大島家文書目録

 大島邸保存の活動経緯メモあり

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 大島邸・大島家に関する掲示板はこちらです。

大島邸保存に関する新聞記事はこちらです。

(このサイトは唐津の大島邸保存運動が始まった頃に作りました。 )

このまま黙っていては、
  唐津の大切な遺産を
     なくしてしまいます。


平成22年度大志小学校建て替えに伴い、この大島邸を取り壊し、そこに新たに小学校を建てるということを行政は決めています。

立て替えるには仮校舎が必要になりますが、現在の校舎を使いながら、隣接する大島邸のお屋敷を崩して、そこに新校舎を建てる計画です。

仮校舎を建てる為には5000万円ほどの費用がかかるそうで、それがこの計画では節約できるという計算です。

7年前の小学校合併で使わなくなった大成小学校が目と鼻の先にあります。ここを仮校舎として利用すれば、何も仮校舎を建てる必要もありません。ただ移動の手間が一つ増えることになります。それにかかる費用がどれほどかは分かりませんが、その手間と費用と子供達の安全と唐津の文化のこと等を考えると、安易に大島邸を取り壊してしまわずに、手間を惜しまずに一旦旧大成小学校に移って、現在の校舎を崩してその場所に新校舎を建てていただくと全く問題ないと思います。

何とかしてこの計画の変更を訴え、文化遺産を残しながら小学校の建て替えをしていただきたいという一念で、「大島邸を残す会」が発足しました。


 
大島邸を残す会

 私たちは唐津に生活して、唐津をこよなく愛している、ごくごく普通の市民の集まりです。
 2010年に西城内の大島邸が大志小の校舎改築の為取り壊される計画と聞き、大島邸の存続の為、この会を立ち上げました。

 唐津の城下町の佇まいを残すはずの城内地区ですが、近年古い屋敷の取り壊しが進み、非常に無残な状態です。

 特に、西城内はマンションの建設が進み、大島邸のみが唯一のお屋敷として残っている状態です。

この大島邸が大志小になり、屋敷とこんもりとした庭の木が無くなるともはや、城内とは言えない状態です。


 大島邸を存続させる必要性としては、

①大島邸が唐津に残っている唯一の武家屋敷であり、江戸の建築様式を残す、全国的に見ても非常に貴重な建造物である事

②大島邸が無くなる事により、西城内の景観が著しく悪くなる事
 唐津は、意外に緑が少なく大島邸の庭は貴重な緑です。

③大島小太郎の業績、幕末に唐津藩の財政を守った父興義、唐津の現在の礎、鉄道、電気、港、銀行を作った小太郎氏父子二代に渡る、唐津市への貢献度

④観光ルートとして、唐津銀行、高取邸、大島邸、と回遊出来、唐津神社、曳山会館にも近く格調の高い散策ルートとして最高です
 又、三流派の茶会、華展、唐津焼の展示、俳句の会、ミニコンサート等色々な活用が考えられます。

⑤ 稀に見る大島邸の茶室の様式など、この江戸時代のタイムカプセルでもある貴重な建造物を取り壊すことは、唐津の人の良識の無さを世界中の人に疑われる事になりかね無いと思います。

以上5つのポイントを考えると、やはり大島邸の存続は必要と考えますので、私達にどれ程の事が出来るか解りませんが、皆様のご協力を頂いて貴重な歴史上の建造物である大島邸の存続に努力したいと思います。どうぞ、お力をお貸し頂きたく存じます。


大島邸を残す会 代表 辻いく子


大島邸保存要望書

                           大島邸を残す会
                              代表  辻 いく子

 旧大島邸は、春には大志小学校の建て替えの為に取り壊される事になるとの事でございます。旧大島邸は明治12年頃に建てられた珠玉の近代和風建築物で、唐津の百年の足取りを振り返るような木造タイムマシンでございます。
特に茶室は稀に見る遊び心溢れた貴重な建造物で嘗て京都の相国寺の有馬頼邸様が相国寺に引き取りたいと申し出られた程の物で御座います。
書院のあつらえも、檜の一枚板、美しい欄間、節一つ無い選りすぐりの材料、又匠の仕事の美しさ等、全国的に見ましても何処に出しても恥ずかしくない建造物で御座います。豊かな緑の庭は樹齢100年を越す樹木や素晴らしいつくばい、五輪塔、手水鉢、灯篭等があり、今の西城内にとっては非常に貴重な城下町の景観でございます。唐津が観光の目玉として、高取邸、唐津銀行を整備したのであれば、大島邸はまさしく、観光の目玉になる貴重な唐津の宝であると思います。本物の価値と誇りを見出し質の高い観光ルートとして整備して頂きたいと思います。尚、大島小太郎は唐津銀行の創始者であり、明治の疲弊した唐津に鉄道を轢き道路を作り、港を整備した唐津の偉人です。どうぞ、城内の景観保存、観光唐津、又、大志小の子供達の情操教育の為にも大島邸を壊す事は止めて頂きたく存じます。大島邸の保存運動を昨年より始めましたが、唐津以外の多くの方々も非常に感心を寄せて頂いています、全国的に今は歴史的な良い物を見直し、大事にしようと言う流れの中で、何ゆえ唐津だけが、このように無謀で見識の無い事をするのかと憤慨なさっていらっしゃいます。又、佐賀市は市民1人1本の木を植えると言う運動をして26万本の木を植えようとしているのに、唐津は美しい樹木の庭を事も無げに更地にしてしまうお考えで、悲しく恥ずかしい限りで御座います。どうぞ、もう一度ご検討頂きたく存じます。



署名運動を行ってまいりました。
小学校の建て替えという公共工事の中止を訴えているのではありません。
大島邸を保存したうえの小学校建て替えに変更していただくための訴えです。 
それぞれのお立場でなかなか署名が難しい方もいらっしゃると思いますが、唐津の誇りを捨てないためにも是非勇気を出して大島邸を崩してはダメと言ってください。
とこのように訴えてきました。

大島邸を残す会の署名、ネットによる署名に多くの方々のご賛同を頂き、数多くの署名を頂戴しまして誠にありがとうございました。

(ネット署名は6月30日をもちまして終了いたしました。)


また、要望書ならびに署名用紙をPDFファイルにしてご覧いただけます。
ここをクリックしていただき印刷してください。

ご賛同いただける方々のさらなるお声かけをよろしくお願いいたします。

こちらの署名も終了いたしました。

大島家のゆかりの方からのメッセージです。

 はじめまして、私は今広島に在住していますが、大島家縁のものでございます。
大島小太郎の嫡男・裕の甥で、小太郎は大伯父にあたります。大島家に子どもがいなかったため、私が大島家の資産管理にあたりました。大島家について調べることがあり、インターネットを開いておりましたら、皆様の「大島家保存運動」を知り、筆を取らせていただきました。
 大島家の資産整理にあたり、私のスタンスは「大島家の歴史と現在は、決して大島家のものではなく、私ども相続権者のものでもない唐津市と市民のものである」というものでした。
 当時、瀬戸市長さんに御眼にかかった折、「私の相続分を唐津市に寄付したい」と申しし出たところ瀬戸市長さんは「史跡として保存したいと思うが、あなたの分だけ寄付してもらっても埒があかない。他の相続権者の分も、寄付してもらえるようまとめてもらえませんか」といわれました。当時資産相続権者は20人におよび、その整理に10年余という長年を要しましたが、「寄付」について私の力不足で権者の意思をまとめることができませんでした。
 あの屋敷には歴史が詰まっています。裏庭にあった倉庫が崩れ今は土に埋まりましたが、20数年前、私はその跡地から「高橋是清」差出の封書を見つけました。もはや倉庫あとは朽ち果て汚泥化しているかもしれませんが、あれでも長持がみつかり、その中から歴史のおもわぬ証言が見つかるかもしれません。
 茶室ですが、京都の相国寺の住職、有馬頼底師に見ていただいたことがあります。師は「当寺でひきとりたい」とその価値を認めてくださいました。黒檀の床柱をご覧ください。刃物を受け付けないという堅固な黒檀に、職人が数年がかりでいどんで完成させたすばらしいものです。
 このような話は歴史の片隅の一端でしかありません。大島家の歴史は、唐津とともにあり今地域がどのように歴史が引き継ぐかが問われる時にあると思います。
 資産の整理後、幾度かあの屋敷あとにたたずみ、哀しみにくれたことがありました。ゆかりの私どもが、歴史の重みと地域の想いを顧みず、何もして差し上げられなかったことを恥ずかしく思います。
 繰り返しますが、大島家は、唐津の歴史と共にあり、その形が無残にブルドーザーで打ち壊されることにいたたまれない気持ちでおります。
 市長様、市議会の皆様、市当局のご担当者の方々、そして唐津市民の皆様、小さな地域社会ですから互いに傷つけあわず、知恵を尽くして地域の歴史と遺産を守り継ぐ方策を探っていただきたいと心底から願っています。


PDFファイルはこちらです


平成21年9月20日
大島邸にて「さようなら 大島邸  ありがとう 茶会」が(社)茶道裏千家淡交会唐津支部の主催で行われました。

その時の記念誌をネット化してしまいました。

後日支部長さんにご挨拶いたしたいと思います。

大島小太郎

幕末唐津藩の財政を一手に受けた大島興義の長男として安政6年8月唐津に生まれ、明治16年7月に家督を相続す。藩英語学校耐恒寮で高橋是清の薫陶を受け上京、中村敬岸の二松学舎で学ぶ。明治18年唐津銀行の頭取になる。同年、県会議員となりその間呼子県道や浜玉、渕上から鹿家、福吉の海岸道路の開削に奔走。九州鉄道、唐津鉄道、筑肥線の発起に参画。唐津電灯会社設立、唐津港開港の基礎を築いた。唐津魚、肥前漁業の2会社社長。唐津貯蓄、唐津土地建物、深川製磁その他数会社の重役として九州実業家の重鎮たり。

二男 裕     明治19年生



高橋是清

唐津藩の英語学校耐恒寮教師となって唐津に来たのは明治4年18才の時であった。英語を白眼視する保守派を向にまわして寮の施設を次第にゆるぎないものにしていった。彼が教えた人々の中に天野為之、曽根達蔵、吉原礼助、掛下室次郎、大島小太郎、渡辺栄次郎、辰野金吾など、その後各界に活躍した者がいた。

唐津にいた時漢文学を学んだ。唐津藩 中沢建作に進められ。

中沢はオランダ語、漢文学に堪能であった。





唐津銀行 … 唐津銀行設立の背景
 唐津藩は藩成立(文禄4年<1595>)から明治2年までの間に、譜代大名の転封による6領主の交代をみ、そのため領主と領民との結びつきは形式的で、領主は領地をただ単に経済的地盤としてしか扱っていなかった。
 ただしその基盤を農業においたことは他藩とかわるところはなく、藩内の主な商品としては、米と雑穀があげられる。
 これに次ぐものは玄海を漁場とする捕鯨など各種水産物、さらには石炭、紙、木ろう、酒などであった。これらは直接的にも間接的にも藩の統制下に置かれ、その取扱いは一部御用商人の手にゆだねられていた。
 唐津城下の幕末時の人口は、武士、町方あわせて8,000人前後であった。
 御用商人といえども、この限られた消費人口では、いきおい藩に寄生するほかなく、藩財政に深く食い込みながら力をつけ、次第に経営を多角化し、のちには藩財政の主導権を握っていった。その御用商人のなかから藩と町方の接点に立つ大年寄り、年寄りといった重職が選出され、ますます影響力をつけ、ひいては藩財政を圧迫するに至った。
 藩はこれを一般町方、農民に転嫁したため、時には一揆を誘発することにもなった。このような事実から見る限りでは、今日なお勇壮な“唐津くんち”に象徴される唐津町の華やかさは、こうした一部御用商人のものであり、一般庶民にはおよそ縁遠いものであったかもしれない。
 廃藩で後盾を失った御用商人など城下の大商人は、経営の地盤を失い、急速に衰微していった。ことに藩に多額の用立金があった商人は回収の方途を断たれ、つぎつぎに姿を消していった。
 しかも小笠原長国が東京に引き揚げると、藩の主だった家臣の大半が縁故をたよって唐津を去っていった。多くの旧藩士が職を失うといった不詳事件もあり、唐津城下の沈滞に拍車をかけた。
 地元住民との精神的なつながりが薄かったこともあって、鍋島藩にみられるように、旧藩主が積極的に士族授産事業を興して旧家臣を救済し、あるいはなにかと地元産業の発展を援助するというようなこともなく、維新後の唐津は生彩を欠いていた。
 唐津藩旧家臣大島興義、旧藩時代は御金奉行兼元方として藩財政の中枢にあり、明治3年の藩制改革時に「司計大属」となり、廃藩時の藩財政を一手に握り、そのかたわら小笠原家にかかわる財産の管理処分、諸制度改廃に伴う残務整理を進めた。
 そして藩の専売事業であった紙方事業を引き継いでこれを主宰し、明治6年には、旧藩時代に、漁類の水揚げ・販売を監督した浦方役所を基盤に魚会舎という組合をつくった。
 魚会舎創設には薬商人で唐渾藩最後の大年寄り草場三右衛門の協力をあおいだ。この魚会舎は、水産物の集荷・販売のかたわら、漁民に対して資金供給の道を開いた。しかしその年の10月に唐津地方を襲った暴風雨で漁民が被災し、 活動の緒についたばかりの魚会舎も痛手を受けた。
 あけて7年には佐賀の乱のあおりを受けて営業活動は制約された。その後も、たびかさなる天災で漁民に対する融資金の回収がとどこおり、16年には遂に破産寸前に追い込まれた。
 そこで大島興義は、東京三菱商業学校を卒業して帰郷した長男の大島小太郎に、魚会舎を託した。大島小太郎は東京遊学で身につけた知識をもとに、縦横に腕をふるって再建を軌道に乗せた。ことに抜きさしならぬ状態にあった同舎の貸金部門については勇断をもって整理に当たり、着々とその実をあげていった。



唐津銀行の設立

 大島小太郎は魚会舎の再興に力を尽す一方、唐津港湾の将来性に着目した。そして海外貿易に備えて地元産業を振興させるためには、金融機関の設立を何よりも優先させるべきだと考え、その足掛かりとして魚会舎の貸金部門を独立させ、正規の金融機関に発展させることを計画した。
 同じころ、唐津商人のあいだにも銀行設立の機運が高まりつつあった。それら商人は、おおむね伊万里銀行設立時の株主として参画し、その経験から地元銀行設立の必要を痛感し、伊万里銀行に訣別してきた有力商人のグループであった。
 明治17年11月2日、伊万里銀行が唐津に出張場を開設して唐津海軍用所、唐津治安裁判所などの公金を取り扱うようになると、いよいよ「唐津ッ子」の意地を刺激した。商人グループを中心に銀行設立の動きは熱をおびていったが、その中心になって活躍したのが大島興義である。
 魚会舎の貸金部を銀行に発展させようとしていた大島小太郎が呼応して、地元銀行の設立はいよいよ具体化に向けて動き出した。
 唐津銀行は明治18年10月23日、唐津外町の大石町にあった三省銀行唐津支店(本店佐賀郡柳町)の営業を譲り受けて設立、翌11月2日から同支店跡に資本金3万5,000円で開業した。
 設立時の頭取には魚会舎再建に敏腕をふるった大島小太郎が、取締役に山崎常蔵、草場猪之吉、山内久助、山内小兵衛がそれぞれ就任した。
 当時の大石町には唐津の豪商が軒をつらね、いわば町内随一の繁華街であった。しかも役員、株主はいずれも大商人で構成されており、唐津銀行の営業は順調に滑り出した。開業後の唐津銀行については、「県内銀行小史」に紹介されている。




大島鎮子家住宅
   唐津市西城内4-23
   木造 平屋建 (一部2階建) 平入 桟瓦葦 明治12、13年頃(伝承)
 かつての佐賀銀行頭取の大鳥小太郎(昭和22年12月没)の旧居である。明治12年、13年頃の建立と伝わる。広い屋敷の北西側を通る道路に対し、北側にやや寄せて門を設けている。住宅の建物も北側は寄せて、南側を木立の生い茂る庭園とし、その中に茶会用の待合をおく。
 住宅は、正面に玄関・左に内玄関を並べ、前後2列に畳敷の部屋を配し、玄関より左手はやや内向き、右手の庭に面する側に表向きの諸宴を置いている。その左手前から正面側に突き出して台所・風呂・便所などの諸室を、右に床・柵・付書院を持つ8畳の客間や便所を、左手奥に仏間を、裏手に床・棚・書院を持つ15畳の広間、さらにその裏手に茶室を設けている。この内、正面左手の台所棟・茶室・仏間・庭の待合は大正時代の増築らしい。
 8畳の客間の、4畳の次の間境の襖には「七十七翁 文嶺」とある。文嶺は京都出身という。一方、広間の小襖には「雪塘立政」とある。これは唐津藩絵師の長谷川雪塘といわれる。
 もともと大島家は小笠原藩の藩士の家柄である。武士住宅の面影を残す佐賀県有数の良質の大邸宅である。

 
 
 
 
 
   
   
   
   
   
   
   
   
 


茶道宗偏(ギョウニンベン)流の歴史と唐津・佐賀の門人たち


                  唐津市史編纂委員  岩下 忠正

一.小笠原藩と宗偏(ギョウニンベン)流佐賀藩の門人
 唐津藩主小笠原氏は、清和源氏の流れで、新羅三郎義光を祖とする小笠原忠光は、三州吉田4万5千石の領主のとき、侘茶の興隆を志し、千宗旦の推挙により、宗旦の四天王の1人山田宗偏(ギョウニンベン)(不審庵 力囲斎周学)を茶頭として召し抱えた。
 時に明暦元年(1855)宗偏(ギョウニンベン)29歳の春であった。文政元年(1818)忠知の曾孫、主殿頭長昌は唐津6万石の領主転封され、唐津城主小笠原氏の祖となった。
 小笠原家の茶席、宗偏(ギョウニンベン)流5世宗俊も唐津に移り住んだ。これが唐津における宗偏(ギョウニンベン)流茶風の芽生えであり、源流となった。以来宗俊は茶頭として、2代長泰・3代長会に仕え、天保6年(1835)に逝去した。
 その後唐津の宗偏(ギョウニンベン)流茶道にも栄枯盛衰があったが家老西脇東左衛門らの尽力により6世宗学・7世宗寿尼が茶頭として仕えた。このころ、名器の「献上唐津」が生まれ、外威の小笠原長輝らが月を見、花を楽しみ、茶を嗜んだのが下屋敷の「江月楼」であった。その後明治維新の人心荒廃期となり、茶道も地に落ちた。
 しかし旧藩士で茶人の大島輿義や茶坊主の中村宗珉が宗寿尼を助け、茶道宗偏(ギョウニンベン)流の復興に努めた。明治13年(1880)、宗寿尼は、大島興義と茶坊主の中村宗珉へねんごろに後事を託して上京した。
 大島興義は初代城主長昌に従い勘定方として奥州棚倉より唐津に移って来た家柄の人である。彼は茶道を5世宗俊に学んだ大茶人であった。又宗寿尼は、深山幽谷の様な大庭園を通り、幽*(スイ)なる古木の路地の奥にある大島家の茶室を「敬日庵」と名づけ、宗寿の名と花押を添書きした盆点の「松ノ木盆」を贈っている。
 又献上唐津の茶碗に、藩の御用絵師長谷川雪塘が初日を描いた「日の出茶碗」が秘蔵されている。又、杵島炭鉱社長高取伊好とその養子高取盛も中村宗珉を応援し、伊好の妻昌子、盛の妻静子、その娘綾は共に宗珉の門に入り、茶道に勉め、昌子は松風庵宗音と号し、師範代を允許され、綾も宗珉に入門して、唐津小学校裏の伊沢家の茶室で小学生の頃から宗珉に茶の湯を学んでいた。
 今日茶道宗偏(ギョウニンベン)流佐賀支部長の重責にある微笑庵宗幽その人である。佐賀に於ては、肥前公鍋島信濃直公は、終身斎と号しその夫人楽只亭も共に水谷義閑の門でいずれも皆伝を受けている。
藩士志波四郎次は、文政の頃4世宗也の門人となり、廊雪庵と号し皆伝の茶人であった。侍医久保文斎は嘉永6年、6世宗学の門人となり皆伝を授与されている。


二. 中村宗珉
 今日の唐津宗偏(ギョウニンベン)流の基礎を築き隆昌に貢献した。心外庵宗珉中村義宝は、天保14年3月晦日唐津城内大名小路にて生まれた。父は信州の人で中村甚五兵衛の3男で中村忠吾といい、小笠原の分家(長行の季父)修理頭長光(朱門公)の御膳職を務めていた。安政六年8月宗珉17歳の時、主君長光の命により、家老高畠勘解由に随い、江戸に出府し、茶道宗偏(ギョウニンベン)流6世山田宗学の門に入った。
 修行勉励7ヶ年遂に皆伝を許されて、慶応元年旧11月唐津に帰った。翌2年正月27日長国に召抱えられ御役部屋坊主御雇を仰せつけられた。元治元年正月27日すでに兄唯之助より分家していたので坊主町(現坊主町郵便局辺り)に居宅を賜った。同年12月25日御役部屋坊主茶道見習を命じられ知行高5石2人扶持となり明治元年12月26日には、列座末席となり六石2人扶持の知行となった。明治3年12月に現米36俵の知行となったが廃藩置県で失禄した。
 かくて世は幕末、明治維新と動乱期が続き、茶道は顧みる人もない状況であった。然し宗珉は節を屈せず門流を守り通した。7世宗寿尼が唐津を去って上京して以来、流派は愈々衰微に陥ったが、旧藩士大島興義始め、僅かに残った門人の太田橘衛、南大鑑、寺沢大典(近松寺元住職)等と復興に努めた。そして唐津町は勿論佐賀・伊万里・相知・武雄・鹿島・浜・久留米・広島まで出向いて流派の普及発展に献身努力した。
 この姿に感銘した高取伊好は、積極的に援助の手を伸ばし、武雄宗叙、小関宗代、多久島宗仲等の門人も宗珉を助けて宗偏(ギョウニンベン)流の興隆に努めた。然し門人中に確執を生じ、宗珉も宗偏(ギョウニンベン)流の祖式に反するとして家元8世宗有に意見書を提出し、門弟の反省を促した事もあった。
 家元8世宗有はトルコから帰朝後宗珉の功労を賞して師範代の栄誉を贈った。
 又宗偏(ギョウニンベン)流門人譜の中に6世宗学の直門として明記されている。然し大正9年2月13日陰居し家督を長男の宗亀に譲ったが、宗亀は茶道に志す意志がなく、遂に宗珉夫妻は宗亀の勤務先の福岡県飯塚町鯰田三菱炭鉱の社宅に移り、妻マツは大正9年7月31日その社宅で死去した。
 宗珉は再び唐津に帰り親戚の本町大西猪之太郎の家で大正13年12月11日、82歳の天寿を全うして人生を終っている。
 墓所は近松寺にあるが、恵まれざる晩年であったようだ。宗珉の門弟は各地に広がりその数300人を越えるほどであった。
 宗珉より後事を托された高弟の武雄宗叙は功績を不朽に讃えんと、その碑の建立を発起した。偶々高取伊好はこの美挙に賛同され、大正15年7月27日近松寺にて建碑除幕式が行われた。

 碑面の文字は8世宗有の筆であり、碑の裏側には

   このめにる かほり高しも とこしえに
     くらせぬ御名を  あふく石文
            門弟 さい子

   いつ来ても  静かなるかな  松の風
            門弟  志づ子
           武雄宗叙 高取品子 建立

と書かれている。
 除幕式は観月庵宗叙の献茶で始まり、高取綾の手で除幕が行われた。


         終り。
唐津市近代図書館に数多くの大島家文書が眠っています。郷土史料目録Ⅱにその全ての目録がございます。
『大島家文書目録』 クリックしてください
 大島家・大島小太郎の偉業がこの目録を通して見えてきます。唐津はこの歴史を無視しては通れません。唐津の経済産業文化全てに拘わってこられた姿が見えてきます。
宮島醤油さんのホームページにも大島小太郎に関してUPしていらっしゃいます。
「去華就実」と郷土の先覚者たち
第12回 大島小太郎
どうぞご覧下さい。

唐津市近代図書館は平成8年に出版した「郷土史料目録Ⅱ」には江戸末期から昭和に至るまでの莫大な数の大島家文書が納められておりました。これらを見ると現代唐津の産業・文化の礎は大島家が全てにおいて拘わってきたことが明らかです。
次は大島邸に関する私のブログを載せてみました。
また、書き込んでいただきましたコメントも皆様の生の声として載せさせていただきました。
ご了承下さい。
クリック!
 
 
 
 


中里紀元先生の史料をご紹介します。

大島家の歴史と功績
1、大島小六(太政衛門、興義)小笠原長昌-文化14年(1817)奥州棚倉より入部
 役職-勘定方、紙方組頭(文政年間)
・北方代官、御金奉行、山奉行(天保9年10月厳木幕領一揆)
・紙方奉行(天保13年6月)
・御金奉行(天保14年4月)
・御勘定目付(安政6年9月)-1859
 江戸時代の唐津藩の重要産業-紙、捕鯨、木ろう、石炭、(酒)藩の御用商人の強大化
  明治時代-1868年9月8日
・小笠原長国東京への退去、長行の北海道逃亡
・重臣も唐津を去る(城内の空き家)明治5年の藩札処分不正事件
・御用商人の倒産、藩の莫大な御用金の未払い
・大島興義の産業復興-御金奉行
・明治3年「司計大属」-藩政改革 残務整理
・紙方専売事業、浦方会所の魚会舎組合、明治6年
2、大島小太郎(興義の長男1859年安政6年~1947年昭和22年)
   藩学校(耐恒寮)で高橋是清に英語を習う
・東京、三菱商業学校、二松学舎
・唐津銀行の設立、明治18年10月 大島親子の尽力、大石町商人の協力
・唐津興業鉄道株式会社、明治29年10月-唐津線の起工式
  妙見、厳木開通-明治32年-石炭-高取伊好
・唐津港(西唐津港)の開港-松浦川口の船運から鉄道
・唐津銀行新本店、明治45年4月15日(1912)移転新築
  辰野金吾監督、田中実設計(1年7ケ月余の竣工)
・呼子県道、浜崎福吉間海岸道路
・九州鉄道、北九州鉄道
・特設電話、唐津電灯1885年~5年間県会議員
※参考文献  佐賀県銀行史(佐賀銀行)佐賀大百科事典(佐賀新聞社)


大島家の歴史と功績
1、大島小六(太政衛門、興義)小笠原長昌-文化14年(1817)奥州棚倉より入部
 役職-勘定方、紙方組頭(文政年間)
・北方代官、御金奉行、山奉行(天保9年10月厳木幕領一揆)
・紙方奉行(天保13年6月)
・御金奉行(天保14年4月)
・御勘定目付(安政6年9月)-1859
 江戸時代の唐津藩の重要産業-紙、捕鯨、木ろう、石炭、(酒)藩の御用商人の強大化
  明治時代-1868年9月8日
・小笠原長国東京への退去、長行の北海道逃亡
・重臣も唐津を去る(城内の空き家)明治5年の藩札処分不正事件
・御用商人の倒産、藩の莫大な御用金の未払い
・大島興義の産業復興-御金奉行
・明治3年「司計大属」-藩政改革 残務整理
・紙方専売事業、浦方会所の魚会舎組合、明治6年
2、大島小太郎(興義の長男1859年安政6年~1947年昭和22年)
   藩学校(耐恒寮)で高橋是清に英語を習う
・東京、三菱商業学校、二松学舎
・唐津銀行の設立、明治18年10月 大島親子の尽力、大石町商人の協力
・唐津興業鉄道株式会社、明治29年10月-唐津線の起工式
  妙見、厳木開通-明治32年-石炭-高取伊好
・唐津港(西唐津港)の開港-松浦川口の船運から鉄道
・唐津銀行新本店、明治45年4月15日(1912)移転新築
  辰野金吾監督、田中実設計(1年7ケ月余の竣工)
・呼子県道、浜崎福吉間海岸道路
・九州鉄道、北九州鉄道
・特設電話、唐津電灯1885年~5年間県会議員
※参考文献  佐賀県銀行史(佐賀銀行)佐賀大百科事典(佐賀新聞社)


 唐津茶道宗ヘン流と大島家及び後援の人々

1、小笠原家と宗ヘン流
   小笠原忠知(三州吉田の藩主)の茶頭 1世 山田宗ヘン(宗旦四天王の一人)-
   3代千宗且の推挙
   1小笠原長昌(唐津藩主)
   2代 長泰                 5世 山田宗俊--娘婿(磯野)宗弥
   3代 長会                     家元断絶
   4代 長和(よし)            6世 山田宗学(義明)-支流吉田宗竜門弟
   5代 長国                  唐津在住 養子宗叔(離縁)
      長行(江戸幕府家老)               宗寿尼(宗学の妻)唐津
      長久(大名小路、茶室「高月楼」)
   外戚 長光(長久の祖父)朱門公

2、大島家と宗ヘン流
・ 中村宗珉(義宝)
   17歳宗学の門に入る、朱門公推挙
    慶応元年帰唐(茶坊主)       -明治初年宗ヘン流衰微-
・大島興義の援助-大島邸「敬日庵」茶室   -宗寿 上京(明治13年)
   大田橘衛 
   南 大鑑(光孝寺)多久島宗仲          宗珉の弟子 300人
   寺沢大典(近松寺)                相知 武雄、蔵宿、
   大島小太郎   妹 大島宗叙(武雄)       鹿島、浜、久留米、
    妻 鎮子(敬日庵) 弟子 溝上宗栄       熊本、広島
・ 高取伊好の援助---(大島家と宗珉門人の援助に感銘して)
   妻 品子        高取盛
  (松風庵宗音 妻 静子(翠松庵宗静)---娘 綾(微笑庵宗幽)
                 伊沢家の茶室で習う  (佐賀県宗ヘン流会長)


 ※参考文献  「末廬国」(松浦史談会)
        「茶道宗ヘン流の歴史と唐津、佐賀の門人たち」(岩下忠正)
        「宗ヘン流」(光村推古書院)


大島邸の写真
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署名日時   コメント
 
2010/06/07 20:49 島根県松江市の武家屋敷ようにそのまま残して文化財展示に使う方法もありますし、東京都内であれば古い民家をそのまま利用して和カフェとでもいうべき使い方をしているところもみうけられます。
どちらにしても校舎については代替手段がある上に、敷地庭園も含めて観光資源としてこれだけ有効活用できるものを壊すことは疑問です。

内実を知らずに賛成している議員さんや市民も多くおられると思いますのでそのあたりの周知が鍵になると思います。まずは仮処分でもいいので工事を止めることが重要ですよね。
2010/06/03 12:36 唐津には守るべき文化・歴史があります。それを残すことが唐津市民・佐賀県民のアイデンティティを高めることにつながると思います。歴史を破壊すると絶対に復元できません。ご配慮を御願いいたします。
2010/05/30 23:28 貴重な建築物は観光材料として町おこしに利用するべきです。
2010/05/27 11:11 ずっと気になっています。解体されると大切な唐津の記憶がまた一つ無くなってしまいます。
2010/05/27 03:58 後世に残すべき、貴重な歴史的文化財です。
2010/05/24 23:24 壊すことは簡単。なんとか残す方法を。
2010/05/17 19:59 歴史的建築物の保存が大事な事、地域・国が一緒になって大切にしていくべき物と云う事を教育上でも実践していくべきではないでしょうか?
校舎・子供の為に取り壊すという考えは、何一つ子供の為にはならない事、逆に現在に生きる人間の自己的な事を優先するのは当たり前という間違った教育になってしまう事、その重大な過ちは決してあってはならないと思います。
子供を持つ親として、教育現場がこのようになっている事に憤り・悲しみを感じます。
2010/05/15 00:59 小学校の耐震強度問題と旧大島邸の取り壊しは別問題。小学校の建築および施工計画によっては保存も可能と考えます。また、移築保存という考え方もありえます。貴重な遺産を簡単に壊してしまうのはMOTTAINAIと思います。
2010/05/15 00:12 今まで平気で居る自分が恥ずかしいとさえ思う事でした。
由緒正しいと伝えられる伝統・歴史ある日本の建築物を世界遺産として‥
ここで大切に保館し次世代に伝えて下さい。
2010/05/06 06:27 大島邸を残す声に賛同致します。
2010/05/06 02:36 古きよきものは守り受け継ぐのが当たり前。壊すなんてもってのほか
2010/04/28 00:46 明治期の唐津の隆盛を今に伝える貴重な遺産です。是非保存していただきたいと思います。
2010/04/27 08:31 今は、文化でも海外の文化がはいってきつつあります。日本の古い文化を大切にしましょう。
2010/04/27 03:15 後の世代に伝える貴重な資料だと思います。これだけ立派な建物は、そうそうこれから建てられるものではないと思います。是非残して下さい。
2010/04/27 00:26 唐津のきれいな景色これ以上壊さないでください。
壊すことは簡単です、でも一度壊したものは二度と元には戻りません。次の世代の子供たちの為にも、貴重な建物を残していってほしいと思います。
2010/04/26 12:03 この様な重要な建物は、今後も残して行くべきです!
2010/04/26 10:26 ちょっといいと思うものは結局5年10年で飽きられ長持ちしません。未来へ希望を持つためには、町や地域は固有性を持つ必要があります。それが大島邸です。
2010/04/19 10:27 高取邸と同じく保存してほしい。
2010/04/08 08:06 唐津の大切な遺産である大島邸をどうか残してください。
2010/04/02 13:34 はじめて知りました。遠くの地からは、行政や議会の結論への過程が安易で短絡的に見えます。小学校の耐震性がないことと、文化的象徴を破壊することが何故結びついてしまうのか全くわかりません。ぼろぼろになったとしてもひとまずは残っていることが全てかと。
お金がどうしてもないのなら、好きな人時間のある人達で休日にこつこつ修復していくのは如何でしょうか。
2010/03/30 19:52 大島邸を残した後どう維持していくかが課題ですよね。陰ながら応援しています。
2010/03/29 12:59 唐津市長、市議会の皆様
歴史伝統は観光資源であり、地域活性化の大切な財産です。大島邸を何卒保存して頂き、広く日本国内に観光都市としての唐津市も広めてください。効率的な運営により保存の費用も必ずお釣りが付きます。
2010/03/24 07:11 新しいものを作る、それも権利ではあります。
でも、その土地の歴史は宝です。それに関係する建物などは、歴史遺産として校正に残す権利もあるはずです。
2010/03/23 19:27 なんとかならないものでしょうか?
2010/03/21 09:21 最近唐津に引っ越してきました。海のそばの城下町、とてもいいところです。大島邸を残して、もっと自慢できる町にしていきたいです。
2010/03/13 17:45 現実問題として維持管理費、老朽化、唐津(小学校も含む)が置かれてる状況を考えると一概には言えませんが…
心情的には残したい物だと思います。
2010/03/12 10:27 唐津市出身です。
2010/03/11 21:08 私は呼子の出身でもう40年近く埼玉県・蕨市に住んでおります。蕨は江戸時代、宿場町として栄えその後は機織の町で栄えていたそうです。資料館にはその当時の絵・写真などのこされていて子供の教育には欠かせないものだと思います。古い物語るには現物が最高だと思います。
2010/03/10 20:58 一度壊してしまったら元にもどりません。
子供たちにとっても大切な大切な遺産だと思います。
2010/03/10 15:04 貴重な 唐津の財産を 保存されることに 賛成します。
街中の 潤いを 残して下さい。そして 先達の偉業に学び
唐津市民の繁栄に つなげましょう。
2010/03/06 19:42 最近建造の箱ものばかりが目立つ唐津の市内で唯一残っている武家屋敷を是非保存してください。
2010/03/06 08:38 大志小学校の改築における根拠は何なのでしょうか?。建物の老朽化・耐震強度の問題?何れにせよ、少子化問題で児童数も減って統合、財政難の中全面改修工事若しくは耐震補強等にて対処は出来ないものなのでしょうか?
2010/03/05 23:46 唐津を離れてもうすぐ7年目。どんな事情があるとしても、よいものは残してほしい。
唐津の人にはもっと古いものに価値を見出してほしい。私たちや、もっと若い世代だと、大島邸や高取邸のことを知らない人も多いと思うので、こんなところがあるということをどんどん発信していくのも一つの大事な活動だと思います。
2010/03/01 22:32 唐津の大切な一つのアイデンティティを失うことは是が非でも避けましょう。寄付を募ってでも残しましょう。唐津市民の心意気を見せてくださいませ。小生も寄付しますよ。
2010/02/28 19:37 大切な財産を未来へ向けて保存することは、今を生きている人々の義務であると思います。詳細は理解できなくともそれぞれにある思いを大切にしていくことが未来へのバトンタッチになっていくことだと思います。
壊すのは一瞬の作業、残すことは力のいる作業です。
多くの方々が賛同していただけるように私も応援します。
2010/02/27 16:36 mixiにて知りました。唐津くんち同様、古き良き物は後世に残していくべきかと…。
2010/02/26 03:59 行政は、もっと歴史文化遺産保護に目を向けるべきです。
どうしても大志小学校を立て直すのならばほかに方法を模索するべきだと思います。
2010/02/22 23:17 このような貴重な文化遺産を保存,活用し,後世に受け継いで行くことは,私たちの義務です。
2010/02/20 15:16 昭和戦前期までの和風建築は急速に失われつつありますし、茶道史的に見ても重要な遺構だと思いますので、知恵を振り絞って、是非是非、保存活用して頂きたいと思います。
2010/02/19 04:54 保存に際して多くの財源が必要というのはわかります。しかし、人が生きてゆく上で自らの歴史を学び、知り、そして理解しなければ、それは我々個々を形作っている要素を否定していることと同じ。
我々唐津っ子の代表の集まりである市の、唐津の政に関わる方々がその”歴史”を簡単に消すことを決めるのではなく、先頭に立って最善の方法を考え、護っていかなければならないのではないのでしょうか?
自然、やきもの、おくんち等、数ある唐津っ子の”心”の一つでもあります。
「遺していかなければならない」と思うのはここに署名をした人間だけではないはずです。
2010/02/19 03:36 建て直しのきかないものです。お考え直しをお願いします。
2010/02/19 02:52 素敵な建物を壊す理由はないと思います。
2010/02/13 15:57 大島邸は、明治期の唐津の産業経済・教育に貢献された大島小太郎の生家であり、小学校改築のため貴重な唐津の財産が取り壊されるとのことですが、校舎等の配置・設計を見直されて修復可能とも言われている素晴らしい茶室がなくならないよう願っています。
2010/02/12 21:12 がんばってください!
2010/02/12 08:44 友人からの紹介で来ました。
現在、NHKで放送している(途中ですが)「坂の上の雲」に出てきた
高橋是清さんと深い関わりがあると言うこと。とても興味深く拝見させていただきました。歴史的価値の高い物だと思います。ぜひ後世に残していただきたいと思います。
2010/02/11 23:17 美しい建物ですね。ぜひ日本の巧みの技術が生む美しさを後世に残してください。
2010/02/10 19:53 応援してます
2010/02/08 23:02 一度見学に行きたいです。保存運動がんばってください
2010/02/04 16:59 後世に残さねばならない文化財だと思いました。
なんとか維持できるよう頑張ってください。
2010/02/03 20:13 ぜひ残したい!
2010/01/31 13:02 貴重な大島邸をぜひ残していただきたい。皆様の声が届きますように。
2010/01/30 23:57 残しましょう、大島邸。頑張れ、唐津っ子。
2010/01/29 00:27 朽ちかけだった武雄温泉が復活し文化財指定を受けた様に、大島邸の復活を望みます。観光資源として、そして歴史資料として残すべき
2010/01/28 13:15 歴史的な建造物は残すべきだ。
2010/01/28 11:39 昨年まで住んでいた新宿区落合でも4年ほど前に同じような事件がありました。「たぬきの森」と呼ばれ、都会の新宿区にも関わらず野生の狸が住み続ける森と美しい古邸宅が残る素晴らしい場所をマンション業者が買い取り、住民の長期にわたる反対運動にも関わらず森も古邸宅も壊されてしまいました。その後裁判により土地取得が違法である判定が出てマンション取り壊しが決まりましたが、もう後の祭りです。歴史を刻んだ遺産は取り戻せないのです。教育施設の建設のために文化遺産を取り壊すなど考えられないことです。その土地の文化資産は守らなければなりません。
2010/01/28 00:01 唐津出身、中里先生の教え子です。唐津は本来風情のあるいい町だと思います。ぜひ保存してほしいです。
2010/01/26 17:52 壊したらおしまい。残して下さい。
2010/01/26 14:46 大島邸を残す趣旨に賛同します。
2010/01/26 14:05 唐津に貢献された方の残された大きな財産だと思います。
子ども達のためにも、唐津のためにも残してほしいと思います。
2010/01/26 10:29 この唐津の大島邸も歴史的建築物が無くなる典型的な筋書きです。傷みが酷い、修理、維持に膨大な費用がかかるなどと尤もらしい理由付けをして壊すのが常です。小学校の建替えのために大島邸を犠牲になるとのことですが、もっと楽しい夢のある案をみんなで考えませんか。たとえば「武家屋敷のある小学校」は如何でしょうか。教育の場としてこんなに良い条件のところはないと思うのですが・・・・・・。
2010/01/26 07:57 素敵な建物 是非残して下さい
2010/01/25 14:48 mixiでたまたまこのサイトに遭遇しました。小生も唐津市出身で日本の古きよき文化というものに人一倍思い入れがあります。現在は長野県に住んでいますが東京にも行き来して生活しています。あいにく、お袋も6年前にこちらに来て同居していますので唐津の実家は存在しません。が今でも1年に一回は唐津に帰りたいと願っています。今度帰省したら、大島邸を見てみたいと思います。
2010/01/24 10:01 唐津出身の友人がいます。その友人はもちろん、幼馴染の方も自分の育った土地の歴史に詳しく、そして唐津を自慢に思っているようでした。
私は転勤族の家で育ったので、愛する土地を持っていることが素晴らしいと思いましたし、羨ましいと思いました。新しくしていくことも必要な部分はもちろんあると思いますが、後世に唐津の素晴らしさを伝えるためにも残すべきものは何かを改めて見直した方がいいのではないでしょうか。
2010/01/23 23:22 素晴しい建物ですね、ぜひ保存して頂きたいです。頑張ってください。
2010/01/23 18:03 失ってからその価値を知ったのでは遅いのです。
2010/01/23 12:47 絶対に残すべき!!
2010/01/23 11:24 こんなかっこいい、歴史的にも価値がある建築を壊してしまうのは本当にもったいないと思います。
日本のたからもの、ぜひ保存、修復して公開して頂きたいです。
2010/01/22 16:07 せっかくの文化財産を取り壊してしまうのは反対です。有効利用をして無理なく保存する方法を検討してほしい。
これだけのものを安易に解体しようという日本の行政はセンスがなさすぎると感じる。広く公募すればうまく再生できる方法が必ずあると思う。もうこのような建物はたてられない。古いものにも価値を見いだしてほしい。
2010/01/22 14:21 先ほどは有り難うございました。頑張ってください。
2010/01/22 10:55 城下町唐津の名が泣くのでは?次世代の子孫から笑われますよ!
2010/01/21 19:26 唐津くんちとは違う方面での歴史的な建築物を残すべきです。後世に伝える為に、必要なことです。
2010/01/21 09:15 城内がマンションだらけになってはいけない
2010/01/20 19:01 歴史ある財産は残しておきたい。
2010/01/20 09:37 宗偏流を学んでおります。流儀を問わず、この日本人の宝を無為に壊すのは忍びないと思い、署名致しました。もっと文化を大切にして戴きたいと思います。
2010/01/19 06:51 是非とも残していただき、有効利用を考えていただきたいものです。
2010/01/18 12:18 壊すことはいつでもできます。「唐津の」だけでなく佐賀県の、日本の大切な財産、残したい。
2010/01/18 08:43 歴史的文化財はひとたび壊して同じように復元したとしても、後世の人の心を打つものはできません。当時のままの柱、天井、床・・・それらのものを昔の人と共有することで感動を得ることができると思います。古いからと言って簡単に壊すような寂しい考え方はとても悲しいです。
2010/01/17 17:56 残すべきだと思います。
2010/01/15 21:19 勉強会に参加して、あの土地に建物と緑を残す必要を感じています。環境教育に必要な施設です。
2010/01/15 11:00 日本の文化、佐賀県の文化、唐津市の文化を、今後の未来を担う子ども達に伝えていくためにもしっかりとした形で保存したいですね。建物を物理的に取り壊すことは、簡単なのでしょうが、この大島邸の事を思うみんなの、様々な気持ちを壊すことは絶対にできないと思います。「故郷を思う心」の大切さをみんなで考えましょう。
2010/01/14 10:26 文化的価値をきちんと評価する目を養えるよう現代の教育に反映させる有効利用をしていただきたいと思います。
2010/01/13 10:36 スクラップ&ビルドの考え方ではなく、古いものを残しつつ活かしながら計画を進めて欲しいと思います。
2010/01/12 18:04 今を生きる者達の誤った判断で、文化財の喪失をしてしまっては、未来人に責められてしまいます。
時代が受け継いで来た物を、正しく検証し、責任を持って残すのも今を生きる者達の義務だと思います。。
2010/01/12 08:07 歴史的建築物の価値が見直されてきたというのに、いまだにこんなことがあるということは、悲しいというか、怒りさえ感じますね。
2010/01/11 15:20 文化的価値の検証を十分にしていただきたいと思います。
2010/01/11 10:27 私は建築構造を手掛けております。旧唐津銀行の耐震診断・耐震改修では、微力ですが協力させていただきました。唐津には多くの文化的遺産が残されていることも存じております。唐津市の行政の方にも理解者は多いと感じております。今回の大島邸の件はよほどの理由があるのではと推察しております。署名をもとに何か情報が開示されることを願います。活動されている方は、大変御苦労だとは思いますがご尽力ください。陰ながら応援させていただきます。
2010/01/10 22:44 失われていく建物を目前で見てきた経験があるだけに、是非とも残されることを願います。
2010/01/10 11:05 子供たちに受け継いで行くべき重要な文化遺産を小学校建設のため取り壊すとは納得出来ません。反対します。
2010/01/09 16:26 取壊し計画が見直されることを切に願います。
2010/01/09 00:35 後世へ残す方法を模索すべき貴重な物件だと思います。
2010/01/08 23:56 唐津には毎年観光に訪れています。歴史のあるよい町だと思っています。がんばってください。
2010/01/08 22:23 がんばってください。
2010/01/07 21:16 志道小学生の時分は、「古かね~、広かし何やろか~」っちゅう感じでした。適切な処置を施して残すべきです。唐津んもんの財産です。
2010/01/07 18:33 壊すのは一瞬、しかし元には戻せないのは世の摂理。市の方針として初めから保存を考ずに解体の方向で土地ごと購入されているとは聞いていますが、今一度再考頂く必要があるかと思います。
2010/01/07 10:50 ここは自分の思い出の地であると同時に、「唐津」の思い出の地です。
2010/01/07 01:15 地元の残すべきところであり、今後の観光資源にもなると思い、署名します。
2010/01/06 13:16 唐津の歴史を残す大切なものは、在るべき場所に在る事が大切だと思います。
2010/01/05 10:37 大島邸は素晴らしい文化遺産、貴重な町の宝です。頑張りましょう。私もできる限りお手伝いします
2010/01/04 01:42 解体決定みたいな印象を受ける報道は何なのだろうと思います。
2010/01/04 01:36 辻いく子さん頑張ってください。東高の同級生です。
2010/01/04 00:43 このような建造物を解体してしまう事は、唐津の魅力を損なう愚かな行為だと思います
2010/01/02 00:35 趣旨に賛同致します。大切な文化財であり、未だ使用出来る環境とのこと。是非とも残して下さい。
2009/12/30 00:23 担当行政側は何年かすれば配置転換するので、後は知ったことじゃない。
この歴史的遺産をぶっ壊し、唐津の人の良識の無さを世界中の人に疑われ笑われる事になった時、歴史法定に立つ覚悟で仕事をしているのか。そこまでの覚悟もって行政運営をしてもらいたい。
専門家ではないが、小学校は耐震補強とリニューアルで対処できないのかなと思う。財政難と言いつつ、わざわざ新築する必要があるのでしょうか?
2009/12/29 18:56 保存運動、ご苦労様です
2009/12/29 15:44 写真を観ました。一度壊してしまったらもう二度と元には戻らないということを強く皆に訴えていってほしいです。
2009/12/29 10:57 数少ない歴史的建造物は大切に公共的に保存活用してほしい。
2009/12/27 23:12 行政は市民との誠実な対話を通して決定すべきだと思います。
2009/12/26 23:48 古き良き日本の姿を残してゆくべきだと思います。
2009/12/25 18:41 よくある保存再生では、修復費用がウン千万円とかイチオクとか驚愕する数字が飛び出して、地域の人たちが振り回されることがしばしばあります。
気持ちがあれば、ちょっとづつ、ちょっとづつ、時間をかけて直す方法もあると思います。
2009/12/25 12:25 御世話様。がんばってください。
2009/12/25 11:19 温故知新
2009/12/24 21:19 こんな大事な歴史遺産、絶対に残すべき。壊してはなりません。
地元民ではありませんが、支援します。
2009/12/24 19:19 絶対に残すべきです。
2009/12/24 19:04 亡き父が(文連関係)お茶会等でお世話になっておりました。
是非、保存を願います。
唐津の観光資源として活用しましょう。
2009/12/24 18:56 歴史的建造物の保存を望みます。

大志小学校建て替えに伴い、唐津の遺産とも言うべき大島邸が行政の手によって今取り壊されようとしています。

大島邸は明治から昭和にかけて唐津の産業経済文化の基礎を作った大島小太郎の邸宅です。明治12年に建てられたこの屋敷と森は時を経て風格を増し、マンションや駐車場に姿を変えていく城内地区にあって本当の意味での唐津の最後のお屋敷になりました。取り壊しを反対すればシロアリの被害大との一辺倒の行政の返答です。3月の議会を通過すれば来年度早々には解体工事が始まります。解体した部材は資料として保管し記録保存すると言っていますが、解体したものは二度と復元することはできません。
行政が取り返しのつかない過ちを犯さないために、大島邸を残す会が発足し署名活動で行政に訴えています。決して小学校の建て替えに反対するものではありません。旧唐津銀行や旧高取邸以上の文化遺産でもあり、観光資源にも成り得るものです。唐津の品格を保つために大島邸をこのまま残したいと訴えています。

平成23年1月4日
坂井俊之市長は4日の年頭記者会見で、移築保存の決まった旧大島邸の活用方法などを話し合う基本構想検討委員会を3月にも立ち上げる方針を明らかにされました。

今後の大島邸に関することは次のサイトをご覧ください。
 大島家文書目録

 大島邸保存の活動経緯メモあり

 大島邸に関するうちのぼちぼちブログはこちらです。

 大島邸・大島家に関する掲示板はこちらです。

大島邸保存に関する新聞記事はこちらです。




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