史談傳説


唐津の山笠に関する一考察

唐津小学校 高崎貞雄


 碧瑠璃の空に覚醒的な三つ囃子の行進曲を響かせて十四の絢爛たる山笠を曳き廻す唐津の神祭は唐津町民の生活殊に児童の生活と第一義的の関係をさへ持って居る。夏の末秋風が吹き初むるや彼等は「後幾日で山笠曳き」と指を折って数へるのである。今此の山笠について少しく歴史的の考察を試みよう。
 今は昔三百余年前、豊公名護屋滞陣の折無聊を慰めんとしてか所謂走り山笠(二輪車付)を作りて伸祭の神輿に供奉せるがそもそもの起であるが。其から下って二百年、文政元年水野忠邦に替って奥州より小笠原長昌公唐津に封ぜらるゝに際し現在の刀町山笠が作られたのである。完成したのは翌文政二年(紀元二、四七九)で丁度長昌公棚倉より入部の途に神祭に会はれしと傳へられて居る。
 続いて文政七年に中町の青獅子、天保八年に材木町の亀山笠が完成し後は数年毎に現在の山笠順に出来し明治九年に至って水主町が竣成して居る江川町と水生町は一年毎に順位を交替すると開くから恐らくは江川町も此の年に完成したものと思はれる。
 さて文政天保にかけて走り山から現在の永久的山笠に改作されたる事について少しく考察の歩を進むれば、時宛も江戸に於ては家齊、将軍職にあること四十除年、暴政は惰気満々、文化は元禄の後を承けて頽廃、民風士気は腐敗の頂に在った時で高等科国史教科書には江戸幕府の衰運と題して幕府衰亡の兆既に此の時に現はるとして取扱はれ居る時代である。かゝるときにあたり従来の一年毎に作り替へたる走り山笠を廃して永久的な張子漆塗りのあの山笠を新作したことは頗る興味ある問題を我等に與ふるのである。

 この山笠を明神社前より今の明神横小路を経大名小路に出で日頃は低頭平身して通りし大手門を意気衝天の勢で喚声を揚げて曳き出るとき彼等の心中果して一年間の鬱屈を此の一日に晴らすといふ或る一物がなかったとは誰が言ひ得よう。東の山を離れた許りの朝日が門を曳き出した朱や銀の山笠に映じて燦爛たる光彩を添へ天地に響くヨイサヨイサの掛声と和したるときの町民の意気を思ふとき、門を守れる侍の心の奥に必ずや一抹の冷き暗雲を蟠らせたことであらう。勿論神輿の御供であるといふ観念が十分彼等を支配して許されたる日といふ心の弛みはあったれ、又曰く当時の唐津町民に微塵も藩主に対する不平心等は持たざりしならんも、個々集りて群をなす時即ち社会心理学者ドウレーヴァ氏の群衆型、倶楽部型、社会型の三つが合一せる団体の中に、流れたる群集心理は封建制度に封する一つの階級的示威運動ではなかったらうか。それが流れて幕末より明治へかけての民意尊重となり民選議院の設立請願運動となったのではあるまいか。その時その時の走り山笠から永久的の山笠に替はったことは即ち此の「最後は民意の勝利」といふ観念が暗黙に彼等を支配したのではあるまいか。恰も世界の歴史は同じ歩調を踏んで居たのである。
 又、政治的の見解を離れて芸術の分野から見るときに元禄の後を受けた文化文政時代の爛熟腐敗しきった芸術が一転換して新らしき新興芸術への萌芽を此の山笠に発見することが出来る。一番山刀町の赤獅子を見よあの力強い表現を。あれは京都で見た越後獅子の面に動機を待て作者が創作したものと傳ふるが実にエポックメエキングな作品である。突起せる一本の角に、顔面の凹凸に、全体としての構想に、決して元禄、文化、文政時代の軟弱文化が想像すらなし得なかった力強さが見えるではないか。

 総て前代の崩壊せんとする文化の後を受けて新興する芸術には先づ何よりも素朴なる力強さを見る。整へる形態よりも線である。
 文化と人心それは密接なる関係がある。芸術は時代思潮の先駆者であることを思ふとき、この山笠は単なる山笠でなくして前の政治的見解と一致する意味を持つものではあるまいか。時代が下って出来た山笠が一二の例外を除きて『雄渾な所がなく巧緻優美になった』ことは一般芸術消長の同じ軌路を辿るとはいへ、再び興らんとして能はざりし江戸幕府の運命を象徴するものでもあるまいか。而して明治の初年は悲しくも東洋芸術の受難期であったにもかゝはらず、あれ丈の山笠を残した先人を尊く思ふ。
 秋が来る、笛の稽古が初まる、若人の魂は感傷の海に漂ふ。やがて其の日神輿を護りて十四の山笠が濃藍色の海に面して廣々たる西の濱に並ぶとき、青に、朱に、金に銀に、獅子の面に、信玄の冑或ひは浦島の昔語りに。古典主義とローマン主義と錯然として鳴る三つ囃子の大交響楽とは世期末的近代人の夢にさへ畫き待ぬ繚乱たる一大詩である。
 最後に調査し得たる山笠につきて簡単なる沿革を記すれば

一番刀町山笠
文政二年完成、越後獅子(雄獅子)
作者石崎嘉兵エ(刀町住人)
其後、度々修理せしが今年も八百余圓を投じて塗換へた。

二番中町山笠
文政七年完成、青塗獅子頭
作者辻利吉、本年塗換中

三番材木町山笠
天保八年完成、亀、其の昔走り山笠時代は町の位龍に因ってか竜宮乙姫の山笠なりしと
作者小島治石エ門
費用、五百両、当時の一両は米三俵に当れりと言へば、又物価指数は凡そ十年毎に倍になるとして、約百年前なれば現在の価格に直せば約一萬五千圓位か

九番木綿町山笠
安政三年完成、武田信玄の冑

作者近藤藤兵衞
今年二千三百余圓を投じて塗替修理せり

十一番平野町山笠
明治二年完成、上杉謙信の冑
作者富野式造(淇淵と号す)当時本町の住人、京町水主町の山笠も同人の作なり。
費用三百両其の後度々修理せしが今年一千五百余圓を投じて塗替修理せり

十二番京町山笠
明治八年完成、玉取獅子
大正十五年四千五百圓を投じて以前の青塗なりしを朱塗に塗替ゆ

十三番水主町山笠
明治九年完成、しゃち(鯱)
大石神社の御神輿に供奉するため作れりと
今年八千余圓を投じて以前と略同型なれどたゞ少しく縮小せるものを新作せり。

前記の外調査未定のもの
四番呉服町  八幡太郎義家の龍頭の冑
五番魚屋町  鯛
六番大石町  鳳凰丸即青史に見ゆる鷁首の船
八番本 町  金獅子
十一番米屋町 大江山源頼光の冑
十四番江川町 蛇寶丸即青史に見ゆる龍頭の船

    以 上


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