小笠原三代記

平成18年6月10日、東京出張の合間に谷中の墓地を訪ねた。目的は小笠原長行公の墓参であった。
しかし、結局墓石は確認できず、帰唐し、悶々としていたが、『唐津城の殿様たち』を繙いて愕然。
長生公が墓を移しておられたのだった。

小笠原長行の墓は谷中墓地乙四号一側にあると物の本に書いてありました。

しかし、そこには見あたりませんでした。


以下、『唐津城の殿様たち』の長行公以降をUPしてみた。
         
六代  壱岐守 長行(ナガミチ) (一八二二−一八九一)

 長行は、文政五年(一八二二)五月十二日、初代藩主長昌の第二子として唐津城二の丸で生まれ、嫡母は水野忠光(一七七一−一八一四)の次女、生母は松倉氏。
父長昌死去の時は僅かに一年四カ月の幼児で、唐津津の襲封の対象にはなりませんでした。 長ずるに従い器量群を抜き、藩の儒者村瀬文輔、使番大野右仲らに学び、のち天保十三年(一八四二) 二十一才の時江戸に上り、深川の下屋敷の「背山亭」に住み、数人の侍者と起居を共にし、月額僅か十五両の生活費でした。
 江戸では、学問を松田順之(迂仙)朝川鼎(善庵)藤田彪(東湖)安井衡(息軒)らに学び、武術を高島*ゲイ(車ヘンに睨のツクリ)(秋帆)江川英武(太郎左衛門)らについて研究したが、このことが後に幕末危急の時の大きな力になりました。
 安政四年(一八五七)九月、藩主長国の養嗣子となり時に長行三十六才。翌安政五年(一八五八)四月、藩主の名代として藩政を見るために十七年ぶりにお国入り、立派に成人した若殿を迎えた唐津の人々は感泣しました。文久元年(一八六一)四月、再び江戸に上るまでの三年間、藩政の刷新を試みて実績を挙げ、数多くの敬老愛民の施策は後世まで領民たちの語り草として伝えられています。
 長行の器量を知った土佐藩主山内豊信(容堂)の強引なまでの招きにより、文久元年(一八六一)四月、再び江戸に上り、翌文久二年(一八六二)七月幕府の奏者番に、八月若年寄に、九月十一日老中格に、十月外国御用掛となりました。偶々文久二年(一八六二)八月、生麦村事件がおこり、その外交処理に活躍し、慶応二年(一八六五)十月、老中として幕閣の中枢として内政、外交に活躍しました。慶応三年(一八六七)十月大政奉還後は会津戦争や函館五陵郭で新政府軍と抗戦、江戸幕府最後の老中として指導しました。函館の戦に敗れた長行は暫く行方を晦ましていましたが、明治五年(一八七二)四月秘かに東京に帰り、七月政府に自首したが八月四日付で太政官の特命で赦されました。小笠原家嫡流の若君長行こそわ が唐津が生んだ英傑でした。
 長行は、東京駒込動坂の小邸で隠棲、明治九年(一八七六)十一月従五位に叙せられ、明治十三年(一八八〇)六月特旨を以て従四位に叙せられました。
 明治二十四年(一八九一)一月二十二日、東京駒込の邸で病没。享年七十才。
 同年一月二十九日葬儀が行われたが、その模様を久敬社誌は次のように報じています。『一月二十九日、従四位小笠原長行公の遺骸を谷中天王寺に葬送したり。唐津より旧藩士総代として小笠原長世、佐久間退三、田林邦表の三氏上京せらる。この日は晴天に加えて暖か、葬儀に会するもの無慮六、七百人、午後一時より動坂別邸を出棺せり。その行列は先駆騎馬、斎主馬車、次いで従四位小笠原長行公之柩と大書した白地の銘旗、柩は白木造りにして三階菱の定紋を金にて附し、その前後には旧藩士諸氏、直垂を着してこれを警護し、喪主小笠原静氏喪服に藁沓を穿ち、公の夫人、令嬢、近親と共に馬車にて従い、天王寺へ着棺したるは午後二時四十分頃なり。直ちに墓地待設けの祭場へ老公の御棺を据え、祭官の儀式終わり、祭主葬場の祭詞あり、終って在唐津藩士総代として佐久間退三氏の祭文、東京旧藩士総代として河内明倫氏の祭文あり、終って潜士及び知己会葬人、順次玉串を捧げて礼拝し、式全く終りて従五位長国公墓右手へ御棺を移し、楽隊にて埋葬式を了え滞りなく納棺せしは午後四時なりし。墓地茶屋前は会葬人及び見物人馬車、人力車などの混雑非常にして筆紙の能く形容する能わざる所なり。実に盛大美を尽し麗を極めたる葬儀と謂うべし。当日は榎本武揚、林田保らの諸氏も会葬せられたり。」と。
 
墓は谷中墓地乙四号一側に葬られましたが、後嗣子長生によって五代長国公と共に、世田谷区北烏山五−八−一、日蓮宗妙祐山幸龍寺に改葬されました。

 墓碑に 顕忠院殿深信長行日解大居士
       従四位長行公 明治二十四年一月
と刻まれています。

○谷中天王寺の記録には
 小笠原長行(一八二二〜一八九一) 七十一才
 墓は「乙四号一側」  「見当らず」
 老中。唐津藩(六万石)主世子。長崎県松浦の人。
 名は長行。通称初め行若、敬七郎。
 号は明山、別号天全、洗耳、遠清。
 小笠原氏初代長昌の長男。天保九年江戸に移り、松田右仙、朝川善庵に経史を、江川太郎左衛門に砲術を研究する。
 邸内に「背山亭」という塾を開設、当時の名士羽倉簡堂、藤田東湖、川北温山、安井息軒、塩谷宕陰、野田笛畝、藤森弘庵ら出入りする。安政四年佐渡守長国の養子となり、従五位、図書頭、文久二年幕府奏者番、若年寄、老中格に進み、役米一万俵を賜う。外国御用掛、壱岐守、慶応元年老中、役米三万俵。征長指揮、外国事務総裁、明治元年上書して職を辞す。王政復古後も一時名を夢棲と改め、北走し会津に至り、ついで函館戦争に参加、新政府に対抗する。五年帰藩し牛込動坂に閑居、演芸を楽しみ風月を友とし、吟嘯自適の生活を送る。従四位。「合江園演武記」「霊芝記」著。谷中天王寺に葬る、とある。
長男長生は長国の後を受けて小笠原氏を継ぎ子爵となる。
と記されています。


参考(七) 小笠原胖之助(一八五二〜一八六八)

 唐津近松寺の小笠原家墓地に、小笠原胖之助、の墓があります。墓碑に明治元年戊辰十月二十四日、於蝦夷地七重村戦死、享年十七才、仏諡曰三好院殿儀山良忠大居士 と記されています。
 墓の主、胖之助は嘉永五年(一八五二) 二代藩主小笠原長泰(一八二三〜一八六一) の子として江戸に生まれ(兵部の弟)文久元年(一八六一)十二月十四日、父長泰が没した時は僅かに十才の少年でした。
 幼くして父を亡くした胖之助は、文武両道に励み、その才能を伸ばし、片や小笠原長行は胖之助の成長に深く心を用い面倒を見てくれました。
 長行のこの心づかいと、慈愛は胖之助の感ずる所となり、実の親子以上に心の通う間柄であったとか。
 幕府が亡び、江戸市中が騒然となった慶応三年(一八六七)十二月から翌年にかけて、幕府の諸制度が廃止され、大学頭林家は家塾を閉じて巣鴨の別邸に疎開、曽てその門で漢学を学んだ胖之助も同行しました。
 慶応四年(一八六八)五月十五日、上野の山に立て籠もった彰義隊と政府軍との戦で胖之助は唐津藩士九名と共に彰義隊に馳せ参じたが敗北。夜陰に乗じて武器を捨て変装して巣鴨の林家に辿りつき、林家に身を隠していた胖之助一行は江戸の唐津藩士らと密かに連絡をとり、榎本武揚が旧幕府の軍艦で品川湾脱出のことを知り密かにこれに乗艦して会津若松に向かいました。
  即ち慶応四年(一八六八)八月二十日午前四時、榎本武揚らは、旗艦「開陽」を先頭に「回天」 「蟠龍」「千代田」「咸臨」「神速」「美嘉保」「長鯨」ら八隻を率いて密かに品川湾を出港しました。胖之助ら一行も長鯨で脱出しました。
 会津若松では奇しくも、小笠原長行に随行していた唐津藩士三十数名と会い、大いに意を強くしました。長行は間もなく姿を消したが、胖之助ら唐津勢は会津藩の希望で猪苗代口の防衛についたが政府軍との戦で敗れ鶴ヶ城は陥ちました。
 胖之助らは、仙台領折ケ浜から舟で北海道に逃げましたが、函館の北、七重村の戦で砲撃を受けて壮烈な戦死を遂げました。時に明治元年(一八六八)十月二十四日。若冠十七才の若武者でした。
 胖之助の死体の側には主君を護った唐津藩士十名も共に戦死していました。即ち、水野忠右衛門、白水良次郎、高須大次郎、小久保清吉、栗原千之助、渡辺七之助、吉倉勉三郎、市川熊槌、田辺鉄三郎、小林孝次郎、らの人々です。


 ○ 「小笠原壱岐守長行」刊行
 「小笠原壱岐守長行」は長行の没後、嗣子長生によって伝記編纂が計画され、長行と最も縁の深い唐津人田辺新之助、百束持中、新井常保の三人に執筆依頼、十数年を要して完成したもので、長く小笠原家に秘蔵されていたが、昭和十七年(一九四二)久敬社理事松下東治郎が刊行責任者となって公刊されたものです。
  菊版七〇六頁、頒価六円でした。
        



 七代  長生(ナガナリ) (一八六七−一九五八)

 長生は、慶応三年(一八六七)十一月二十日、江戸八重洲町の老中役宅で、時の老中小笠原長行の子として出生、唐津初代藩主長昌の孫です。母は曽て長行の師、儒者松田迂仙の女美和で、明治五年(一八七二)十月十七日長生六才の時病没しました。
 長生は誕生の翌日から母のもとを離れて、下総の藤倉家で養育され、明治五年七月、父長行が東京に帰ってから両親の家に住むようになりましたから、母の愛に抱かれること僅かに三ケ月の薄倖の少年でした。
 明治七年(一八七四)十二月三日、八才で長国の後嗣として家督を継ぎ従五位に叙せられ、明治十七年(一八八四)七月八日、子爵を授けられ、時に十八才でした。明治二十年(一八八七)海軍兵学校卒業、士官候補生として軍艦「筑波」に乗組、明治二十二年(一八八九)軍艦「高千穂」長崎入港中、一月十二日初めて唐津を訪問(十八日まで滞在)唐津滞在中に財団法人久敬社社長に推載されました。昭和二十二年(一九四六)公職追放により辞任。
 明治二十四年(一八九一)一月二十二日父長行逝去の時は事務のため出席できず、明治二十九年(一八九六)二月十日、元前橋藩主伯爵松平直方の長女秀子と結婚。大正七年(一九一八)海軍中将、大正十年(一九二一)宮中顧問官、昭和七年(一九三二)勲一等瑞宝章、正二位に叙せられました。
 昭和二十二年(一九四七)公職追放により
  木枯の狂ふに任す落葉かな
の一句を残して伊豆長岡、鉄桜荘に隠棲し、
 昭和三十三年(一九五八)九月二十日、鉄桜荘で没。享年九十二才。
墓所は、東京都世田谷区烏山の小笠原家菩提寺妙祐山幸龍寺のほか、伊豆長岡の宗徳寺、東京府中市の東郷寺、唐津市近松寺などにあります。烏山の幸龍寺の墓誌には

 鉄桜院殿無畏長生日來大居士
  正二位勲一等功四級
       小笠原 長生
と刻まれています。



 八代  長勝 (一九二〇−一九九四)

 長勝は、大正九年(一九二〇)長生、秀子の四男として出生、宗家を継ぐ。初代忠知以来十六世に当る。
平成六年(一九九四)一月三日没。享年七十五才。
烏山の幸龍寺に葬る。 施主 妻 啓子
  穏静院殿飛高日勝大居士

 参考(八) 日蓮宗 妙祐山幸龍寺
  小笠原家の菩提寺幸龍寺は、世田谷区北烏山五−八−一にあり、京王線千歳烏山駅が便利です。電話は〇三−五三一四−七〇一〇。
  この寺は、徳川家康の祖母正心院殿の帰依があり、浜松で開山され、家康の江戸入府に従い湯島に移り、更に浅草に移り、大正十二年(一九二三)関東大震災の後、ここ鳥山に移りました。
 移った当初は細川家の下屋敷でしたが、今は烏山一帯が静かな寺町です。「江戸名所屏風絵」 のさし絵を描いた長谷川雪旦、雪提父子の墓もあります。

  小笠原家の墓誌には

     映龍院殿妙江日渕大童女   壱岐守女田鶴姫
                   慶応三年五月七日

     深解院殿妙信圓満日寿大姉  長生公母(嫡母)
                  大正十一年五月十六日

     深心院殿妙縁日成大姉   長生公母(実母)
                   明治五年十月十七日

     誠信院殿妙寿長遠日賀大姉  秀子六十九才(長生妻)
                   昭和二十二年六月三日

     明峯院殿操日隆大居士    長男 長隆
                   昭和二十一年六月二十日

     信徳院殿勤行日孝大居士   三男 長孝
                   昭和二十一年九月二十六日

     智光院殿妙文日清孩女    二女 文子
                   明治四十一年六月三十日

     清涼院殿淳厚日丁大居士   丁 (長生弟)
                   昭和八年八月二十一日

     鐵桜院殿無畏長生日來大居士 正二位長生公
                   昭和三十三年九月二十日

     穏静院殿飛高日勝大居士   長勝  七十四才
                   平成六年一月三日
   と記されています。
   施主は長勝夫人 小笠原啓子氏です。


○改葬されている筈の初代長昌公、五代長国公、六代長行公の墓誌が見つからなかったことは心残りでした。


以上
『唐津城の殿様たち』の長行公以降をUPしてみた。

さて翌年も上京することになりました。

ブログに載せました記事をそのままUPします。

平成19年6月2日(土曜)に上京!

有意義な参勤交代でした。

空が白み始める午前5時に家を発ち、5:09発の福岡空港行きにの電車に飛び乗る

羽田に着いたら、いつもなら神田神保町に必ず寄ることにしているが、
今回は大きな課題を解決しなければならなかった。

羽田→京急蒲田→品川→新宿→笹塚で急行に乗り換え→千歳烏山

千歳烏山駅を出て、駅前の商店街を通り過ぎ、寺町通りへ入り静かな住宅街を過ぎると
まずは第一チェックポイント、妙高寺があった。

http://www.myokozi.com/


ここは水野家の菩提寺。本堂では読経があがっていた。
本堂の軒の飾り?(蛙股?)には、水野家の家紋が彫ってあった。

新緑のもみじの木陰を過ぎると、目に付く石塔があり、石の扉が半分開いていた。
その扉にも同じ家紋「立ち沢瀉に水」が浮き彫りしてあった。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mizuno.html
水野家の墓石に間違いなかった。
左の灯籠は傘がはずれて下に転げていた。
後ろの民家では二階の窓から赤い布団が干してあった。

本堂の横庭の掃除をなさっていた防守さんに挨拶をし、お話をお聞きした。

最近、沖縄から先祖の墓を探しに見えられたが、無縁仏まで調べて結局分からなかったというお話を伺った。
水野忠邦公の墓について尋ねると、ご住職がおいでになって話を伺うことになった。

その日は納骨が一件有り、お忙しくしておられた。読経が終わり、墓に向かわれる途中ではあったが、唐津から来たと言うと、納骨に行かれる前にお話を伺えた。

水野忠邦はここに葬られたが、後に生まれ故郷の茨城県に移されたそうで、その後の水野家はそのままにしてあるとのこと。水野家の末裔の方も最近連絡が取れたとのことであった。

水野忠邦は唐津城主であり、その後老中になり天保の改革を進めた人物である。

水野が浜松に移った後、唐津は小笠原のがやってきた。
長昌公である。

和尚さんにお礼を申し上げ、坊守さんに小笠原家の墓の話しをしたら、
「叶うと宜しいですね」と励まされ、次のチェックポイントへ進んだ。

中央高速道路をくぐり、寺が建ち並ぶ中、大きな門構えの幸龍寺が待っていた。
http://www.teramachi-ziin.com/07.htm



門をくぐると、何かに導かれるように足を運んだ。
そしてたどり着いた先には「小笠原家之墓」が待っていた。




これが長生公が谷中の墓地から移して建立した墓石であった。
その旁らの木陰には墓誌が建っていた。


まず目に入ってきたのは、今回の目的であった長行公。
あるではないか。

筆頭には臨済寺殿秀政公
次に忠知公
次は法源院殿
小笠原佐渡守
長昌公
長国公
次が長行公である。

「唐津城の殿様たち」の著者はこれを見落としたのだろうか。

私にとってはそれはどうでも良かった。長行公、それに長国公、長昌公がここに祀ってあるということが分かっただけで、今回の参勤交代の目的は達成できたのだから。

墓石の前の石畳に腰を据えて、メモ帳に墓誌を写しにかかった。

「墓誌

臨済寺殿秀政公 元和元年五月

天真院殿一峯日定大居士 忠知公 寛文3年7月29日

法源院殿了仙日心御?霊  寛永11年10月8日

南蕚院殿前佐州大守梅翁崇馨大居士 小笠原佐渡守 文化9年4月29日

霊源院殿智水日徹大居士  九代 長昌公 文政6年9月

本光院殿義忠長國日瑞大居士 従五位長国公 明治11年4月

顯忠院殿深信長行日解大居士 従四位 長行公 明治24年1月

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 小笠原長生公 正二位勲一等功四級 昭和33年9月20日

その後は「唐津城のお殿様たち」の記載通り。」

その一区画の隣には真新しい小笠原家の墓所があり、そこには恐らく長生公のご子息と思われる方の墓石があり、その旁らには愛犬の墓石があった。その手前には小笠原に関係すると思われる
山口家、松井家の墓石もあった。ともに三階菱の家紋が刻まれてあった。

その隣には真新しい墓ではあるが葵のご紋の墓石があった。久遠廟と読めた。
徳川将軍家には違いないと思われたが、長行公がここに祀られているだけで充分であった。

書き写しが終わり山門に戻り、線香と花を買いそろえ、手桶に水を張り、束子をお借りして再び小笠原家の墓石へと戻った。
以前のうちの墓の花入れは倒せば水が換えれたが、小笠原家ともなると中央の水入れと花入れとは一体になっていて倒して水を換えることは叶わず、そのまま花を差し入れ、ボウフラの沸く水入れは束子で綺麗にしたところで新しく水を入れ、墓石に水をかけて、前の石畳にも水を打ち、線香は二束お供えしてこれで儀式は終わった。


「唐津から来ましたよ」

長行公には懇ろに敬意を表し、西ノ木屋8代目の均安蔵六に成り代わり手を合わせた。

平成20年で唐津城築城400年目に当たるそうだが、東高移転後、唐津の顔であった二の丸御殿跡が、その後利用されずにいる。よその私立の学校がその跡地に中高一貫校を設立するという話もあり、400年間守り続けた唐津の顔・誇りを人手に渡してしまう我々平成の唐津人の責任の重さを感じている。そのことも墓前に報告し、私の気持ちは寂しいものがあり、これで少しはケリがついた気もする。

これで今回の参勤交代の目的は完了したようなものだった。

戻り道、内海好江師匠の墓があった。墓石には三味線が彫り込まれていた。

鐘楼の前の小道を入って、次のチェックポイント
長谷川雪旦の墓石
これもすぐに分かった。

気をよくして、この寺の目玉、「さざれ石」を観察する。


君が代を歌うとき、さ〜ざ〜れ〜  い〜し〜の〜
これを息をつくべきではないと教えられていて、そのさざれ石とは一体どんな石なのか。
「千代に八千代にさざれ、いしの〜」ではなく「千代に八千代にさざれ石の巌となりて」なのである。
写真の通りであった。

山門横の待合室で一休みし、しかし、外の風が心地よさそうだったので、早々に引き上げることにした。

次は喜多川歌麿の祀られる專光寺である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%B7%9D%E6%AD%8C%E9%BA%BF

江戸の浮世絵師。
代表作:寛政三美人

境内の入り口にその墓石はあった。

帰りはほたる祭のイベントをやっていた久我山商店街を散策しながら、
井の頭線、久我山駅より次の目的地へと向かった。


「唐津城の殿様たち」を執筆された先生は、何故に大切な箇所を見いだせず、
あのように書いてしまわれたのだろうか。

小笠原長行公の墓碑はここに有りと、改めて宣言したいと思う。

参考
谷中霊園スレッドより

小笠原長行ですが、改葬されています。
場所は世田谷区烏山の幸龍寺で墓地の中程奥に宝篋印塔が見えるはずなのでそこの墓域内の小笠原家の累代墓に合祀されています。ちなみに師と仰いでいた東郷平八郎ゆかりの東郷寺の奥の墓地にも長行の墓碑があります。




小笠原の墓地に三階菱の家紋が彫られた山口重五郎の墓が気になっておりました。

松浦史談会「末廬國」にこの謎を解く記事が出ましたので全文を掲載させていただきました。


至誠一貫小笠原家に仕えた
         山口用助翁



                鎮西町 熊本典宏


 
プロフィール

 山口用助翁は、天保五年(一八三四)打上村菖蒲(現唐津市鎮西町菖蒲)に誕生した。本名は山口重五郎であるが、小笠原家では用助とよばれ、また重吉とも称した。少年のころ父に死別し、母につかえて孝養を尽していたが、十五歳のとき、母一人を村に残し唐津城の賄方の下役に奉公に出た。しかし片時も母を忘れず、物心両面の孝養を捧げていた。やがて奉公中の母への孝心が江戸住まいの小笠原長行に伝わり、嘉永元年(一八四八)、江戸深川の唐津藩下屋敷の背山亭に召し出された。以後、用助は長行の側を離れることなく、長州征伐では、長行の密書を運ぶ役目を果たし、生麦事件の賠償金支払がもとで長行の身辺に危険が迫ると、毎夜邸内を巡視して長行の身辺警護に務めた。

 小笠原家三代(長国・長行・長生)に仕えた用助翁は、長生と親交のあった海軍軍令部長東郷平八郎や、学習院長乃木希典にも、その忠勤ぶりを賞賛されている。

 翁は、大正五年(一九一六)八十二歳で死去、墓は、幸竜寺(東京都世田谷区烏山)境内にある小笠原家墓所の傍らに、主家を守るように寄り添って建てられている。「山口重五郎之墓」と刻まれた墓石には、小笠原家の家紋「三階菱」が刻印されている。

 晩年の明治四十五年七月二十日、時の東京府知事阿部浩より用助翁のもとに贈られた表彰状には、用助翁の至誠一貫の生涯を次のように称えている。

 「資性廉直、幼にしてよく父母に事(つか)ふ、年十五、出でて唐津藩主に仕へ、爾来(じらい)ここに三代六十四年、その間、維新前後、世局多難に際し、藩主の命をふくみ他藩に往来し、また藩主の従者となりてしばしば危地に入りしも、忠実よくその任務を全ふせり、さきに老衰の故を以て骸骨を乞ひしも、忠勤老衰に及ぶをあはれみ許されず、(中略)請ふて門衛となり、また邸内を洒掃(さいそう)してその分を尽くしつつあり、他の僕婢その薫化(くんか)する所となり、皆よく主に仕ふといふ、以て至誠の人を動かすものあるを知るべきなり、まことに奇特とす、之によってその賞の為、木杯一組下賜侯事」


 
山口用助の生い立ち

 用助翁は本名は重五郎であったが、小笠原家では、用助(又は重助)と呼ばれた。自宅の位牌には「山口重吉翁霊」とある。天保五年(一八三四)菖蒲村の農家に生まれた。不思議にも生まれながらにして観世音菩薩様が好きで、幼少の頃から近くの観音堂に常に参りにいっているうちに、自然に観世音、南無仏、与仏有因などの十句観音経を覚えたという信心家であった。

 少年の頃、父と死別し、母に仕へて涙ぐましい孝養を尽くしていたが、十五歳のとき請われて唐津城の賄方の下役奉公に出た。しかし片時も母を忘れず、折を見ては、田舎の母へ物心両面の孝養を尽くした。やがて奉公中の母への孝心が江戸住まいの長行(後の壱岐守老中)に伝わり、嘉永元年(一八四八)江戸にある深川の唐津藩下屋敷に召された。
 尚この用助翁の実家は、通称「寺べた」とよばれており、この観音堂がどこにあったか、興味深い。


 
山口用助の孝心

 用助の孝心を伝える唐津藩賄方下役時代の逸話がある。
 下城の太鼓が鳴ってから早や三刻経(た)つ。
 居残りの侍達がそれぞれ部屋に退き、城中も静かになった。殿の御用もすんでほっとした用助は、そっと裏門から外に出た。何人かの番士にもあったが、用助と知ってとがめもしない。雨の中にまたたいている城中の灯が段々と遠くなっていく。少し風が出てきたようだ。横なぐりに用助の顔に雨つぶを叩きつける。
ニ夕子、中山峠、唐房、八床坂‥‥狐狸さえさける道なき道を急ぐ。一体どこへ?
 用助は右の掌で幾度となく顔の雨を拭く。左手はふところをしっかり押さえて離さない。殿から昼間戴いた紅白の落雁が奉書にしっかり包んである。それをぬらすまいと一生懸命。まだ十六歳の用助である。真暗な雨風の夜道、もののけに追われるような恐ろしさである。涙がにじんでとまらない。こわいものでも又淋しいものでもない。暗い中「用助−用助−」と呼ばれる殿の顔がちらつく。用助は気を取り直し、やっとの思いで、生家にたどりついた。とんとんと戸を叩いたら行燈の灯がついて母が出てきた。「おっ母ア」といったら「用助」と母の涙声。ずぶ濡れのまま母子は暫く抱きあったまま、涙にくれている。祖父も起きてきて、そばで火をたいて着物をかわかしてくれる。用助は、殿からもらった菓子を母親に届けにきたのである。風も雨もはたと止んだようである。貧しくも温かい、この家の状況をそっと窓ごしにみていた者がある。用助が今来た路を、この人は足早やに去って行った。雨合羽をつけた侍であった。翌日、このことが殿様に言上された。一再ならずこうした用助の挙動に不審をいだいた殿は、そっと用助の行動を確かめさせたのである。それからというものは「用助−用助−」の殿の声は更に増していったという。


 
江戸屋敷の山口用助

 江戸屋敷の翁は、長行公の側を離れることなくひたすら小笠原家の安寧を、願い仕えた。長州戦争に随伴して密書の携行に立ち働き、生麦事件によって長行公の身辺に危険が迫ると毎夜邸内を巡視して未然に防ぎ、又明治初年に起きた小笠原家継嗣騒動の時は、唐津に帰り長生公の起用に活躍するなど忠実一路、一片の名利すら欲せず忠勤の誠を披瀝した。

 明治三十九年(一九〇六)の冬、小笠原長生公邸を訪ねた当時の海軍軍令部長東郷平八郎大将は、用助の人となりを 聞かれ「忠僕じゃのう」と大いに感激され、観世音菩薩の名号を書き与えたといわれる。
 学習院長乃木希典大将も同邸訪問の際、翁の忠勤ぶりを見聞きされて瞑目して感涙し「天晴れ硬骨漢、小笠原家の宝じゃ、よう可愛がっておやりなさい。今後はもう滅多にこういう人物は出ないだろう。話を聞くだけでも胸がすく。人間の活手本じゃ。乃木が敬意を表すると伝えて下さい。」と話されたという。

 その後は、静子夫人をして明治天皇や皇族からいただいた菓子や那須野の自園にできた野菜などを送り届けて翁をはげましたという。

 又その名声を全国に知られ、大臣、大将といえども遠慮なく手にした南天の杖で打ちすえたほどの蓋世の傑僧中原金忠(南天棒)師(唐津出身)などは、用助翁の姿を見ると自ら合掌して挨拶をするほどであったという。
 また、奥村五百子女史も愛国婦人会創立当時、小笠原家に出入りすることが多かったが、常に翁から激励されかつ慰められており、さすがの女史も翁には全く歯がたたなかったという。このように小笠原家に出入りする天下の名士は誰一人として翁を知らない人がなかったほどであった。


 
用助翁の信仰

 日清戦役の時、かの有名な「水兵の母」の一挿話がある。
その時の海戦は非常に激戦で士官として乗組んでおられた小笠原子爵の居室は、敵弾の炸裂で惨憺たる被害をこうむった。
 掛けてあった外套だけでも十三個の弾痕を留め、室中何一つ完全なものは無かった。
 中に唯一机上に安置していた観世音のお厨子のみが依然としてそのままであった。子爵は十数日前に夢みた海戦で敵弾のため腕に負傷して目が覚め、しかも十数日後の実戦が、夢でみたそのままであった事を、ふと思い浮かべ、とっさに子爵はお厨子の扉をあけてみると数本のお手が取れておる。はっとして今まで青年の客気で信仰等を軽視していた子爵もこれをみた殺那思わず何かじんとした霊感を感じ合掌してしまった。この観世音は明治二十六年十二月、子爵が高千穂乗組となって横浜に入港の際、帰邸された時、「これは五六日前用助が何かの用で土蔵へは入った時、一番古い鎧櫃の中から見つけだしたのだよ。不思議じゃないか。何十年も毎年虫干ししているのに、誰も気付かなかったものが、不意にお出になるとは。用助のことだから訊いても何も言わないが、大方お告げでもあったのだろうよ。拝見してごらん。千手観音様だよ。そうして、これは是非お前に終始もっていてもらいたいって、幾度も幾度もくどい程に用助がいうし御先祖様がお持ちになったのだからお持ち」と母堂より子爵が戴かれた因縁のものであった。


 
「三階菱」が刻まれた墓碑

 十五歳から藩主長国、老中長行、そして長生の三公に仕え六十六年、忠僕用助翁は、大正十五年(一九二六)七月一九日八十二歳で黄泉の旅についた。翁は、生前、長生公に「私の一生のお願いです」と自分の墓碑に小笠原家の家紋「三階菱」の使用を願っていたという。東京都世田谷区鳥山の幸竜寺境内の小笠原家墓所の傍らに、主家を守るように寄り添って建てられている「山口重五郎之墓」の碑面の上には「三階菱」が刻まれている。また翁の故郷の打上小学校校長室には翁が端座した写真と、玄関には長生公の「福以徳拓」 の額が飾されている。
 翁には嗣子なく、在家縁故者は翁の兄喜代作氏の四代曽孫子菖蒲在住の山口武昌氏である。

 本文は、郷土史誌『末慮国』所載の「至誠人を動かす」(常安弘道)、打上小学校一〇〇周年記念誌『打上の先覚者』を参考にした。




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