唐津神社の鳥居について

現在は唐津神社の前に大鳥居、階段を上って手水鉢の脇に二の鳥居、更に境内を進み段を上がれば三の鳥居がある。



一の鳥居(おっと!手前の方の鉢巻は裏返し。三つ巴が右になている。要注意!

気を取り直して再度一の鳥居



二の鳥居


三の鳥居から二の鳥居、一の鳥居を見る

唐津神社社報 第19号  昭和44年10月1日発行を見てみよう。
大手口大鳥居等の移転工事始る
 曩にその筋の要請により大手口の大鳥居、燈籠社号標、幟杭等の取退け方工事が九月九日より始まり目下境内へ移転復元中である。
 実は七、八年前にも金子市長時代に佐伯助役より其の申出があったが、当時神社としても交通事情其他に鑑み不問に附していたのであったが、それから七、八年たった今日になってみると交通事情も変り、車の増加は勿論その車自体、大形長形、重量となり、あの鳥居の処へは平時より歩行者が急増して交通安全上、又危害防止上どうしてもとり退けられたいとの当局の要望に対し、何時までも旧来の光輝ある由緒を固守することなく時代推移、世の変革に対応すべく八月より九月にかけて再三氏子総代会議を開き、その望を容れて境内移転を決心したる次第である。
 尚この処の由来については前にこの社報に詳述したので重複するが、明治二十六年大手口より鷹匠町筋に国道が開設されたるに伴い参道たる明神小路をこの国道に連結させる為にその中にある土手や石垣を崩して壕を埋め、明神小路の道幅も二間より倍以上の五間に拡張したのであるが、その工事も氏子一同の労力奉仕によると言う立派なことであった。そしてその落成式も盛大にとり行われて、此処は明神様のお出ましの処のしるしとして先づ木綿町より大燈籠を、刀町よりは大幟を樹ててその石の杭を奉献した。昭和六年九月には刀町宮崎家より見事なる石の大鳥居を、昭和十九年には県社昇格を奉祝して市内国民学校青年学校児童生徒職員一同より堂々たる石の社号標を奉献されて此処は厳の忌庭とはなった次第であった。
 さて右様の次第乍ら之を境内に移すこととなったので、先ず奉献者に御挨拶申上ぐべく戸川宮司、花田、岸川、白井、近藤、平田、大西の各総代に市よりも加わり、宮崎家より刀町、木綿町の有志代表者、又学校長、教育長に挨拶廻りをして、九月八日には大手口現地に於て戸川宮司以下市長助役、議長、氏子総代、奉納者後裔、工事請負者筒井組、下川自動車総て八十名参列して移転の起工祭を執行し後、社務所にて直会をなし、翌九日、十日、十一日を以て境内移転を終り、十三日より建設復元工事を始めた。

続いて
唐津神社社報   第20号  昭和45年4月1日発行ではこの通り。

大鳥井其他
境内移転奉告祭

 前号に於て報じたるが如く九月八日には大鳥居其他又九月九日には高取翁・保生会及先覚者顕彰碑を移転すべく夫々起工祭を執り行なってより、工事は筒井建設・吉村組・下川自動車工業の三者が請負い、戮力協心神明の加護を頂いて難工事たる解体移転建設に怪我過つことなく、衆人見物の喝采を博しつつ見事に境内移転を完成したので、十月十一日午前十時より宮司以下総代関係者多数参列の上、先づ神明奉告の儀後社務所に於て直会を行ない無事工事の了りたることを感謝祝福した。
 尚移転後の境内配置に付懸念されたが、よく整い以前よりも社頭の威を増す処となった。
 又境外地の高取翁・保生会・先覚者の記念碑も体育館又老人会館の処へと前記工事担当三者にて移転工事も無事完了したので、十二月二十三日の先覚者祭の折三者石碑に対し奉賽の折りをこめて奉仕した。


斯くして昭和44年に現在の配列が完成した。


社報16号の年表を参考に、境内に関するものを抜粋してみよう。

明治28年  唐津神社拝殿落成す。 
明治37年  呉服町稲荷社域内に鎮座 
大正3年  現在の社務所前広場(現在の市民会館)を鈴木氏より買収す。 
大正4年  川人竹三郎百度石奉献 
大正7年  現在の社務所敷地を竹内レマから買収
同時に家屋を買収して社務所とする。
大石町久保利平石燈籠奉献
大正13年  唐津神社々務所新築なる。 
京町岩下定蔵大幟奉献
昭和4年 現在社殿鎮坐地を白水豊記より買収する
昭和5年  宮崎清大手口に大鳥居奉献 
昭和13年  新社殿落成遷座祭
初代天中軒雲月透塀奉納
昭和14年  社殿落成奉告祭 
昭和15年  紀元二千六百年記念式典・消防組大鳥居奉献
消防団の解散により山笠取締会を組織し総取締に木下吉六がなる
正田松太郎国旗掲揚台奉献
昭和25年  国有境内地の譲与払下げなる。 
昭和26年  境内社本町稲荷社改築 
昭和30年  手水舎竣工 
昭和32年  境内に粟島神社鎮祭
水天宮境内へ鎮祭 
   


此処に古い絵はがきがある。「唐津明神全景」とある。
鳥居が一つ。社殿までは随分と近い。
年表に因れば、この社殿は明治28年のもの
階段を上ったすぐに石灯籠があるが、これが大正7年大石町久保利平が奉納した石灯籠
この絵はがきは大正七年以降ということになる。

手前の鳥居だが、これは現在の三の鳥居と思われる。
誰のいつの寄進か確認しないといけない。


inserted by FC2 system