五反宛被下、長崎・佐賀領口、相守候様被仰付、小頭二人、大浦清助・中島儀左衛門・十五人宛御預け被成候、右両人之者へ、御朱印頂戴仕候て今に所持仕候、其後大坂御普請の節、組子召連罷越候、跡小頭無之候に付、草場冶左衛門・仮小頭被仰付候、夫より三人に罷成候、最も治左衛門方には御朱印無之候。

一 其後、小麦原・畑津・中島・夫々境目相守候様被仰付候。尚又鏡・和多田の儀も、住還筋、御城下迄相守候様被仰付、無役にて罷在候得共、兵庫頭様御逝去以後、御公料に相成、御上候様、城付之足軽御呼出被成、御領分中に立山之儀を、郷組より相守様被仰付、夫より山廻り相勤来り候。右郷組.大川野へ三十人、小麦原・畑津へ十四人、廣瀬へ十人、鏡へ六十人、内中原へ七人、和多田へ二十人、都合百四十一人、三郷、足軽御仕立被成候。



四十二 唐津御城地形割

一 御域高さ十九間、南北六十五間。

一 天守台東西十一間四尺、南北十九間五尺。

一 石垣高さ六間。

一 二の丸東西三十九間、南北百十五間。

一 三の丸東西二百六十五間、南北二百五十間。

一 下曲輪東西六十間、南北八十間。

一 矢倉敷九軒。

一 町敷一萬石に付、一町宛にて七十二町と極る、此町割並惣行司廻り。

一 刀町、米屋町、大石町、紺屋町、魚屋町、呉服町、本町、八百屋町、中町、木綿町、材木町、京町。

外に塩屋町、東裏町、十人町、寺町東西、新町、坊主町、水主町、柳町、八軒町、弓町、鷹匠町。
 此町々は御地行増之時、御心得にて名付有之候由、依之惣行司廻り無之候。



四十三 寺澤志摩守殿之事並鏡宮神霊寺澤兵庫頭殿変死之事

 唐津城主、知行高十二萬三千石、従四位下行寺澤志摩守藤原廣高之父君は、寺澤越中守中臣廣忠公、其釆地は大和國内也。太閣豊臣大君に随身して武功有る、天正十九年辛卯朝鮮征伐思召立之時、若殿寺澤忠治郎正成御供として、名古屋御在陣の始は、惣軍鑑、兼御船奉行職也、父君越中守は豊公御陣見廻りに下向有りて、名古屋にて逝去、文禄四乙未正月十四日火葬し、其場所今猶存す。唐津城下浄泰寺境内に納骨顯然たり、為家督号志摩守ト、後ち故有之神君為随身、一代之功労莫大也、其一にて揚る事爰に記す。唐津八萬三千石、天草四萬石都合十二萬三千石拝領有り、名護屋の御城を引き、唐津に築城、領内改検地田畑定高、下有浦、黒川等之開田、松浦川と畑川の間久里村にて堀切為一流、今其所を落合川と云ふ、埋板継川を新田となす。元和二丙辰年、鏡大官司正二位多治見伯耆守藤原廣復之為尚子。藤原廣高と號し寛永十癸酉年次男兵庫頭藤原堅高に家督を護り、廣高遺言に我死後、骸を鏡の二宮の間に葬りて三宮と可祭由被申置、依て寛永十年癸酉四月十一日逝去之節、其通り取計ひけるに、神慮に不叶哉、晴天に宮山の大木折れ、堅高並に家来何れも悪夢を見る事数夜、又目の当り震動雷電して悪敷事多き故に、早速棺を堀出恵日寺に置き、悪事鎮る。此故に今も恵日寺に御加力米一石三斗有り。然れ共遺言難止神霊に祈りて、今の地に為改葬と申傳へり。碑之題に前志州太守休甫宗可居士、寛永第十癸酉年孟夏四月とあり。同十四丁丑年領内天草島一揆発り、御上使御下向にて、明年二月に至り平治となる。其罪を糺し、島原城主松倉豊後守は切腹也、兵庫頭は天草四萬石御取揚、残り唐津領八萬三千石被下置、一旦相済、然る処に正保四丁亥年十一月十八日嗣君竪高、武州於江戸に変死有、家断絶なり。来世と云共可恐事共也。



四十四 天満宮並連歌奉納之事
 大石村號威徳山聖持院守護し奉らる開山願宥法印祭之。往古満島山に鎮座ましましてけるを、寺澤氏御築城の時、此地に四尊を移し給ふ、土人天神山と称す、天満宮・観世音菩薩・松浦不動・草野不動・(此二尊は聖持院護摩堂又内佛に置奉る。)八幡宮の同所に権現、海士町に弁才天、以上御供米七石、右之通年々御寄附有り、天神之御神徳は述るに不及、大村五反田、御寺大明神も聖持院支配なり。
 鶴城御築は、文禄四年に始りて慶長七年に終る、眞年七ヶ年也。大石の天満宮建移は十三ケ年後、元和元年春正月より三ケ月に成就也、廣高公齋為三日家臣を卒して祭礼有る。普請惣奉行並川三郎兵衛尉、毎歳正、五、九月に連歌の奉納有、御城主・御代々此事有、會紙今残りたり、発る年を末に記す。

  夢想  慶長十一年午九月吉日
 春来ればなほ類ひなき梅の花   願 主

  夢想  元和六年辰十月吉日
 けふ立初て見に来ぬる哉
 冬ながら紅葉の錦いろ深み    保 世

  賦河路
 小夜時雨雫音なき落葉哉
 中路百顯の揚句         紹 巴

 山の嵐はきくも涼しき      志摩宗可

  寛永十三年子九月吉日
  賦河路
 めでゝなほ夜も長月の光哉    願 主

  賦河路 寛永十四年丑五月五日
 若竹は世々経し底のかざり哉  兵庫竪高

  賦何人 寛永十五年寅正月吉日
 有明のそらや猶すむ宿の秋    正 遍

  夢想  萬治二年亥四月二十五日
 呉竹の梢栄ふる時雨哉
 松原小松の生ふる夏山      良 政

  賦白河 寛永九年酉九月二十五日
 植添て幾千代や経む宿の菊    快 山

  賦何人 寛永十二年子正月二十五日
 線に立ならぶや千代の松浦潟   快 山



四十五 寺澤家臣天野源右衛門之事並小野木三右衛門之事

 爰に、右府信長公に鎗付けたりし、安田作兵衛・古川九兵衛・箕浦新左衛門三人、秀吉公より尋ね顯は也。然れども程経て古川・箕浦は尋も止にける。中にも安田は武名を発せんと、日頃八幡宮に参り、あはれ武士の冥加に、天下の将軍と云はる願を一世の内に討ち取る様に守らせ給へと立願し、思ひの念力岩を通し、右大臣公の脇腹へ鎗突込みし故、遂に御自害有けるを、秀吉公聞及ばれ、厳敷天下の尋ね者なる間、本名を改め天野源右衛門と世を忍び居たりける。去ながら隠れたるより顯るは無し、小きより大なるは無しと、源右衛門京都室町に住居しけるが、爰に肥前唐津の城主寺澤兵庫頭紀廣高と云ふ人、遠く先祖を尋れば、孝霊天皇の御末裔、紀貫元の後胤にして、武蔵七黨の名を得し名家也、此人兼て天野源右衛門が素性を知り、其上信長公へ手向せし程の勇猛を實に称せられし故、天正十九年秋の頃、廣高上京有りし時、直に源右衛門宅へ参られける。源右衛門是を聞いて大に驚き、寺澤殿は当時五萬余石の大名也。我等如き浪人が、むさき宿所へ参らるべき覚なし、定めて人達ひにて候はんと申出しかば、づつと内に入り、人傳にては遠々し、則面談申さんと座敷に通らる。源右衛門然らばと請じければ、廣高座に着て供の面々を退け、如何に源右衛門、其方世を忍び名を改ると雖も、子細有って某其元を知る、御邊が武勇天下並びなし、我その勇を仰げり、何卒廣高が方に来りて一臂の力を助られなば、知行は何時も手前が十分一を進ずべし、此議を申さん為に是迄推参申したりと、丁寧に申されけり。源右衛門承り、某如き不肖の者、御見出しに預るの段、生前の本意他。則参上可仕候得共、先は只今の内は参り難し、程経て後と申ける。
兵庫頭は源右衛門不承知之体を見て、彼は明智方にて一萬石と聞及ぶ、依って知行不足に存るならんと思ひ、則ち源右衛門に向ひ、貴邊の先知は一萬石の由兼て聞及ぶと雖も、我等事は知らるゝ通り小身なれば、十分一と申ながら、我が運に叶ひなば國の一つも可治、然らば知行はのぞみたるべし、何卒参らるぺしと有りければ、源右衛門大ひに怒りて、兵庫頭殿には某如き狼人を人一人と思召、私宅迄御来臨は實に忝き次第也と存ぜしに、只今の御口上にては中々十萬石を賜るとも、寺澤殿の御家来に成らんづるは某が恥辱也、中々存じも不寄と離れ切りたる言葉也。廣高大に驚き、不審の一言かな、明白に子細を聞き申さん、天野答てさん候、某を御見出し之迄の御来由にて忝く候得共、只今の御言葉は欽び不申、仮令某先主光秀方にて十萬石を知るにせよ、今は天下の尋ね者、然るを召抱へられんとあらば、五千石は扨置五百石にても、知行に有付身の置所を求むるは源右衛門が本望也。然るに明智方にて一萬石故、五千石を不足するとの思召、能も某を知行を竊む慾深き無道人と見届給ひし故左有るに於ては、弓矢八幡寺澤殿には命を奉るまじ、某が急に不参と申には子細有り、只今御国入之節、某を召し給ひ唐津へ御下り候はゞ、寺澤殿の御國入と京童も見物せん、其時某が面を見知りたる者は急に噂を可仕、然らば関白の御耳に入りて、天下の御尋ね物の某なれば、尊公の御身の上の障りと、爰を考ふる故、折を待ちて必ず御家人に相成るべき所存なるを、委細を聞給はず、知行の多少を仰らるゝは侍の恥なるべしと、言葉を振って申ければ、寺澤殿禰々称美して、其方の心中を不存、某が申込偏に誤り至極なり、然るに於ては何時なり共勝手次第に被下よ。是は浪人の不自由ならん節の為に、些少なれ共とて金百両を被出ければ、源右衛門是を手にも取らず、仰の如く浪人なれば、不自由勝に候得共、金銀は入り不申、源右衛門が手付金を取りたれば、外へ身上有付事なからじと御見込みに預り残念也、武士と生れて言葉を違ひ可申や、勇士の一言綸言の如し、何萬石を以て抱へ人有りとも、尊公へ御約束申すに於ては源右衛門は道を背く畜生とは成り申さず、必ず御気遺ひ有るなと堅く請合ければ、廣高猶々源右衛門を称美して帰られける。
 源右衛門は翌文禄元年九月に下らんと支度の処に、太閤殿下朝鮮征伐にて肥前へ下り給ひ、名護屋に布陣し、唐津にも上方武士充満してければ、源右衛門猶遠慮して猶暫く京都に止りける。斯する内に寺澤家は加増有って八萬石に成りける。然れども異國の軍役事繁く有りければ、源右衛門見合せて年月を送る。
 文禄四年八月の頃、源右衛門が宿へ尋ね来りし者両人あり、足れ昔本能寺にて信長公へ向ひし時の朋友、古川



inserted by FC2 system